# 微睡みの狭間
なんてところに、来てしまったんだろう。
幼いラナは膝を抱えて涙を流した。真っ白な壁に、ベッドが二つあるだけの部屋。むせ返るほどの濃い花の香りに少女たちの嬌声が響いている。
ラナの知らない世界が、壁一枚隔ててあった。明日には自分もあちら側に行くのだ。吐き気がして体が震えた。胸元の懐古時計をギュッと握りしめる。
「ねぇちょっと。メソメソしないでよ」
不意に、頭上から声が降り掛かった。
のろのろと顔を上げたラナは、ぽかんと口を開ける。
ひどく綺麗な少女が、そこにいたからだ。亜麻色の髪に白い肌。バラ色に色づいた頬。釣り上がった目は、ラナを睨んでいた。
「いい加減泣き止んで。うるさいったらありゃしない」
「……っ……でも……っ」
「これだから、外から来た子は嫌なのよね」
大仰に頭を振りながら、少女は素足で床を歩いた。ベッドの端に腰掛けて、小さな足を組んで見せる。ラナと同じ、薄手の布で出来た衣装が音もなく広がった。
お姫様だ。きらきらして、綺麗で、可愛らしい、お姫様。ラナは本気で思う。泣いているのを忘れて、目をパチパチと瞬かせれば、少女は得意げに笑った。
「あんた。今私のこと、綺麗って思ったでしょ」
「! どうして分かったの……?」
「分かるわよ。だって本当のことだもの。それにしても、このシェリル様の美しさに気づくなんて、あんたは見込みがあるわ。名前、なんていうの?」
「ら、ラトラナジュ……」
「そう」シェリルはにっこりと微笑んだ「私の次に、良い名前ね」
その笑みには一片の曇りもない。むず痒くなって、ラナは目を伏せた。その拍子に、己の足首に巻きつけられた鎖が目に飛び込んでくる。
ふわりと舞い上がった気持ちは、すぐに粉々に打ち砕かれた。自分は一生、外に出ることが叶わないのだ。その事実が、再び気持ちを沈ませる。
「……ねぇ……シェリル」
「なによ」
「シェリルは怖くないの」
「怖い? なんでよ?」
「だって、そうじゃないか……!」
ラナは服の裾をギュッと握りしめる。この娼館に来てから一週間。教育という名の元で、見せられた光景に体が震えた。鼻を啜って、何とか声を絞り出す。
「こんな……こんな、知らない男の人と一緒に……」
「可愛いって、ちやほやされるんだからいいじゃない」
「そんなの、何の意味もないだろ……!」
「じゃあ、今すぐ出ていけば?」
取りつく島も無い返事に、ラナは呆然と顔を上げる。髪の毛を指に巻き付けながら、シェリルは足をぶらつかせた。
「ご飯も温かいベッドも無くなって良いなら、どうぞ、そうして頂戴。そうしたら私がこの部屋を一人で使えるもの」
「…………」
「ねぇラナ。あんた、自分が一番不幸だって思ってるでしょ」
ラナは唇を引き結んだ。懐古時計をますます強く握りしめる。それが精一杯の抵抗だった。
だって、実際そうじゃないか。涙で視界が滲む。胸中で弱々しく呟いた反論を見透かしたように、シェリルが鼻を鳴らした。
「それって、勘違いよ」
「……勘、違い……?」
「そう。この世にはね、家が無い人なんて山程いるの。そういう、本当に最底辺にいる奴らは、治るはずの病にかかって野垂れ死ぬんだわ。それと比べて御覧なさい。私達は、ただ自由を売るだけで、まともな生活が送れるの。客どもの相手するだけで、ご飯を食べて、温かいシャワーを浴びて、夜は柔らかい毛布にくるまって寝られるのよ」
ラナは目を瞬かせた。でも……と言いかけて口ごもる。
シェリルは髪を弄っていた手をピタリと止めた。じっとラナの方を見つめる。
「おかしいって言いたいんでしょ」
「う……」
「そうね。おかしいかもしれないわね。でも、絶望しかない正しさに縋って死ぬよりも、希望をくれるおかしさに頼って生きた方がよほどいいわ」
「生き、る……」
「そうよ、ラナ」
シェリルは、ゆっくりと頷いた。美しい琥珀色の瞳には悲観も後悔もない。毅然とした表情で、ラナを見つめる。
