7-1. ――ありがとう

 窓から飛び出したアランを生ぬるい夜気が包む。風に煽られ、耳飾りが音を立てる。そして彼の眼前に迫るのは地面――ではない。

 巨大な穴だった。その縁で黒い蔦が蠢く。さながら食虫植物をも思わせる中心で、亜麻色の髪を闇にそよがせシェリルが笑う。

 アランは目を眇めた。


『術式展開――』


 装飾腕輪から取り出すは、先と同じ黄緑色の石。

 オリビン、あるいはペリドットと呼ばれる輝石が強く瞬く。


『冠するは太陽 恐れを退け宵闇を散らせ』


 再び強く風が吹いた。アランの降り立つ先の闇を吹き散らす。千切れた影が辺りに散らばる。アランの足が硬い地面を踏む。

 シェリルが笑い声を上げた。


「そう何度も同じ手が通じると思ってるわけ!?」


 辺りに散らばった蔦が、瞬く間に繋ぎ合わさった。鞭のようにしなる。風を切る。アランはさっと己の左手に視線を這わせた。腕輪に嵌まる輝石の数は残り四個。小さく息をつき、迫る蔦を軽やかに後退しながら避ける。


「あぁやっぱりね」表通りから漏れるネオンの光を背にして、シェリルは足音高く歩きながら、アランを追い詰める。「あんた、私のことを攻撃する気ないでしょ」

「ほう? 大した推測だな」

「あら、推測なんかじゃないわ」


 足元を狙った蔦を、すんでのところでアランは躱す。シェリルはにこりと笑った。


「本当に私のことを攻撃したいなら、炎を使えばいいじゃない。一番最初に攻撃してきた時みたいに」

「あれは特別さ。誰だって愛する人が危機に瀕していれば、形振りなどかまってられないだろう?」

「愛する人? はっ、笑わせないでよ。あんたにとって、私達なんてただの娼婦でしょ?」

「娼婦? 馬鹿を言うな」アランは足を止めた。薄く笑う。「ラトラナジュは特別だ。恋とは、そういうものだろう?」

「……っ、ラナ……ラナラナラナ! さっきからうっさいのよ! あんた!」


 シェリルが顔を歪める。蔦が逃げることを止めた獲物に殺到する。

 アランは再び輝石を掴んだ。口づけと同時に掲げるは電気石トルマリン


『冠するは雷 悪を穿ち絶対の正義を示せ』


 指を擦り石を弾く。

 ――刹那、現れるは一筋の閃光。雷の如き白光は迫る闇を一瞬で祓う。

 その先で、しかしシェリルは微笑みを崩さぬままに指を鳴らした。


 アランの背後で影が歪む。地面から黒き植物が芽吹き、伸び、蕾をつける。アランが振り返る、その時には遅い。

 漆黒の薔薇が花開き、アランをまるごと飲み込む。


 アランの視界が黒で覆われた。シェリルの高笑いが聞こえてくる。じとりと濡れる闇は冷たい。底なし沼のように足元が沈む。手を動かしても何かに当たる感覚はない。自分という境界が曖昧になっていく感覚。


 あぁこれは食われるな。アランは他人事のように思った。確かにこれは恐怖だろう、と。

 だが、裏を返せばそれだけだった。


『永久の炎はくびきを砕き』紅玉ルビー楔石スフェーン散乱石ディアスポア。暗闇の中でも確かに輝く石を掴み、アランはそっと口づける。『――戒めのくさびを解き放つ』


 紅の石が爆ぜ、小さな炎が生まれる。人工ルビーだ。炎は小さい――だが、火種としては十分。

 熱せられた散乱石が爆発する。爆風と共に、炎を帯びた石が細かな破片となる。その断片は楔石を砕き、周囲の闇に刺さる。


 そして闇が、一瞬にして燃えた。炎をまとった無数の輝石の破片は、爆風に乗って裏路地を走る。目を見開くシェリルの元へ走り、彼女の周囲にあった闇を焼く。


 逃げを打とうとしたシェリルの動きが止まった。その足元に刺さった楔石の欠片が薄緑色の燐光を放つ。見えない力で押されるように、シェリルが跪く。


「……なによこれ……っ……!?」

「結界のようなものさ」アランはゆっくりとシェリルに近づいた。懐から煙草を出し、闇を燃やす炎にかざして火をつける。「結界術は本来は神父殿ファーザーの得意分野だがな……君を一時的に拘束するくらいのことならば造作ない」


