7-2. きっと、大丈夫
真っ暗な闇は、ラナの体温をすぐに奪い取っていった。上も下も分からない。自分と暗闇の境が曖昧になっていく。その中で、懐古時計の歯車の音だけが響いている。
シェリル。ラナは必死に手を動かしながら、呼びかけた。シェリル、どこにいるの。
「――なんで」
小さな声と共に、視界の端で亜麻色の髪が揺れた。踊る毛先を追って振り返れば、不意に景色が変わる。ラナの足が固い地面を踏む。
気づけば、ラナは娼館の廊下に立っていた。足元に据えられた間接照明が、ぼんやりと暗闇を照らしている。
シェリルは、ラナに背を向けるようにして廊下を歩んでいた。置いていかれまいと、ラナも足を動かす。
「なんで、来たの」
とつとつと歩きながら、シェリルが問う。感情の伺いしれない平坦な声が、誰もいない廊下に響いた。ラナの懐では、懐古時計が相変わらずの音を立てて時を刻んでいる。服の上から時計を握りしめ、ラナは慎重に口を開いた。
「助けに来たんだ」
「馬鹿じゃないの」
「馬鹿って……」
それは、あんまりな言い方じゃないか。ラナは眉を潜めた。返す言葉が途切れる。懐古時計の放つ音が大きくなる。
「馬鹿よ」シェリルは、やや語気を強めて言った。その足元では、小さな影がゆらりゆらりと足取りに合わせて揺れている。「助けてなんて、言ってない。そうでしょ」
「……私は、助けたいんだよ」
「なんで?」
「君は、親友で、家族だろ」
「親友で、家族?」
シェリルはラナの声音を真似るように口ずさんだ。乾いた笑いと共に、むき出しの肩が震える。
「私は、そんなこと思ってないわよ」
視界の端に何かがよぎった。右隣の白い壁。それを見て、ラナは息をのむ。
壁に、幼いラナとシェリルが映っている。泣きじゃくるラナの手をシェリルが引っ張っていた。ラナは目を奪われた。忘れるはずがない。これは、ラナが娼館に来て、初めて客の相手をした日の光景だ。
「世間知らずのあんたの世話は、苦痛でしかなかったわ」
歩みを止めぬまま、シェリルが淡々と言葉を吐き出す。それと共に、左手の壁に鮮やかな影が映った。
少し成長したシェリルが、気だるげに二階の廊下から中庭を見下ろしていた。視線の先にはラナがいて、言い争う客を前に途方に暮れている。ラナが困ったように視線を上げれば、シェリルが口を動かした。もっと煽りなさい。それで、あんたの価値を釣り上げればいいのよ。
「あんたがいなければ、私はもっとたくさんの客に愛されてた」
先を歩くシェリルの髪が揺れる。それに合わせて、壁に映る影も揺らめいて形を変える。
雨のように、水が降り注いでいる。一糸まとわぬ姿のまま、シェリルがラナに掴みかかっている。どうしてあんたばっかり、愛されてるの? 顔を歪め、ラナに叫んでいる。
「頑張って努力してるのに、私は病気になって、結局はあんただけが幸せになっていく」
ラナは小さく息を漏らした。壁に映るシェリルの顔は苦しげだ。思わず手を伸ばす。その指先で、幻は溶けるように淡い粒子となって消えていく。
あとに残るのは静かな廊下だ。誰もいない、薄暗い、いつもの廊下。
シェリルが立ち止まる。振り返らないまま、彼女は息をしている。
ただ、ただ。静かに。
「逆恨みよね。分かってる。汚いし、醜い。ちゃんと分かってる」
「……シェリル」
「でもね、誰だって綺麗な感情だけでは生きていけないのよ。だから苦しいの。悲しいの。息なんかできないの。あんたがいなくなれば、きっと私は生きやすくなるのよ。きっと……きっと……」
一息に言って、シェリルが拳を握った。折れてしまいそうなほど細い指は力が入りすぎて真っ白だった。顔を俯けた彼女の髪が、輝くこともなくばさりと落ちる。
「だからお願い、いなくなってよ。ねぇ……ねぇ……汚い私を軽蔑して、見捨てて、どこかにいってよ。死にたくないというなら、私をいっそ殺してよ。あんたみたいに綺麗になれない、私を」
悲鳴のような声が、真っ暗な廊下に響いた。それはラナの胸を正確に抉って、心臓を突き刺す。冷たい破片が全身を巡る。立ち止まりたくなる。けれど。
「――馬鹿だな、シェリルは」
呟くようなラナの言葉に、シェリルが体を震わせた。目の奥が熱い。それでも必死にこらえて、ラナは笑う。ゆっくりと親友に近付く。
「私は、綺麗なんかじゃないし」
壁に、再び影が映った。ラナとシェリルの、一番最初の記憶。シェリルがベッドに腰掛け、床に座り込んだラナを馬鹿にしたように見下ろしている。
「君が苦しいって思ってた、その気持ちにも気づかないで救われた気になってる愚か者だ」
あんた。今私のこと、綺麗って思ったでしょ。壁に映ったシェリルが、得意げに笑う。鮮やかに輝いている思い出の横を通り過ぎて、ラナはシェリルの元に辿り着く。
「それでも、君を助けたいんだ。たとえ君が私のことを嫌っていたとしても、私は君のことが嫌いじゃない」
