4-2. 今回ばかりは君が悪い
横に引くはずだった短剣を、少年はすんでのところで止めた。仮面が吐き出す機械の駆動音。それに混じって、微かな音がする。
低く抑揚のついた歌――それに思い当たると同時に、彼は拘束していた少女を突き放した。少年が素早く距離を置くと同時に、白銀の髪をふわりと揺らして少女が倒れる。
そして彼女の体は地に着く寸前で、内側から爆ぜた。白光が少年の目を襲い、彼は息を詰めて腕をかざす。自身のまとう白い服が音を立ててはためく。
「――賢い子ね。ちゃんと気付けるなんて」
甘さを含んだ女の声が響いた。それを合図に、光が急速に収まる。少年から少し離れたところに、果たして人影が二つあった。一人は先程の白銀の髪の少女。
そしてもう一人は、少女を抱えた長身の女。片膝をついた彼女はヒールの音を響かせながら立ち上がる。きつく結い上げられた金髪は一筋も乱れることはなく、黒スーツに押し込められた豊満な胸が窮屈そうに動いただけだった。
「ふふっ、こんにちは坊や。今日も相変わらず野蛮なことね」
「……エドナ・マレフィカ」
「名前を覚えて頂けて光栄だわ」
女の腕の中で少女が呻く。どう見ても少女は五体満足で、少年は仮面の奥で目を細めた。今まで戦っていたのは幻影だろう。ならば、一体いつからすり替わっていたというのか。
女がふっくらとした唇に人差し指を当てた。細縁の眼鏡の奥で、
「坊や、
「……それがどうした」
「私の術を見るのは初めてでしょうに、ちゃんと見抜けて偉いわね」
「それはどうも」
「でも同情しちゃうわ」
少年は仮面の下で片眉をぴくりと押し当てた。当てこするように笑みを深めた女は、ついと少女の右手の甲を取り上げて口づける。
「だって後は、いつもと同じ……貴方達が負ける流れだもの」
親愛も思慕も憐憫もない、ただの儀式としての口づけ。それに応えるように少女の白い肌に緋色の文様が走る。猫の人形が地に落ちる。ばちんと、何かが外れる音がする。
少年は深く腰を下ろして仮面を叩いた。
『
仮面が切り替わるのを待たずに後方へ体を捻る。動かした短剣の切っ先が、金属質の何かを受け止めた。
緋色に輝くそれは、ほっそりとした少女の右足。
「……あっは! ひっさしぶりじゃない! 仮面のオニーサン!」
赤が舞う。緋が舞う。その中で、先程まで女の腕に抱かれていたはずの少女が、白銀の髪を揺らして笑う。真っ赤な瞳に灯る猟奇的な光を灯らせて。
*****
「効いてる……効いてるぞ……!」
ぼさぼさの頭を振り乱し、ベルニが歓声を上げる。先程までの怯えはどこにいったのか。ぼんやりとした呆れは、ラナの中で確たる形にならぬままに消えていく。
六人目。回らぬ頭でラナが思う。彼女の眼前で、月白の光に当てられた狼の姿が溶ける。ぐらりと獣の体躯が傾き、地面に落ちる頃には人の形に戻っていた。
一人目の時は喜びがあった。二人目の時も。けれど、それ以上後の記憶は曖昧だ。ラナは肩で息をする。目眩と頭痛に体がふらつき、慌てて時計を握って堪えた。シェリルの時には感じたことのない不調に唇を噛む。懐古時計の輝きに衰えがないことだけが、救いだった。
狼の唸り声が聞こえた。ラナはぐらつく頭を上げる。最後の一匹の狼が間合いを測るように地を掻いている。
耐えろと、ラナは己の体に言い聞かせる。これで最後だ。自分にだって出来るんだ。彼らを救うことが出来る。
左手の中で、懐古時計がカチリと時を刻む。狼が地を蹴る。ラナは口を動かす。
『冠するは、』
『冠するは楔』
ラナの声を掻き消すように、詠唱が響いた。低い声が彼女の鼓膜を震わせ、煙草と香水の混じった香りが鼻先をくすぐる。気づいた時には遅かった。ラナの体は強く後ろに引かれ、アランが革コートを揺らして一歩踏み出す。
『万世の輝きを以って 繋がれた罪人を貫け』
澄んだ音と共に薄緑色の輝きが爆発し、狼が悲鳴を上げた。ラナは青ざめる。
何が起こっているのかは、アランの背に隠れてよく見えなかった。それでも彼が何をしようとしているのかは手にとるように分かる。
「っ、待って! アラン!」ラナはアランの腕に縋った。頭の痛みに顔をしかめながら、必死に右手で腕を引く。「駄目だ! 殺さないで!」
「殺さないで?」
「私が治すから……っ!」
アランが小さく肩を揺らした。半歩だけ体をずらし、ラナの方を見下ろす。彼女は息を飲んだ。アランは微笑んでいる。だが視線は冷たい。
ラナの視界の端で、結界に縫い留められ地面でもがく狼が見えた。その結界の放つ薄緑色の輝きが、アランの横顔に影を落とす。
「ア、ラン……?」
「ラトラナジュ。愚かで愛おしい君。自由であるべきはずの君に枷をつけるなど、本来は愚かしい行為だが」
声音だけは優しいまま、アランは自身の腕にかかっていたラナの右手を取り上げた。そのまま指を絡め、ラナをぐっと引き寄せる。たたらを踏んだラナの左手、光を放つ懐古時計にアランの手が触れる。装飾腕輪が月白の光を弾いて鈍く輝く。
そしてアランは愛おしそうにラナの手の甲へ頬ずりし、静かにそこへ口づけた。
「っ、何する――……っぁ!」
ラナの抗議の声は、形にならずに悲鳴に終わった。微かな痛みと共に、ぞくりとした冷たい何かがラナの体を巡る。鎖が擦れる澄んだ音がやけに大きく聞こえた。左手に絡みつくような重みを感じると同時に、ラナの手の中で懐古時計の光がふっと消える。
アランは身を離し、顔を歪めるラナの目元を左手でするりと撫でた。
「分かっているだろう? 今回ばかりは君が悪い」
ラナが我に返った時には遅かった。アランが左手で指を鳴らす。狼を縫い止めていた
「そ、んな……」
ラナの足から力が抜けた。アランの顔には変わらぬ笑みが浮かんでいて、ラナを気遣う素振りすらある。けれど、それがひどく恐ろしく感じるのは何故なのか。
アランが再び左手を差し出す。その手をラナが払えば、彼が意外そうな顔をする。
「ラトラナジュ?」
「どうして……」
継ぐ言葉を見つけられず、ラナは唇を噛んだ。どうして? それは自分が失態を演じたせいだ。そんなことは分かっている。彼は自分を助けてくれただけ。そんなこと、痛いくらいに分かっている。でも、けれど。
ラナは項垂れた。その彼女の頬を掠めるようにして、ばらりと音を立てた青の世界が消えていく。元の世界が戻ってくる。
傾き始めた太陽が、野次馬と警官の押しかけた遊歩道を橙色に染めていた。
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