5. 君のそういうところが愛しい
「少しは気分が楽になったか?」
アランの問うような視線に、ラナは目を逸した。
大通りを進む二人の隣を車が行き過ぎる。夜も深まる通りに煌々とネオンの灯りが散る。客引きが気だるげに声をかけ、酔った客が調子はずれの歌を熱唱する。
ラナは手の甲で頬を擦った。大丈夫。もう涙は出てない。そのことを確認して、ぼそぼそと呟く。
「……さっきは、すまなかった。アラン」
「いいや? 無理に感情を押し込めるよりも、こちらの方がよほど素敵だ。ラトラナジュ」
「……っ、忘れてくれ」
泣くだなんて、情けない。気恥ずかしさから顔を赤くするラナの訴えに、アランは笑みを漏らしただけだった。彼は懐から小さな紙切れを取り出す。
「それでは早速だが、君に贈り物を」
アランから受け取った紙切れは、薄ピンク色の小冊子だった。『もっと知りたい
「これは懐古症候群と診断された患者に渡されるガイドブックだ」アランは少しばかり不愉快そうに付け足した。「
「学術機関って、この都市の中心にある研究機関だろう?」
「その通り。学術機関は数多の科学技術の集まる場所。当然、懐古症候群についても研究が進んでいる。だが、完全ではない」
「自分は全部分かってる、とでも言いたげだね?」
皮肉を込めてラナが呟けば、アランはにやっと笑った。冊子を開きたまえ。横柄に告げるアランの耳元で、風に吹かれた耳飾りが揺れる。
「いいか。そこに書かれてある通り、懐古症候群には5つのフェーズが存在する。フェーズ1が発症初期、フェーズ5が末期であり、患者は自殺する。さて……この時点で我々としては捕捉すべき事項があるわけだ。まず第一に、患者は自殺するのではない。自我が崩壊し、異形の化物へと成り下がる」
「……あの廃ビルで会った奴のことかい?」
「正確に言えば、アレは懐古症候群の患者に引きずられた健常者だがね……だが、概ね理解は正しい。最終的には、あぁなると考えてもらって構わない」
ラナは顔を曇らせた。異様な目をした男の眼光。突如として男の体から現れた真っ黒な蔦。怖気の走る光景に体を震わせる。彼は人間で、殺されるべき存在ではない。頭では分かっていても、恐怖は止められなかった。
シェリルも、あぁなってしまうのか。考えるだけで、胸が苦しくなる。
「そして次に――『境界の1時間』だ」アランの目が意味ありげに光った。「恐らく、君にとって最も有益な情報だな」
時計台の鐘が鳴り始める中、二人は裏道に入った。暗がりで苦労して文字を追い、ラナは説明文を読み上げる。
「……『境界の1時間』は懐古症候群の発症から約3週間後の時間帯を指し、この1時間を超えると患者はフェーズ5へ移行します。『境界の1時間』の間に、患者はより暴力的になり、精神異常が顕著になります」
「裏を返せば、『境界の1時間』を超えるまでに患者の暴走を阻止できれば、フェーズ5への移行を阻止できる」
ラナは顔を跳ね上げた。アランが苦笑いする。
「そこまで期待に満ちた目をしてもらえるとは。教え甲斐があるというものだ」
「……シェリルを助けられるってこと、なのか?」
「助けるの定義にもよるだろうが……少なくとも、人間ではいられるだろう。何度も言うが、懐古症候群を根本的に治療することは不可能だ。あくまでも進行を遅らせるための方法と考えておいてくれ」
「それでも構わない!」
何の手立ても見つからないよりは百倍ましだ。小走りに進むラナの足に、自然と力がこもる。
「私は、どうすればいい? 何をすればシェリルを助けられる?」
「最善の策は、懐古症候群を発症するに至ったきっかけを取り除くことだが」アランは肩をすくめた。「懐古症候群と患者の精神状態は大いに相関する。例えば、患者を説得し、精神の安定を図ることも有効だろう。てっとり早いのは、殴って患者の意識を失わせることだが」
「……シェリルを攻撃するのは許さない」
「そう怖い顔はしないでくれ、ラトラナジュ。俺は君と約束した。ならば、その約束を違えることは絶対にない」
アランの真摯な声は、人気のない路地によく響く。ラナの心臓がどきりと鳴った。誤魔化すように頭を振り、視線を前へ向ける。
娼館の看板が彼方に見え始めていた。娼館の正面入口は白色の灯りでぼんやりと照らされている。ラナはそっと、小冊子を懐にしまった。
「……シェリルの様子がおかしくなり始めたのは、ちょうど三週間前だ」
「そうか。ならば今晩がぎりぎりのラインだろうな」
「私がシェリルを説得する」ラナは一度深呼吸して、アランを見上げた。「そうすれば、あんたはあの子を殺さない――そういうことだろ」
アランが面白がるように眉を上げた。自身の顎を触り、にやっと口角を上げる。
「その通り。安心するといい。君が失敗すれば、俺が力づくで君の親友を止めようじゃないか」
「それは、させない」
「良い心意気だ。君のそういうところが愛しい」
「世辞は要らないよ」
「つれない人だ」
アランが大仰に息をついた、その時だった。
けたたましいサイレンの音が響く。裏路地に、原色の赤の光がさっと差し込む。光が不穏に明滅する中で、ラナはアランと顔を見合わせた。どちらともなく駆け出す。
「これは……」
裏路地の終わりで、ラナは立ち止まった。
普段は閑散としている正面入口に、人が溢れかえっている。ラナと同じ衣装をまとった少女達が半分を占めていた。そうなると残りの男たちは客だろう。ある者は怯えたように娼館を見つめ、ある者は入り口に止まっている救急車を携帯端末で写真に収めている。
人混みの狭間で、ちらと担架に載せられている人間が垣間見えた。老人だ。頭から血を流している。微かに胸は上下しているものの、投げ出された腕は担架が動く度にぶらりと揺れる。ラナは息を呑んだ。この娼館の主に違いなかった。
「大丈夫か」
アランに小声で耳打ちされた。喧騒を見つめながら、ラナはなんとか息を吸って口を動かす。
「……なにが、おきてるんだと思う……?」
「断定するのは難しいが、俺達にとって好ましくない状況なのは確かだろうな」
「……もしかして、もう遅かったとか……」
「ラトラナジュ」
嫌な方向に行きかけるラナの思考を、アランはやんわりと諌めた。ラナがぎこちなく顔を上げれば、彼は小さく首を振る。
「憶測だけで話すべきじゃない。確認だが、この場に君の親友の姿はあるか?」
「いいや……」さっと人混みに目を這わせ、ラナは唇を噛んだ。胸が苦しくなる。「いない……いないよ」
「ならばそれは朗報だ」
アランはラナを安心させるように微かに笑った。
「ここにいないということは、娼館の中にいるということだからな」
「でも……」
「助けるんだろう? ラトラナジュ」
アランの声はどこまでも静かだった。諌めるわけでも、慰めるわけでもない。それでも彼の言葉は、今の彼女にとって一番必要なものだった。
ラナは唾を飲む。頭を振り、胸元の懐古時計を握りしめた。
カチリと響く歯車の音は、もう虚しくなどない。
「もちろんだ……シェリルは、私が助ける」
「良い返事だ」
「行こう。こっちに裏口がある」
満足げに頷くアランを連れ、ラナは決然と身を翻した。
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