# Nobody knows -> ???

「っ、はぁぁぁ!?」


 後部座席から返ってきた言葉に、車を運転していたテオドルスは思わず急ブレーキを踏んだ。ダッシュボードに置かれた胃薬の瓶が助手席の足元に転がり落ちる。


 後続の車が喧しいクラクションを鳴らしながら追い越していく。いやいや、文句を言いたいのはこっちだっての。通り過ぎていくヘッドライトに吐き捨てながら、テオドルスは後ろを振り返った。


「っ、ふざけんなよ! 教授ドク! こっちはちゃんと課題を提出しただろうが! しかも、今日なんか休日出勤の特大サービス!」

「いちいち叫ばないでくれたまえ、テオドルス」


 後部座席で、白髪の老人が面倒臭そうに応じた。手元のタブレットから顔を上げ、黒縁の眼鏡の奥から白けた視線を送る。


「そもそも、君の論理は三つの点で破綻している。第一に、娼館に仕掛けたプログラムは起動までにコンマ三秒の遅延があった。第二に、監視対象と不用意に接触しすぎた。第三に、学生に休日なんぞない」

「待て待て! 最後のは横暴だよな!? 横暴だろ!?」

「では、前者二点に関しては自分の否を認めるということでいいかね?」

「そ、それは……さ……」じろりと睨まれ、テオドルスは頬を引きつらせた。目を逸らす。「……たったコンマ三秒じゃんか。接触つったって、あっちから来たんだし……」

「ふん。意気揚々とアラン・スミシーの前に出ていっておいて、何を言う。おまけに肝心なところで逃げ帰って来るときた」

「……ちゃんと、監視カメラの映像が見られるようにしといただろ」

「逆に言うと、それだけのことしか出来ていないわけだな」


 完全に沈黙したテオドルスを睥睨し、男は足を静かに組み直した。馬鹿にしたような顔のまま、ことさら神妙な――だが、笑いを抑えきれないと言わんばかりの――声音で言葉を続ける。


「よって、非常に……非常に残念で心苦しいことこの上ないが、当研究室から君へ単位を出すことはできない」

「……そこだけ妙に感情込めて言うのやめろよ、本当に……白々しいんだよ……」

「口を動かす暇があったら、とっとと出発したまえ」


 テオドルスが苦々しく睨みつけるが、男はひらひらと片手を振っただけだ。再びタブレットに目を落とす彼へ、テオドルスはこれ見よがしに舌打ちする。


「んだよ……ったく……自分だけ医者だなんだって、良い待遇受けてさぁ……」

「アレは店主が勝手に勘違いしただけだ。私はきちんと学術機関アカデミア博士ドクターと名乗ったさ」

「……ドクターって言われたら、普通は医者だと思うもんなんですよ? エメリ博士?」


 当てこするように敬語を使いながら、テオドルスはのろのろと前を向いた。きりきりと痛む胃をさすり、ため息をつく。これだから、こいつの相手は嫌なんだ。胸中で吐き捨てながら、胃薬の瓶を拾い上げ、カーラジオに手を伸ばした。


 腹いせに、ラジオの音量つまみを思い切り右に捻る。流行りのロックバンドの爆音に、後部座席から文句が上がる。

 それを無視して、テオドルスはアクセルを踏み込んだ。


*****


 たとえ何度繰り返したって、私は貴女に会いに行く――積み重なった本の上に置かれたラジオが、流行りの歌を吐き出した。それを口ずさみながら、彼は静かに筆を動かす。


 いつ建てられたのかも分からぬ古いビルの一室だ。廃屋同然の部屋には所狭しと画材が散らばる。様々な色彩が踊る紙で、床は埋め尽くされている。飛び散った絵の具が、ぽつぽつと壁に模様を描いていた。


 その中で、彼はただひたすらにキャンバスに色を塗る。よろめいた足先が缶ビールを蹴った。空の缶が寒々しい音を立てて転がり、食べかけのパンがのった皿に当たる。縁の欠けた皿には薄く埃が積もり、傍らのマグカップには干上がったコーヒーがこびりついていた。


 たった一つだけ嵌められた窓から、不意に月明かりが差し込んだ。白い光が静かにキャンバスを照らす。

 青、蒼、碧。言葉にすれば、ただの一種類でしかない色が塗られたキャンバスを。


 何を捧げようとも構わない、貴女の心が救われるのならば。流れる歌が静かに詞を紡ぐ。それを追いかけるように、窓の外で時計台が重々しい鐘の音を響かせ始める。


 そして彼の足元で、真っ黒な影が不自然に揺らいだ。

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