3. 彼女を、守らなくては。大切な親友を。
暗闇に漂う白煙が、誘うようにゆらりと尾を引く。裏道の下水に負けぬ強い煙草のヤニの匂い。それに顔をしかめながら、ラナは先を行く真っ黒な背中を睨みつけた。
「どういうつもりだ」
「どうもこうも、麗しい君が夜道を一人で帰るなんて、とんでもない話だろう?」
ラナの手を引くアランが、振り返りもせずに返す。
彼の肩には、ラナが持っていた鞄がかけられている。彼女が取り落とした果物ナイフも、アランに拾われ鞄に収納された。つまりは武器を奪われたのだ。
ラナは歯噛みする。彼の足取りは早く、このままでは娼館に連れ戻されてしまう。
「それで?」アランは空いた手を前に回す。再び手が後方に回った時、その指先には煙草が挟まれていた。「何故君は、あんなところにいたんだね?」
「……なんだっていいだろ」
「客の相手をしなくてもいいだけの、金は払っているつもりだがな」
「金じゃない」
「では?」
「……あんた、」
ラナは、アランの手を諌めるように強く握った。彼の首元にかけられたイヤホンから、ひっきりなしに人の声が聞こえている。羽虫のような雑音を聞きたくなくて、ラナは腹に力を込めて忌まわしい言葉を継いだ。
「魔術師なのか」
アランは吹き出した。
ラナはきっと睨みつける。視線を感じたのか、彼は歩みを止めぬまま、ちらと振り返った。
「なんだ、そんなことか?」
「っ、……笑ってないで、答えたらどうなんだい!?」
「敏い君に、今更何を話すことがあると?」
なら、やはりそうなのか。疑っていたとはいえ、厳然たる答えが目の前に出されて、ラナの気持ちが沈む。
くつくつと笑いながら、アランは再び煙草に口づけた。暗闇の中で、
「愛しの君は、俺の活躍するところ見たさに、ここまで出向いてくれたのか」
「……違う。私は見極めに来たんだ」
「見極めるとは?」
「魔術師は
「アレが懐古症候群であれば、どれほど良かったか!」アランは大仰に息をついた。「残念ながら、あれは違う。共感、共鳴、そういった類のものだ。重症の懐古症候群の患者に接触すると、健康な人間は引きずられてしまってね、」
「誤魔化すな!」
娼館の裏口で、ラナはアランの手を振りほどいた。肩で息をする彼女に、アランの面白がるような視線が降ってくる。
ラナは拳を握りしめた。
「あんたは……あんたは、人殺しだ」
「これは驚いたな」
アランは大仰に頭を振った。金の目に、若干の非難めいた色が滲む。
「あんなものを見たのに、俺を非難するのか?」
「あんなものじゃないだろう! 彼だって人間だった!」
「わけの分からん植物のツタを全身から生やしたアレを、人間というとはな」
「話をすり替えるな!」
「本題を言っていないのは君の方だ」
「あんたはなんで、うちの娼館に来たんだ!?」
「何を言うかと思えば」
アランは口角を上げた。煙草を地面に落とし、靴の裏で火を消す。後ずさるラナを簡単に壁へと追い詰め、己の腕の中に閉じ込めた。
整えられた指先で、ラナの顎をくいと引き上げる。
「君に会うために決まっているだろう? ラトラナジュ」
嘘だ。ラナは食いしばった歯の間から息を吐き出した。
それから時を置かずして、ラナは己の自室に飛び込んだ。
奥にあるシャワー室からは、水の流れる音と共に、橙色の光がぼんやり漏れている。向かい合うベッドの片方には、見慣れた薄手の服が脱ぎ散らかしてあった。シェリルが帰ってきたのだろう。壁にかけられたデジタル時計が、午前三時を静かに表示している。
後ろ手に扉を閉めたラナは、手に持っていた赤い宝石を怒りに任せて床に投げつけた。硬い音を立てた石は、砕けることなく床を滑っていく。
