8. なら、覚悟を決めればいい

「不測の事態というものは、いつだってつきものだ。そうだろう、神父殿ファーザー?」

「お、俺は言い訳を聞きにきたんじゃないぞ。あ、アラン・スミシー」


 娼館の一室に、刺々しいやりとりが飛び交う。先程から延々と続くやり取りに、ベッドに浅く腰掛けたラナは一つ息をついた。隣の部屋で眠る親友を思う。一階の安部屋はとかく壁が薄い。この声が彼女の眠りを妨げていなければいいのだけれど。


「い、いい加減にしろっ」


 勢いよくテーブルが叩かれた。ラナは首をすくめ、そろりと視線を上げる。顔を真っ赤にした祭服の男がテーブルの端に腰掛けたアランに詰め寄っていた。


「お、お前が大人しく待っていれば! こ、こんなことにはならなかった!」

「そう、それで?」


 アランは薄笑いを貼りつけたまま、懐から煙草とジッポを取り出した。咥えた煙草に火を点け、一息吸う。祭服の男の肩が目に見えて震えた。


「ひ、被害が拡大すれば……ど、どう落とし前をつけるつもりだった?」

「…………」

「そ、そもそもだ。わ、我々魔術師は人目につかないよう、行動すべきと……ひ、日頃から言ってるだろう!」

「…………」

「あ、あまつさえお前は期日を破った。そ、その上、対象者二人を、し、始末しないどころか、」

「くどい」

「っ!?」


 静かに煙草をくゆらせていたアランは、吸い込んだ煙を祭服の男に吹きかけた。男が顔を歪めて咳き込む中、アランは何食わぬ顔で言葉を継ぐ。


「益体のない仮定で糾弾するのは、控えていただきたいものだな」アランは摘んだ煙草を指で叩き、先端に溜まった灰を空気に散らした。「懐古症候群トロイメライの患者はいなくなっただろう」

「そ、それは……そ、そうだが……」

「騒ぎが大きくなる前に、ここら一帯に人除けの結界を張ってくれたのは、他ならぬ神父殿だ」

「だ、だが……」

「結果として、懸念するような危機的事態は起こらなかった。ならば反省など無意味だ。違うか?」

「う……」

「まだ、なにか?」


 煙草に口をつけたアランが、なおも言い募ろうとした祭服の男を冷たい目で睥睨する。アランの背が高いことも相まって、男は完全に彼の勢いに飲まれていた。先程までの威勢は既に無く、顔を青ざめさせる。


「……い、いや……お、俺は……別に……」もごもごと言いながら、祭服の男は身を縮こまらせた。「……た、ただ……そ、組織の長として……」

「組織の長として? なんだ?」


 男は悲しげに首を横に振った。アランが勝ち誇ったように鼻を鳴らし、煙草をくゆらせる。ラナは思わず、祭服の男に声をかけた。


「あの……」


 男はのろのろと振り返った。出会った時の冷たさはどこにもない。それにますます罪悪感を感じながら、ラナは口を動かす。


「ええと……私も、悪い、というか……」視界の端で、アランが柳眉を潜める。それを無視して、ラナはできる限り優しく祭服の男に声をかけた。「私が、頼んだんだ。シェリルを助けて欲しいって。だから、その、すまない」

「……ら、ラトラナジュ・ルーウィ」


 男の声が感極まったように震えた。ラナが驚く間にも、彼は小走りでラナの方に近づき、足元に跪く。


「き、君は……本当に優しい……」

「優しいなんて、そんな……ただの事実だし」

「た、ただの事実であろうが……お、俺にとって事実は事実だ」ラナが身を引いた分だけ、男がぐいと身を乗り出した。「お、驚かなくてもいい……あ、アランといい、エドナといい、そ、魔術協会ソサリエには面倒なやつばっかり」

「ちょ、近……っ!?」


 バランスを崩したラナは、ベッドの上に後ろ向きに倒れた。その彼女を腕で囲うようにして、祭服の男がラナを見下ろす。


「だ、だが……そ、それも今日でおさらばというわけだな。き、君がうちに来てくれるのならば」

「え?」


 ぽかんと口を開けるラナに、祭服の男はにこにこと微笑んだ。前髪の隙間から覗く深緑色モスグリーンの瞳がラナを捉え、微かに細められる。


「き、君は魔術師だ。な、なれば、魔術協会に所属するんだろう?」

「……っ、え……?」

「そこまでだ、神父殿」


 アランの冷たい声と共に、無骨な手が男の肩を無造作に掴み、ラナから引き離した。

 ラナは我知らず詰めていた息を吐き出す。身を起こせば、アランが男を乱暴に突き放しているのが見えた。


「気安くラトラナジュに近づかないでもらえるか」

「……そ、そういうわけには……、い、いかないだろう……」顔を逸しながらも、祭服の男がぼそぼそと呟いた。「む、無所属の魔術師を放っておけば……な、何を言われるか……」

「ヴィンセント神父」

「と、三機関会議トライアドがっ」


 祭服の男が声を張り上げた。アランの剣幕に圧されたように体を震わせる。それでも開いた口をそのまま動かす。


「と、三機関会議が……ち、近いんだ……。た、ただでさえ我々は立場が弱い。だ、だが……お、お前も彼女の力を見ただろう? あ、あれなら……」

「――すまないが、ラトラナジュ」


 祭服の男の言葉を遮って、アランがラナの方に視線を向けた。慌てて居住まいを正すラナに、いつもと変わらぬ笑みを浮かべる。


「少し、席を外してくれるか」

「え、でも……」

「君には関係ないことだ」

「関係ない?」ラナは耳を疑った。思わず立ち上がる。「待ってくれ。私のことを話しているんだろう? そ、そりゃあ、あんたたちの事情は詳しくないけど……それくらいのことは、私にだって分かる」

