4-3. 優しく、しないでくれ。頼むから

「良かったじゃないか、ラトラナジュ。金が出来た」

「…………馬鹿に、しないでくれ」


 どこまでも白々しいアランの声に、ラナはとうとう立ち止まった。


 薄暗い店から出て、どれほど歩いたのか見当もつかない。二人が辿り着いたのは、ちょっとした広場だ。建て替え中のビルに囲まれた円形の空間。十字に走る道の交差点。大通りの中心に植えられた街路樹はライトアップされ、人々が行き交っている。


 それら全てを背景にして、アランが振り返った。手には、店主から受け取った小切手が一枚ある。時計に比べれば、端金にも過ぎない金額だった。客がラナとの一夜を買うために払う金よりも少ない。


 風が吹いて葉が鳴った。明るいざわめきに、ラナは息苦しくなる。


「……そんなの、何の意味も無い金だ」

「意味がない金なんてないさ」アランは、ひらりと紙を振ってみせた。どこか皮肉げに目を細める。「これを稼ぐために、君は自分を売っているんだろう?」

「そういうことじゃない!」

「そうだな、そういうことではない」


 アランは不意に表情を消した。ラナをじっと見つめる。


「そろそろ、俺の言いたいことが分かったんじゃないか? ラトラナジュ」


 ラナは彼から返された懐古時計を握りしめた。応じるように、時計がカチリと歯車を鳴らす。その音が、ひどく虚しい。


 結局自分は、親友のために時計を捨てられなかったのだ。だというのに、時計が返ってきて、ほっとしている。


 君は愚かだ。何も分かっていない。娼館を出る間際の、アランの言葉――その意味をラナは痛感する。自分は結局、自分を捨てられない。そのことに気づいてしまった。アランに、気付かされてしまった。

 

「……あんたは、意地悪だ」


 ぽつりと呟いて、ラナは拳を握った。目の奥がじんと痛む。


「……私のことが欲しいんだろ。だったら、好きなように抱いて、飽きた時に捨てればいいじゃないか。私を買う気がないなら、最初から無視すればよかったんだ。こんな話。なのに……」

「…………」

「……優しく、しないでくれ。頼むから」


 車の行き過ぎる音が遠くから響く。ラナのすぐ近くを、楽しげに腕を組んだ男女が通り過ぎていく。

 アランが、静かに息をついた。


「……俺はただ、君を守りたいだけだ」


 装飾腕輪レースブレスレットがしゃらりと鳴った。アランが手を伸ばす。それが怖くなって、ラナはよろめくように後ずさる。その指先から逃れる。

 片足一つ分、たったそれだけ開いた距離。

 風が吹きぬけていく。

 喧騒が沈黙をさらう。

 遠ざかる世界に向けて、ラナは震える息を吐く。


「……やめてくれ」


 ラナは弱々しく頭を振る。引きつりそうになる喉にぐっと力を込める。


「だって……だって、私は守らなくちゃいけないんだ」

「……君が、守る必要など無い」

「無いわけないだろ……?」ラナは乾いた笑みを浮かべる。「シェリルは……友達なんだ。家族なんだ。死んでほしくない。でもあんたは、あの子を殺すんだろ……? だったら、私が……がんばらなきゃ、」

「ラトラナジュ」


 アランの声に憂いが滲んだ。迷うような沈黙の後、膝をついたアランがラナを覗き込む。


「君の本心は、それだけか?」


 そっとアランが問いかける。金の目は、月のようにひっそりと輝いている。何もかもを暴こうとするわけではない、優しい光を宿している。

 たった、それだけだった。その手がラナに触れることはない。抱きしめることもない。慰めを言うこともない。

 けれど。


「……っ、こ、わいよ……」


 ぼろ、とラナの眦から涙が溢れる。こらえきれなくなって、ラナはくしゃりと顔を歪める。


「怖い……怖いに決まってるだろ……っ。シェリルがおかしくなっていくのも……っ。あの子が死んで、置いていかれるのも……っ。結局、私に出来ることなんて何もないってことも……!! 全部全部……っ」

「……そうか」

「……た、すけて」

「…………」

「……助けて、アラン……お願い……」


 鼻をすすりながら、ラナは顔を俯ける。身勝手で非力な己に嫌気が差す。体が震える。ラナの黒灰色の髪が耳元を滑り落ちる。

 それをそっと、アランは指先で払った。ラナの耳に髪を再びかけ、彼は優しく微笑む。


「それが君の本当の望みならば、従おうじゃないか」

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