「……私は、汚いのよ。助ける価値なんてない」
「たとえ綺麗じゃなかったとしても」ラナはシェリルの体にそっと腕を回した。「君は大切な親友で、家族だ。生きてて欲しいんだ。この気持ちは、何も変わらないよ」
シェリルが引きつった息をした。
「……おかしいわ」亜麻色の髪が弱々しくラナの手を叩く。「おかしいわよ、あんた」
「そうかも」
ラナは笑う。でもね、とそう続ける。ぎゅっと抱きしめる。細い体は暖かくて、確かにシェリルがいるのだと、教えてくれる。
「希望をくれるおかしさにすがって生きた方がいいって、教えてくれたのはシェリルだから」
壁の中で、あの日のシェリルが微笑む。きっと、大丈夫。いつだって、ラナの背中を押してくれた言葉は、今だって太陽のようにきらきらと輝く。
自分たちを導いてくれる。
「――だから、帰ろう。シェリル」
ラナの、その言葉を待っていたかのようだった。
懐古時計が一際大きな音を立てる。澄んだ音が周囲の景色を震わせる。
ラナの懐から仄白い光が溢れた。迷うことなく取り出せば、鼓動のように明滅しながら、懐古時計が輝いている。月明かりのような輝きに照らされたそばから、周囲の景色がページをめくるような音を立てて消えていく。
その下から現れるのは暗闇。底さえしれない深い闇が、再びラナ達を飲み込もうと大きくうねる。それに感化されたように、ラナの腕の中にいたシェリルが崩折れた。慌てて身をかがめ、ラナは総毛立つ。シェリルの体の端々を蝕むように、闇が染み込んでいる。
「……っ、駄目……!」
ラナは必死に右手で時計を掲げた。そこから漏れる光は、確かに闇を退ける。けれどその輝きは弱く、今にも消えてしまいそうだ。
諦めたくない。ラナは必死に願う。諦めたくないんだ。その願いを否定するように、暗闇の一つが植物の蔦の形を模した。ラナ達に飛びかかる。
刹那、紅の光が闇を裂いた。
「……まったく、君は本当に無茶をする」
靴音と共に、涼やかな声が響く。
ラナが振り返ると同時に、僅かに途切れた闇の隙間からアランが現れた。彼の指先で紅の石が欠片となって消えていく。足を僅かに引きずりながらも、薄い笑みを浮かべた彼の表情に変わりはない。
「さて、ラトラナジュ……君には言いたいことが山程あるわけだが」ラナの手元で輝く懐古時計を見やり、アランは目を細めた。「まずは君に、もう一働きしてもらわなければ」
「私が……?」
「そうとも。その懐古時計は君にしか扱えないものだからな」
アランはラナの側にぎこちなく跪いた。足の怪我は大丈夫なのだろうか。ラナが戸惑った視線を上げるものの、アランはゆるりと首を振って、彼女を抱き寄せただけだった。
そのまま、アランはラナを包み込むようにして左手を伸ばした。時計を掲げるラナの手に、アランの骨ばった手が重なる。
さぁ、息をして。どこか艷めいた声が、ラナの耳に吹き込まれる。
「俺の言葉をなぞれ――冠するは、」
『……冠するは、時』
アランの掠れた声がじんと脳を震わせる。触れ合った肌から熱が伝わる。煙草と香水の香りに酔わされる。
それでもラナは、導かれるままに口を動かす。
『千切れた運命を手繰り寄せ 廻る世界へ引き戻せ』
ラナの指先がぴりと痛んだ。それと共に、懐古時計から放たれる光がぐっと勢いを増す。月白の輝きがシェリルの周囲にまとわりついていた暗闇を祓う。
そして光はそのまま風となり、闇を切り裂き、黒を焦がし、跡形もなく消滅させる。視界が晴れるのに、そう時間はかからなかった。
闇が完全に消える。そのタイミングで、懐古時計の光もふつりと消える。訪れた夜闇は優しく、裏路地特有のこもった臭いをはらんだ風が、ラナの頬を掠めていく。
「……終わっ……た……?」
ラナは呆然と呟き、時計を力なく落とした。思わずよろめけば、苦笑交じりにアランに抱きとめられる。彼が何事かラナに呟いた気がしたが、耳には入ってこなかった。
全力疾走をした後のように、体が怠い。それでも、のろのろとシェリルの方へ視線を向ける。瞼こそ固く閉じられているが、その胸は規則正しく上下していた。顔色も良い。だからこそラナは直感した。
終わったのだ。じんと目の奥が熱くなる。もう、大丈夫。きっと彼女は。
「……ま、まさか……と、
不意に、路地に影が差した。それにラナは顔を跳ね上げる。
小柄な男が、ゆっくりとラナ達の方に近づく。首まで着込んだ
テオドルスではない。けれど、じゃあ誰なのか。ラナが身を固くする中、アランが鷹揚に声をかけた。
「これはこれは……流石は
「アラン・スミシー」
踵を高らかに打ち鳴らし、神父と呼ばれた男はラナ達を冷ややかに見降ろした。
「こ、これが、どういうことか……説明してもらおうか?」
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