「生きるのよ。生きて、ここから出るの。そのためなら、なんだってやらなくちゃ。悲しみに暮れてる暇なんてないわ」
「……私にも、できるかな……」
「できるわ、勿論よ」
シェリルが力強く笑う。
それは真っ暗な世界に差した太陽のように、きらきらと輝いていた。
*****
夜闇に、宝石が瞬いて消えた。
生ぬるいビル風が強く吹き、アランの髪と外套を揺らす。足元の血溜まりを踏み越えて、彼はビルの屋上の端へ歩を進めた。眼下に見える夜の街は、無数の灯りを暗闇に撒き散らしている。
薄汚いな、今回も。声に出さず嘲笑い、アランは肩に負っていたラナの鞄を地面に投げ出した。宝石を使い果たし、空になった
首元のイヤホンから流れる雑音が、音を結んだ。
『――い……いい加減にしろよ、アラン』
「なんだ、
ジッポがかちりと音を立てた。火の灯った煙草を咥えながら、アランは乱暴に手すりにもたれかかる。誰もいない夜闇に向かって、指折り数えた。
「今宵、君から受けた依頼は三件だ。全て足がつかないよう処理もしているじゃないか。君の望む通りに」
『わ、我らが信ずる主の望む通りに、だ』
「生憎と俺は無神論者だ。その辺りの説教は、エドナにでも垂れてくれないか」
イヤホンの向こうで、若い男が不機嫌そうに呻いた。今頃、前髪に埋もれた目を神経質そうに瞬かせているのだろう。冴えない
「それで? 神父殿は何が気に食わない?」
『……お、お前の身勝手な行動について』ややあって、若い男がため息混じりに呟いた。『しょ、娼館の件は、三日後に開始のはずだ』
アランの唇が弧を描く。指先に挟んだ煙草から炎の灯った灰が溢れて、風に舞った。
「変な勘ぐりはやめて欲しいものだ。俺が私生活でどこへ行こうと関係ないだろう?」
『た、ただの私生活で……わ、わざわざ娼婦の
「魅力的な女性ならば、当然深く知りたいと思うものだろう?」
『しぇ、シェリル・リヴィも……ら、ラトラナジュ・ルーウィも、……こ、今回の対象者だろう』
「ほう、そうだったか。悪かったな、まだ君からの指示書を確認していなくてね」
イヤホンが沈黙する。雑音が声の主の静かな苛立ちを伝えてくる。アランは再び煙草を吸い、白煙を吐き出した。
ラトラナジュ。輝石の君。たった一つの名前が波紋のように記憶の断片を呼び起こす。それはまさしく宝石のごとく儚く煌めいていた。記憶の中の彼女は、彼の名を呼び、優しく微笑んでいる。
今回の君は、どんな世界を見せてくれるだろうか。
この薄汚れた世界で、たった一つ変わらない君は。
『……あ、
イヤホンから憎々しげな声が響き、アランは思考を止めた。
風が一際強く吹き、現実に引き戻すように彼の外套をはためかせる。
「……そうか」
アランは、すいと目を細めた。
学術機関は、科学都市サブリエの結晶とも言うべき……そしてアランを始めとする魔術師にとっては忌々しい名前だった。
それは、あらゆる意味で魔術と正反対の立場をとる。
それは、科学を扱い、知を重んじ、奇跡の全てを否定する。
そして、そうであるがゆえに、それは神父率いる
ただの人間であれば、歯牙にかけるまでもなかった。ところが厄介なことに、お得意の科学とやらで魔術と渡り合ってくるのだから質が悪い。
アランは眉を潜めた。
「……なるほどな、神父殿。それは全くもって喜ばしくない報せだ」
『よ、余計なことをするなよ、アラン。お、俺は三日後の早朝にそちらに、』
アランは無造作にイヤホンの電源を切った。
都市の夜は、静けさなど忘れたかのように騒がしい。遠く響く、派手なバイクの駆動音。ひっきりなしに響いているサイレンの音。
澱んだ空気を裂くように、零時を告げる鐘の音が鳴る。
「毎度、手を煩わせてくれる」
低い声で呟きながら、アランは手に持った煙草を強く手すりに押し付けた。
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