 シェリルが唾を撒き散らしながら喚く。視点は定まっていない。

 典型的な懐古症候群の症状だ。淡々と煙草をふかし、アランは彼女の眼前で立ち止まる。惨めで哀れで見苦しい。何度となく見てきた光景を、ただただ見下ろす。


「離して……離してよ……ッ」

「それは出来ない相談だ。他ならぬラトラナジュの頼みだからな」

「……あんたは……ッ……いつもそうやって、あの子と一緒に出ていくのよ……! あの子だけを幸せにして、それで、私はいつだって放って置かれて、真っ暗で、誰にも見向きされなくて、惨めで……っ」


 シェリルが引きつった呼吸をした。不意に顔を上げる。その目がぎらりと輝き、アランを見据える。地面を引っ掻いた爪が割れ、血がにじむ。


「……それで、……あの子を、殺す。何度やり直しても、どの世界でも、……、あの子を、殺すんだわ……」

「……あぁ」


 感嘆とも肯定ともつかぬ息を漏らして、アランは煙草を吐き捨てた。


「厄介なことだ、シェリル・リヴィ。そこまで思い出したか」


 アランは金の目を細めた。左手を伸ばす。宝石を使い切り、空になった装飾腕輪がじゃらりと鳴る。肩で息をするシェリルを前に、重なり合う鎖が冷たく光る。

 そして。


「はーい、ストップストップ」


 ひどく間延びした声に、アランは手を止めた。

 聞き覚えのある忌々しい声に息をつき、視線を上げる。


学術機関アカデミアから誰が来るかとは思っていたが……よりにもよって、お前とはな。テオドルス」


 娼館の裏口から現れる人影は二つ。

 一つはラナだ。頭に銃を突きつけられていた。強張った表情でアランをじっと見つめている。


 そして、その引き金に手をかけているのは黒髪の男。いつものようにパソコンを片手に抱え、いつものようにアランを邪魔しに来たのであろう学術機関の人間は、実に面倒臭そうに口を開いた。


「そりゃあ、こっちの台詞だっての。お前のおかげで、哀れな学生は土日出勤だ。しかも綺麗なねーちゃんが目の前にいるってのに、お預けくらってさ」そこで男――テオドルスは、ちらとシェリルを一瞥した。「……まぁでも、驚いたぜ? 泣く子も黙る輝石の魔術師が、なーにをちんたらやってんだか。教授ドクが聞いたら、さぞ爆笑するだろうよ」