「流石は我が愛しの君だな。頭の回転が早くて実にありがたい」

「なら、」

「だがな、ラトラナジュ」

「っ!?」


 アランが人差し指で、ラナの唇に触れる。ひやりとした感覚に、ラナは思わず口を閉じた。アランが金の目を光らせ、音もなく彼女の耳元に唇を寄せる。


「覚悟がないのなら、これ以上は踏み込むな」


 冷たい声にラナは身を固くした。体を離したアランは薄く笑い、ラナを強引に部屋の外へ追い出す。


 ぱたんと、ラナの背後で扉が閉まる。やや遅れて振り返ったラナは、固く閉ざされた扉を前に数度息をした。たった一枚の扉だ。鍵だってかかっていない。けれど、その一枚がやけに分厚く感じる。


 覚悟。ラナは胸の内で、ゆっくりと繰り返した。覚悟がないから、アランは自分を遠ざけた。その事実が、時間と共にじわじわと心臓を冷やしていく。鼓動する度に冷たい血液が全身を巡る。そこでやっと、ラナは気がつく。


 自分は、少なからず彼を信用しかけていたのだ。


「不細工な顔」


 不意に、横合いから声がかかった。目元を乱暴に擦り、ラナは顔を向ける。

 隣室の扉が半開きになっていた。その柱に寄りかかるようにして、腕組みをしたシェリルが立っている。


「うるさいから起きてみたら……なんて顔してるのよ、ラナ」

「……シェ、リル……」

「あぁ、言っとくけど、体調はすこぶる良好よ。ちょっと眠いくらいで」口早に言葉を続けた彼女は、大股でラナの方に近づいた。「それで? 何をされたら、そんな顔になるわけ?」


 再び腕を組み、ラナをじっと睨む。顔色こそ良くないものの、それはまさしくラナのよく知るシェリルだ。少しばかり呆気にとられていたラナは、やがて小さく噴き出す。

 シェリルが眉間に皺を寄せた。


「なによ」

「い、いや、ごめん……変わらないなぁって……」

「失礼ね。せっかく心配してあげてるのに」

「気持ちはちゃんと伝わってるよ」

「どうだか」


 投げやりに返しながら、シェリルは壁にもたれかかった。人気のない薄暗い廊下に沈黙が落ちる。

 シェリルがラナの背後の扉に、ちらと視線を送った。

 ラナの懐で、懐古時計がかちりと控えめな音を立てる。


「……誰もいないのね」


 再び廊下に視線を向けながら、シェリルが口を開く。当たり障りのない質問にほっとしながら、ラナも壁に背を預けた。

 人祓いの結界を張ってるんだ。そう返せば、シェリルが鼻に皺を寄せた。


「結界って、何よそれ?」

 

 ラナは苦笑いしながら頬をかいた。


「ええと、魔術の一つ……らしいんだけど」

「まさか、それもあいつの仕業? あの、金髪のいけ好かないやつ」

「いや……もう一人来てるんだ。神父って呼ばれてる、なんだか冴えない感じの男の人」

「ふうん。魔術師ってのは、どいつもこいつもロクでもないのね」

「……言われてみればそうかも」


 二人で目を合わせ、どちらからともなく笑う。

 廊下の暗闇は変わらない。それでも、先程よりはずっと、その暗闇が優しくなった気がする。笑みを納めたラナは、シェリルがじっと自分の方を見つめている事に気づいた。

 それで? そう問いかけたシェリルは、そっと首を傾ける。


「ラナはこれからどうするの」

「え……?」

「このまま、ここで暮らすわけ? まぁそれも悪くないだろうけど」ラナから視線を外しながら、シェリルはゆるりと視線を宙空に浮かせた。「娼館から出られるかもしれないチャンスは活かすべきよね」


 ラナはすぐに返事ができなかった。口を開け、しばらくしてから口を閉じる。それを何度か繰り返して、やっと唇が音を紡ぐ。


「……魔術師だって、言われたんだ。私」

「あら、良かったじゃない」

「良くなんかないだろ。魔術師は懐古症候群の人間を殺すんだぞ?」

「でも、あんたは誰も殺さないわ」


 シェリルはきっぱりと言い放った。唖然とするラナを見やり、唇の端を上げる。


「あんたは私を助けてくれた。よく分からないけど、そういう力なんでしょ? まぁ……あんたのことだから、力なんか無くたって、助けようとするでしょうけど」

「そ、れは……」

「違う?」

「……違わない」

「なら、いいじゃない。魔術師だろうが何だろうが、関係ないわよ」

「そ、っか……」シェリルの言葉の力強さに、ラナはゆっくりと目を瞬かせた。「……そうだね」


 視線を扉に向ける。アランと神父はまだ話しているらしい。出てくる気配はなかった。アランの警告が蘇る。覚悟がないなら、これ以上は踏み込むな。


 ――なら、覚悟を決めればいい。ラナは不意に思った。それで、自分たちと同じように苦しんでいる人を助けられるというのなら。


「……シェリル」

「なに?」

「私……魔術協会に入ろうと思う」

「うん」


 ラナが視線を向けた先で、シェリルはにこりと笑った。いいんじゃない。いつもと変わらない調子で一つ頷いて、ラナの手を握る。


「大丈夫よ。ラナなら」

「……うん。ありがとう」


 ラナは微笑んで、シェリルの手を握り返した。


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