4-2. 一つ頷くだけでいいんだ
アランに連れられ、娼館の外に足を踏み出す。
週末の夜を迎えた街は、白々しいくらいに騒がしかった。大通りを楽しげに会話する男女が行き過ぎていく。子どもが泣き声を上げ、母親が困ったように慰めている。
郷愁がラナの胸を掴んだ。仲の良かった幼馴染の手のぬくもり、養父の優しい声。何もかもを思い出して、彼女は唇を噛む。あぁこれだから、大通りを歩くのは嫌なんだ。自分が失った全ての日常を詰め込んで、きらきらと輝いているから。
ラナは首を振った。必死にアランの後を追いかける。早く、この通りから離れてくれないか……そう思ったところで、ふらりとアランが横道に逸れた。薄暗い裏路地に入る。
程なくして辿り着いたのは、小さな店だった。
ガラス張りのショーウィンドウに天秤が描かれている。片側の皿には蛇がとぐろを巻き、もう片方の皿にはドラゴンが止まっている。ショーウィンドウの内側はくすんだカーテンが引かれ、中を伺うことは出来ない。扉に嵌められた擦りガラスの向こうも真っ暗だ。
およそ人の気配がない。だというのに、アランは躊躇いなく扉を開いて入っていく。立ち止まっていたラナも、慌てて彼を追った。からんと乾いた鐘の音がする。埃っぽい空気に出迎えられて、ラナは何度か咳き込んだ。
店内はやはり暗い。壁の両側に取り付けられた棚が闇に沈んでいる。
ラナは恐る恐る棚に近づいた。大小様々なガラス瓶が並んでいる。
右手の棚の瓶には、ネジ、歯車、コードのついた緑の板……とにかく金属と思しき物が詰め込まれている。
左手の棚の瓶に入っているのは、色とりどりの石や動物の羽だ。ラナはその内の一つを持ち上げた。空の瓶だ。古ぼけたラベルに、猫の足音、と記されている。
「やぁやぁやぁ! これはまた、嬉しい客人だ!」
重々しい店の空気を裂いて、陽気な声が飛んできた。ラナはびくりと体を震わせ、慌てて瓶を戻す。
目を凝らすラナの隣を、アランが軽い足取りで行き過ぎていった。店の奥のカウンターで小さな人影が動く。
「元気かな、
「アラン、まったく君は運がいいっ。昨日新しい宝石が手に入ったところなのさ! 粒も大きいし、ブリリアント、ステップ、お望み通りにカットできるよっ」
「ありがたい話だが、それは別の機会にしよう……今日は客を連れてきてね」
アランが僅かに体を横にそらし、ラナの方に視線を送った。ラナは後ずさりそうになるのをこらえて、ぎこちなく笑みを浮かべる。
店主と呼ばれた男は、アランよりも年下に見える。猫背気味の背に、がっしりとした体躯。薄汚れたカーキ色の袖口はめくりあげられ、逞しい腕が覗いている。
突然、その目が少年のように輝いた。手元の工具が転がるのも構わず、彼は身を乗り出す。頭に引っ掛けた拡大鏡がずるりとずれる。
「わわっ……ちょっと待った! その胸元にかかってる時計はなんだいっ!? お客さんっ!」
「え、えっと……その……」
「ラトラナジュ。早く出せ」
アランがゆったりと……だが有無を言わせぬ口調で促した。そこに優しさなどない。そう思って、彼の優しさに期待していた己に気づく。
恥ずかしさとも怒りともつかぬ感情に唇を噛み、ラナはゆっくりとカウンターに近づいた。断頭台に向かっているような気分だ。のろのろと、男を見下ろすように立つ。彼の手元には、無数の歯車が散っている。自分の時計もこうなるのか。そう思えば、ぞっとした。
暗闇の中で、アランの目が抜け目なく光る。
「ラトラナジュ」
「……っ、これ……です……」
震える指で、懐古時計を差し出す。店主が無邪気な歓声を上げながら、ひったくるようにして時計を奪った。
