# task in progress

「……っ、信じられない……!」


 シェリルは勢いよく立ち上がった。娼館で一番高級な部屋には、淡い照明だけが灯されている。いつものように、花の香りが仄かに漂っていた。ところが甘い空気は微塵もない。

 彼女は向かいのソファに腰掛けた白髪の男を睨みつける。胸中で己の愚かさを罵った。嵌められた。まさかここ一週間相手にしていた無愛想な客の正体が、医者だったとは。

 シェリルはゆるりと首を振る。


「嘘よ」

「お嬢さん」初老の男は白髪を僅かに揺らした。灰色の目に憐れむような色を刻む。「嘘ではない。起伏の激しい感情、途切れがちな記憶……君のその症状は、懐古症候群トロイメライによるものだ。専門家として、断言させて頂こう」


 初老の男の後ろで、娼館の主が苦々しく息をつく。皺の刻まれた顔を歪め、鷲鼻を掻いた。


「残念だ。シェリル・リヴィ。君は一番の稼ぎ頭だったが……」

「嘘よ!」


 哀れみの一切こもらない店主の言葉に、シェリルは金切り声をあげた。首を何度も振る。


「そんなわけないでしょ……? 懐古症候群? 馬鹿言わないでよ……ちゃんと働いてるじゃない……!」


 初老の男が店主と視線を交わし、一つ咳払いをした。

 大変言いにくいがね。そう切り出す男の声音は重々しい。


「懐古症候群の人間であるほど、そういう発言をするものだ」

「違うって言ってるでしょ!」

「先程答えてもらったアンケートだが」初老の男は銀縁の眼鏡をかけながら、テーブルの上の端末を引き寄せた。いくつかのグラフが表示された画面をシェリルに見せる。「こいつの精度は99.57%だ。0.43%の確率で間違えることはあるが……これまでの私とのやりとりも鑑みるに、間違いない」

「……たかがテストじゃない……!」

「落ち着きなさい、お嬢さん。いいかね。このタブレットに示したように、懐古症候群の患者は症状の進行具合によってフェーズ分けされる。鬱傾向を示す最初期がフェーズ1。自殺に至る末期がフェーズ5。様子から鑑みるに、お嬢さんはフェーズ4――正念場だ。このまま放置しておけば、『境界の1時間』を超えてフェーズ5に……」


 初老の男の言葉が、シェリルの頭上を通り過ぎていく。


 彼女は、ぎりと奥歯を噛んだ。私が? 病気? 降って湧いた現実に、目眩がする。同時にぼんやりと思い出すのは、黒灰色の髪をした親友のことだ。自分が懐古症候群だと知ったら、お人好しの親友はどんな顔をするだろうか。考えただけで胸が痛む。こんなくそったれな場所、一緒に出よう。そう約束したのに。

 

 そこで恐ろしい可能性に気付いて、シェリルは顔を青ざめさせた。唇をわななかせながら、店主へと目を向ける。


「……私、どうなるの……?」


 初老の男が言葉を止めた。冷めた目をした店主が鼻を鳴らす。


「分かりきったことを……もちろん君には、早々に娼館から出ていってもらわなければ」

「っ……なんですって……!?」

「こちらのエメリ医師ドクターから、話は十分聞かせてもらった。懐古症候群は健康な人間にも影響を及ぼすそうじゃないか。そんな人間を客の前に出すにはいかない。そしてうちに、働かない人間を置いておくほどの余裕もない」老獪の店主はわざとらしく眉を潜めてみせた。「君ほどの逸材を手放すのも惜しいが、病となれば仕方ない。良い機会じゃないか。ゆっくり休めばいいさ」


 シェリルは体を震わせた。爪を噛む。彼女に行くあてなどあろうはずもない。追い出されれば露頭に迷い、飢えと寒さに震えて野垂れ死ぬだけだ。誰からも看取られないまま。

 自身の母親のことがさっと頭をよぎる。娼婦でありながら、一夜限りの愛に惑って子を宿してしまった母親。客に捨てられたあげく、裏路地でのたれ死んだ愚かな女。


 シェリルの唇が冷たくなっていくのがわかった。母親のようになりたくない。その一心で、誰よりも努力して働いていた。なのに。


 ――なのに、幸せになるのはラナだけ。不意に、シェリルの胸中で暗い声が響く。そうだ……ラナは、いつだって自分を裏切る。ただの薄汚い小娘だったのに。せっかく、手塩にかけて育ててやったのに。沸き起こった仄暗い感情は、瞬く間にシェリルの思考を蝕んだ。


 この考えがおかしいと、囁く理性の声が掻き消える。

 先程まで抱いていたラナへの心配もどこかへ消える。


 ばりん、と音を立てて爪が割れた。暗い何かが、シェリルの体をいっぱいに満たす。

 彼女の影が、足元で不自然に揺らめいた。


「……嫌よ」

「シェリル・リヴィ?」


 シェリルはゆるりと視線を上げた。老獪の店主の表情が強ばる。一体何を見たというのか。ひどく間抜けな顔にシェリルは笑った。場違いなほど、艶やかな笑みだった。不意に電灯が瞬く。何かの影がよぎったような明滅に、店主が怯えたように周囲へ視線を這わせる。


「……渡さないわ。何も。あの子には、何も」


 不意に笑みを収め、シェリルは低く呟く。

 その足元で、影が揺らめき形を変え、瞬く間に膨れ上がった。店主が悲鳴をあげる。医師が目を見開く。彼らに向かって、植物の蔦を思わせる影が襲いかかる。


 そして、生暖かい何かがシェリルの頬にかかった。部屋中に悲鳴が溢れる中、シェリルはゆっくりと壁の時計を見上げる。21時53分。赤い何かで濡れた電光板の示す時間に、彼女はゆるりと首を振った。何をしてるんだろう。早くお客さんを見つけなくちゃ。


 部屋の扉を開け放ち、シェリルはふらりと廊下に出た。

 二階の廊下は右半分の壁が取り払われ、娼館の中心に据えられた吹き抜けに通じていた。眼下には小さな中庭と、そこをぐるりと取り囲むようにして走る廊下が広がっている。

 あちこちから娼婦の軽やかな笑い声が響いていた。客の男たちが上機嫌に彼女たちへ腕を回す。それに、シェリルが静かに目を細めた時だった。


「おっ前、いいかげんにしろよ!? このプログラム書くのに、どんだけ時間がかかったと思ってんだ……!」


 不意に廊下の片隅で怒号が響き、シェリルはゆるりと振り返る。

 廊下に背を向けるようにして、黒髪の男が携帯端末に向かって喚いていた。上背は高く、仕立ての良いシャツの袖をまくっている。小脇に抱えているのはパソコンだ。

 あぁそうだ。彼にしよう。シェリルは、静かに口角を上げ、音もなく男に近づいた。


「ねぇ、お兄さん」


 シェリルの甘い声音に、通話を終えた男が振り返る。目を丸くする彼に、シェリルはにこりと微笑んだ。


「今晩のお相手は、もうお決まりかしら?」

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