4-1. 君の余興に乗ってやろうじゃないか

「まさか、こんなに早く会えるとは思わなかったよ、ラトラナジュ。てっきり会えないとばかり思っていてね……一昨日はひどい夜だっただろう?」


 ベッドの端に腰掛け、アランがにやりと笑う。ラナは口をすぼめた。逃げ出す? そんなことできるわけないだろう。胸中だけで悪態をつく。

 日没を迎えた娼館の部屋は、二日前と同じように気怠い空気に包まれていた。窓からは陽光が差し込み、レースで編まれたカーテンが風に乗ってゆらりゆらりと揺れている。


 ラナは首を振る。腹立たしくとも、この男と話さない訳にはいかないのだ。一度目を閉じ、それから開いた。胸元にかけた懐古時計をぎゅっと握りしめる。


「何をすれば、見逃してくれる?」


 単刀直入に、ラナは問うた。アランが白々しく首を傾げてみせる。


「何の話だ?」

「分かっているだろう」顎を引き、ラナはアランをにらみつけた。「あんたは魔術師だ。懐古症候群トロイメライの患者を探してる。探して、殺そうとしている」

「君の可愛らしい唇から紡がれるにしては、随分物騒な話だ」

「どうすれば、その患者を見逃してくれる?」


 語気を強めて、ラナは一歩前に踏み出した。そのたった一歩の間に躊躇いがよぎる。この方法で正しいのか。これで、彼女を守れるだろうか。脳裏に、シェリルの声が一瞬だけよぎった。生きるのよ。生きて、ここから出るの。そのためなら、なんだってやらなくちゃ。

 ラナはぐっと拳を握る。


「……私を、あんたに捧げれば、見逃してくれるかい?」


 アランの顔から、急に笑みが消えた。沈黙。場違いなほど陽気な話し声とクラクションの音が窓から入り込んでくる。


 ラナの掌にじっとりと汗が伝った。何を馬鹿な。こんなの、いつものことのはずだ。ただ、目の前の男とそういう空気にならなかっただけで。愛のない夜なんて、何度だって過ごしている。己を鼓舞するようにラナは口早に言葉を続ける。


「もちろん、一度じゃない。私達娼婦は、二十歳になる前に娼館を出なきゃいけないんだ。私は今年で十八で、買い手を探してる。その買い手にあんたがなれば、」

「そんなくだらんことを言いに来たのか?」


 ひどく冷え切った声に、ラナの言葉は喉の奥に詰まった。

 アランの纏う空気が鋭くなる。金の目が、じろりと動いた。ラナの素肌を辿るように動く。

 怖い。たった一言ラナは思う。男の視線など慣れているはずなのに、蛇に絡みつかれたように体が動かない。


「……ラトラナジュ、君は勘違いしているようだ」


 ベッドを微かに軋ませながら、アランが立ち上がった。見下ろす影がラナに降りかかる。その中で、アランの金の目がぎらぎらと光っている。


「なるほど、たしかに俺は君が欲しい」囁くように言って、冷たい指先がラナの頬に触れた。「そうだな……あぁそのとおりだとも。その意味で、君の作戦は何も間違っていないわけだ」

「なら……いいじゃないか。私を買って……代わりに、この娼館に二度と足を踏み入れないでくれ」


 喘ぐようにラナが懇願すれば、アランの目がきゅっと細まった。


「君は愚かだ。何も分かっていない」


 ラナは唇を舐めた。何を分かっていないというのか。あんたが私の親友を殺そうとしているんだ。それが全てだろう。叫びだしそうになるのをぐっとこらえて顔を俯ければ、アランがラナの頬に爪を立てた。鋭い痛みに、ラナは顔をしかめる。

 いいだろう。深々と息を吸った後、アランは低い声で言葉を継いだ。


「分かった。君の余興に乗ってやろうじゃないか」

「っ、余興なんかじゃ、」

「いいか、ラトラナジュ。君の望む通りに、君を買って、この娼館に二度と立ち寄らないと誓っても良い」


 ラナは、ぱっと顔を上げた。アランの憎々しげな目が降り注いでいる。


「ただし、そのための金を払うつもりは一切ない」アランは不快そうに口を歪めた。「元より大金だ。君が今までどんな客を相手にしていたか知らないが、簡単に出るはずもないだろう?」

「……でも……私にもお金なんて……」

「売ればいい。例えば、君が今、後生大事に抱えている時計を」


 ラナはびくりと体を震わせた。懐古時計を見やる。売る? これを? 混乱のあまり、ラナはおろおろと視線を彷徨わせた。自分にとって唯一残された、家族との繋がりを?


「こ、れは……でも……」

「見たところ、そいつは中々の年代物だ。アンティークとしては十分だろう……然るべき場所で売れば、さぞ良い値になる」

「ま、待って……! 待ってくれ……っ」

「もちろん、売らなくても良い」アランはぞっとするほど綺麗な笑みを浮かべた。「口では何のかんのと言いながら、結局君は、君自身が一番というわけだ」


 ラナの心臓がじくと滲む。

 窓から差し込む夕焼けの光が目に染みた。手の中で、時計がどんどん冷え切っていく。手放す。そう考えただけで、息が上手く吸えなくなる。

 じゃあ、親友を見捨てるというのか。

 ぐっと胃が捻れる気がした。痛いほどに時計を握りしめて、ラナは震える息を吐き出す。


「……っ、分かった。いい。それで構わない」


 負けるものかと言い聞かせて、揺れる視界を必死に定めてアランを見つめる。

 アランが虚をつかれたような顔をした。金の目が、さっと陰る。けれどそれも一瞬だ。


「……良いだろう、ラトラナジュ。来なさい」


 アランは踵を返す。冷たくて黒々とした背だった。

 自分は時計とともに、もっと大切な物も失おうとしているのではないか。むくりと頭をもたげる後悔から目を背ける。

 ラナはアランの靴の踵を睨むようにして歩き始めた。

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