「ラトラナジュを離してもらおうか?」

「おいおい……俺の話は無視かよ?」テオドルスは笑いながら、拳銃をラナに再度押し付ける。「つか……この状況で、よく自分が優位だと思えるよな、あんた」

「お気遣いなく、学術機関のイヌ殿」


 丁寧に名を呼び、アランは指を鳴らした。足元で瞬いた散乱石の欠片が一斉に浮き上がる。細かな輝石は、それ自体が薄緑色の刃となってテオドルスの喉元を狙う。

 テオドルスの顔が引きつった。


「……お前らのさぁ……そういう物理法則全て無視してくるの、なんなわけ?」

「魔術だな。お前らには一番理解しがたい現象だろうが」アランは金の目を光らせた。「さぁ、拳銃を下ろしてもらおうか?」

「……へいへい」


 渋々といった体で、テオドルスは銃を離した。鈍い音を立てて、拳銃が地に落ちる。塔の鐘が鳴り始める。

 そして、テオドルスは笑う。


「……ま、こっちの勝ちだけどな」

「アラン、避けろ!」

「っ、」


 ラナの悲鳴に、アランは弾かれたように飛び退る。

 刹那、赤が散る。激痛が走る。左の太腿に嫌な暖かさの液体が流れる。何が起こったのか、一瞬で理解したアランは、僅かに顔を歪ませた。


「……そういうことか」


 ばきん、と耳障りな音がして楔石が砕け散る。瞬きが消える。シェリルがゆらりと立ち上がる。

 その顔に、笑みはない。虚空を見つめ、薄く唇を開く。そして。

 悲鳴が上がる。悲しみとも怒りともしれぬ叫びが闇を呼ぶ。ぐっと密度を増した漆黒が彼女を飲み込む。


 『境界の1時間』が終わりを迎えようとしていた。



*****



 シェリルを起点に噴き出した闇は、瞬く間に路地いっぱいに広がった。ゆらめく暗闇の幕でアランの姿が見えなくなる。


「アラン……っ!」


 悲鳴を上げ、駆け寄ろうとしたラナの両肩が掴まれる。ラナは振り返った。テオドルスと呼ばれた黒髪の男は、こんな状況なのにヘラヘラと笑っている。


「……っ……あんたは……あんたは、なんのためにこんなことを……!」


 ラナが怒りで声を震わせれば、テオドルスが大仰に肩をすくめた。


「おおっと、勘違いしないでほしいんだが……俺はただ、この娼館にハッキングして1時間ほど遅らせた時間を表示させただけさ。懐古症候群の患者は順当に段階を踏んで症状を示した。俺たちはなーんも手を下してねぇっての」

「その1時間が重要なんだ! 進行を遅らせることが出来たかもしれないのに!」

「進行を? 遅らせる?」テオドルスは噴き出した。「馬鹿言っちゃいけないぜ、お嬢さん。進行を遅らせようが、いずれは死ぬんだ。治療法がないんだから」

「だからって、諦めればいいって話じゃないだろう!」

「諦めてる訳じゃねぇよ」


 テオドルスが低い声を吐き出した。ラナをじっと見下ろす。


「研究ってのはな。何千何万という事象の観察から成り立ってんだ。そこから生まれた知見がブレイクスルーを生み、患者を救う希望となる。懐古症候群だって、例外じゃない。学術機関では数多の研究者がこの問題に取り組んでる……にも関わらず、何故、研究が進んでねぇんだと思う?」


 軽薄な笑みを浮かべたまま、テオドルスの目が真剣な光を宿した。


「症例数が、足りないせいだ。なら……あとはどうすべきか分かんだろ」

「っ、そんな」


 ラナは続けるべき言葉を失った。唇を引き結ぶ。

 目の前の男の、言わんとしていることは分かる。痛いほどに。ラナだって、当事者でなければ共感できていたかもしれない。

 テオドルスの言葉は正論だ。きっと自分の願いはわがままだ。


「……そ、れでも……」ラナは胸元の懐古時計を握った。怪訝な顔をするテオドルスを見上げる。「それでも、シェリルは、私の親友なんだ」

「あ、おい!」


 テオドルスの制止を振り払い、ラナは駆け出した。鐘は相変わらず鳴り響いている。

 揺らめきながら膨張する闇が僅かに晴れた。通りの向こう側にいるアランが目に入る。無事な姿にほっとした。だが、いつ彼が闇に襲われてもおかしくない。


 だからこそ、ラナは懐から取り出したルビーをアランに向かって投げる。幸いにして、紅の宝石は闇に捉えられずにアランの元へ届く。


「っ、ラトラナジュ!? 何を、」

「アラン!」反論の声を遮るように、ラナは大声を上げた。ルビーを受け取った彼の顔が強ばる。その彼にラナは精一杯の笑みを浮かべた。「――ありがとう」


 彼が何かを叫ぶ。鐘が鳴る。その何もかもを無視して、ラナは自ら闇の中に身を躍らせた。

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