4-1. ――生体骨格起動
ラナが目を開けた時、世界は一変していた。
辺り一面、青い靄が立ち込めている。
それは夜明け前の青。あるいは日没直後の青。緩く渦巻く隙間に、残照のような黄金色の煌めきが垣間見える。
目の前にあったはずの道はない。誰一人いない空間でラナは体を震わせ、両腕をさすった。ひどく寒い。まるで、シェリルの闇に取り込まれたときのような。自然と湧き上がった言葉に、体の芯が一段と冷える。
「っ、助けてくれ……っ!」
不意に、男の悲鳴が届いた。右前方だ。ラナが顔を上げた先で、青い靄が揺れる。
一拍遅れて飛び出してきたのは男だった。ぼさぼさの頭にみすぼらしい服を纏っている。無様に転がり込んだ彼は、地面の上で頭を抱えてうずくまった。
ラナは慌てて駆け寄る。
「大丈夫かい、あんた……!」
跪いたラナは、男の体を軽く揺すった。小さな呻き声は電話口から聞こえた声と同じだ。彼が依頼者――ベルニなのだろう。
ぶるぶると震えながら、ベルニが顔を上げた。
「お、お前……誰だ……?」
「誰って」あまりのベルニの怯えっぷりに、ラナは思わず苦笑いしながら肩をすくめた。「教会の人間だよ。ほら、あんたさっき電話してただろ。呪いの絵のことで」
「呪いの絵……! そう、そうだ! エドの野郎があれを開いたから、化け物が……!」
「化け物?」
ラナの問いに対する答えは、果たして形をもって示された。
ひたり、と足音がする。先程、ベルニが飛び出してきた方角で再び靄が揺らめき、ラナは身を固くした。
よろめくように姿を表したのは、身なりのよい男だ。通行人の一人だろうか。右手に鞄を持っている。彼はラナ達から少し離れたところで立ち止まった。呆けたように口を開け、虚空を見上げる。
「……悲し、い」
ぽっかりと開いた男の口から呻き声が漏れた。それがなにかの合図のようだった。悲しい苦しい。静寂に、狂ったようにたった二つの言葉が響き始める。頭をかきむしる男の周囲の青が揺らいだ。霧は男の周囲を取り巻く。身を折って嘆く姿を隠す。嘆きの声に応じて膨化し、獣のごとき形を取る。
現れるは、青の毛並みを持つ狼。
己の身の丈ほどもある獣に、ベルニが情けない悲鳴を上げた。ラナは唾を飲み込む。いつぞやの廃ビルで見たのと、全く同じ光景だ。
懐古症候群に感化された人間。アランの言葉がよぎった。それを肯定するように、ラナの胸元に下がった懐古時計がカチリと音を立てる。
「……っ、あんたは、下がってて」
ラナはベルニを庇うように立ち上がりながら時計を握った。出来るか、出来ないか。頭に浮かんだ疑念をラナは一蹴する。
これが懐古症候群であるならば、何とか出来るはずだ。ラナは前を向き、狼を睨みつけた。
『冠するは時――!』
彼女の詠唱に応じて、時計が淡く光り輝く。
*****
耳に押し当てた携帯端末からは、呼び出し音が響いている。
「……っ」
早く。祈るように思いながら、アイシャは一層強く携帯端末を耳に押し当てた。腕の中のニャン太をぎゅっと抱きしめ、辺りを見回す。
視界いっぱいに広がるのは青い靄だ。周囲に人影はなく、先を見通すことなど勿論できない。
十中八九、懐古症候群に起因する異常空間だった。アイシャは顔を曇らせる。あの時、異様な言動を発する人間はいなかった。恐らく起点となったのは、青い光を放った絵。ラナの受けた電話から考えるに、あれが呪いの絵だろうが……。
ラナ。はぐれてしまった彼女を思えば、アイシャの胸が石でも飲み込んだように重くなる。彼女は大丈夫だろうか。あの教会にいるからには、彼女も自分と同じ魔術師なのだろう。けれどきっと、魔術師になってから日は浅いはずだ。未熟な魔術師が分断されるような状況だけは避けるべきだったのに。
そこでやっと、呼び出し音が鳴り止んだ。もしもし、と、面倒くさそうな女の声が響き、アイシャは端末をぐっと握りしめる。
「え、エドナっ、緊急事態にゃっ! 懐古症候群が、」
『――
不意に降り注いだのは、無機質な音声と微かな機械の駆動音。アイシャは弾かれたように顔を上げた。視線の先、ありえないほど高く跳躍した人影が彼女に向かって飛び降りてくる。
その顔を隠すのは機械じみた
はためくのは真っ白な服の裾。
そして右手に握られているのは短刀。
「っ……」
振り下ろされた一閃を、アイシャは紙一重で躱した。彼女の手から滑り落ちた携帯端末が地面に転がる。
それを、強襲者は踏み砕いた。
「実験の邪魔をしないでくれ。
仮面の下から響いた涼やかな少年の声。黒灰色の髪。褐色の肌。白の服に無骨な短剣。その全てに見覚えがあって、アイシャは歯噛みした。己の迂闊さを呪いながら呻く。
「
「今日は、あの女は一緒じゃないんだな」じりと後ずさるアイシャから目を離さないまま、少年がゆらりと短剣を振るった。「先程の電話はさしずめ応援を呼ぶってところか」
「だったら何だって言うんですにゃ」
「同情してる」
「同情?」
「あぁ」
何の感情も滲まぬ返事の後、少年は再び短剣を構えた。磨かれた刃にアイシャの硬い表情が映る。
「だって君は、枷を外してもらわないと魔術を使えないんだろ」
アイシャがニャン太を抱きしめるのと、少年が彼女に向かって駆け出すのは同時だった。猫の如く敏捷に、体をしならせて少年は短剣を突き出す。それを後退しつつ躱しながら、アイシャは必死で頭を巡らせた。
反撃は、できない。アイシャは右手の甲を擦り、唇を噛む。アイシャのように未熟な魔術師は、魔術を暴走させることのないように枷をつけられている。枷を外すためには、自分以外の誰かの協力が必要だが、もちろん周囲に人影など無い。
じゃあ、このまま逃げることはできるのか。胸中から返ってきた答えは肯定だった。幸いにして靄の中には障害物もなく、少年の動きも単調にならざるを得ない。アイシャの記憶が正しければ、彼の身につけている仮面は身体強化を促す類の装置のはずだった。
そして、ただの身体強化である限り、アイシャが遅れをとることはない。
ならば取るべき策は唯一つ、時間稼ぎだ。彼女が心に決めたところで、アイシャの首元を狙い、少年が横薙ぎに短剣を動かす。首を捻って皮一枚で避けたアイシャは、少しでも脅威を減らそうと、短剣を持つ少年の右手首を握った。
それが、いけなかった。
『
仮面が声を吐き出す。駆動音と共に、瞬時に仮面の形が変化した。豹から熊の形へ切り替わる。同時にアイシャの腕が少年の左手に捕まった。
「っ、あ……っ!?」
華奢な少年の手からは考えられないような剛力で、アイシャの腕がねじ上げられる。激痛に彼女は悲鳴を上げる。
けれど少年は、どこまでいっても無感動だった。
「――どうぞ安らかに。痛みは一瞬だ」
そう、呟く。そして彼は、アイシャの首元に短剣を押し付けた。
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