無骨な指で表面を優しく撫で、男は鼻息荒く表情を蕩けさせる。
「すっごい……すっごいよこれっ……! こんなアンティーク見たことない……っ」
「そう、ですか……」
「そうだよぉー! 保存状態も完璧だしっ……ねぇねぇ! この時計はどこで手に入れたのっ?」
「養父の……形見、ですけど……」
「何年製の物かなっ?」
「な、何年製……?」
「いつ頃作られたものか、ってことだよっ」男はカチリと懐古時計の蓋を開いた。拡大鏡を掛けた目が時計の盤面をなぞる。「う~ん……社名も書いてないなぁ……! いいよいいよっ……お嬢さんがミステリアスであればあるほど、攻略する男心も燃えようというものさっ……!」
店主は嬉々として呟くが、ラナの気持ちは沈む一方だった。ひどく軽くなった胸元で、服の衣をぎゅっと握る。
横合いから、アランがのんびりと尋ねた。
「それで? 価値としては如何程のものかな?」
「んっふふー……! そうだね……っ!」
拡大鏡を引き上げながら、男が手元にあった電卓を意気揚々と叩いた。示された額にラナの心臓が跳ねる。
「そんなに……? これじゃ、車だって買えるじゃないか……!」
「これでも最低価格だよっ。実際には、ここからバラして……歯車の型から製作年代が割り出せれば、もう少し額も上げられるさっ。安心してっ」
「ただの時計なのに……」
「ちっちっちっ……お客さん、時計を馬鹿にしちゃ駄目だよっ」
戸惑うラナの前で、男が胸を張った。人差し指を立て、ぴょんと立ち上がる。
「デジタルで溢れた、このご時世さっ。アンティークには価値があるんだよっ。しかも、ここまで精巧かつ現役で動いている時計はレア中のレアでねっ……! 手巻き時計だし、中に入ってるルビーの量もそれなりだと思うよっ」
「ルビー……?」
「歯車の摩耗を防ぐために人工ルビーが使われてるんだよっ、懐古時計には! 知ってるかい!? ルビーというのは人類史上初めて合成に成功した宝石でねっ。歯車という、これまた人類の生み出した偉大な技術と融合した手巻き時計は……まさに人類の英知の結晶ってやつなのさっ!」
それで、と男は一度言葉を切った。鼻息荒く、ラナの方に身を乗り出す。
「あんたはこれを売りに来た。それで、いいんだよねっ?」
「そ、れは……」
ラナは言葉に詰まった。目を逸らす。時計をじっと見つめる。養父の形見。いつだってそばに居てくれた時計。
一つ頷くだけでいいんだ。ラナの脳裏にシェリルの姿がちらつく。あの子を助けるためだろ。そう思う。思うのに、体は動かない。
沈黙が、どれほど続いたのか。
やがて、アランが盛大に息をついた。
店主の手から時計を拾い上げる。
「……あっ、ちょっと、アランっ」
「すまないな、店主殿。代わりに、こいつで手打ちにしてくれ」
言いながら、アランは机の上に鎖を置いた。細い鎖だ。ラナは目を見張る。
それは、娼館でラナ達につけられている鎖だ。そして二日前の夜に、アランの行方を追うために、ラナが彼の懐に忍ばせていた鎖に違いなかった。
店主が頬を膨らませる。
「……えぇー。その時計とは、全然釣り合わないんだけどー?」
「値段的には、そうだろうな。だが、この鎖自体は
「むー……」
「いらないのか? ならば残念だが別の人間に売ることにするよ。それで、そいつが鎖の謎を解き明かすわけだ」
「うー、分かったよっ……!」
男は渋々と鎖を掴んだ。手元の引き出しを漁って紙片を出し、いささか乱暴にペンを走らせる。
差し出された小切手を受け取って、アランはにこりと笑った。
「ありがとう、店主殿」
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