これを、お守りに。去り際のアランに、鞄の代わりに渡された石だ。彼が軽く口付けていた宝石は、きっと高価なものに違いない。けれど、ラナにとっては忌々しい物でしかない。
「くそ……っ……」
シャワーの音を聞きながら、ラナはずるりと床にへたり込む。今更になって震える体を両腕で抱きしめた。肌についた返り血は乾いていた。ざらりとした感触が掌の裏から伝わってくる。
胃のむかつきから逃れるように、ラナは目をぎゅっとつぶる。
瞼の裏で、赤が瞬いていた。輝石の赤。炎の赤。血の赤。あの男は、平然と人を殺した。
そんな奴と渡り合えるのか。自分が。
ラナはぐっと唇を噛みしめる。体を引きずるようにしてベッドに横になった。
無理矢理にでも目を閉じる。胸元の懐古時計を搔き抱く。カチ、カチ、と時計は規則正しく時を刻む。その振動をラナは必死で追いかける。
そこで、ハタと気づいた。
シャワーの音は、いまだ鳴り止まない。
「……シェリル……?」
ラナは控えめに名を呼んで、ベッドから起き上がった。恐る恐るシャワー室に近づく。すりガラス越しに人影は見えた。けれど微動だにしない。
ラナは思い切って扉を開けた。
もうもうと立ち込めた湯気が、彼女の視界を遮る。何度か瞬きすれば、立ち尽くしたシェリルが見えた。
「シェリル!」
流れ出る温水を散らして、ラナは親友の白い肩を掴んだ。軽く揺さぶれば、亜麻色の髪を肢体に張り付かせた彼女が振り返る。
視線は定まっていない。
なのに、目だけは異様にギラついている。
ラナの腹の底が冷えた。
この顔が何を意味するのかを、ラナは痛いほどに知っている。
「……素敵なお客様との夜は、楽しめたのかしら。ラナ」
シェリルが呟いて、頭をゆるりと傾けた。ラナはぎこちない笑みを浮かべながら、彼女の肩から手を離した。二つ並んだシャワーの栓――その内の、シャワーを止める方の取っ手を回そうと、ゆっくりと腰をかがめる。
「お客様って……なんのことだい、シェリル?」
「とぼけないで」シェリルの声が硬さを帯びた。「見たんだから。裏口で仲良くしてたじゃない」
ラナは慌てて振り返った。シェリルの鋭い視線にたじろぎながらも、首を振る。
「あれは、違う。違うよ、シェリル」
「違う? 笑わせないでよ」
吐き捨てるように笑って、シェリルは一歩近づいた。
ばしゃんと水しぶきが上がる。突然伸ばされたシェリルの手が、ラナの首を掴み、そのまま彼女を壁に縫い止めた。
「ぐっ……!?」
「ねえ、ラナ。私、頑張って働いてたのよ」
呻くラナに、シェリルは顔を近づけた。上気した頰は赤く、亜麻色の髪は真っ白な谷間に誘うように流れていく。ラナと同じく稼ぎ頭である少女は、扇情的な笑みを浮かべて、熱い息を吐いた。
「私のことを見向きもしないおじさんに愛想を振りまいて。気色悪い貴族相手に媚び売って。ねえ、それが私たちの仕事よね?」
ラナは必死に頷きながら、気づかれぬようシャワーの栓に手を伸ばした。
「分かってる……シェリル……っ」
「ねえ、そうよね? なのに、なんで?」シェリルはふいと笑みを消した。「どうしてあんたばっかり、愛されてるの?」
「愛されて……なんか……っ」
「愛されてるじゃない!」
怒号と共に、シェリルが手に力を込める。ラナの視界がちかちかと瞬いた。ラナの指先はまだ、栓に届かない。耳鳴りがして、流れる水音が遠ざかる。
「なんで、あんたばっかり! いつだってそうよ! 私がこんなにも努力してるのに、あんたは簡単に奪ってく! あたしを置いて出ていくんだわ!」
そんなことない。ラナは胸中で弱々しく呟いた。同時に、背筋に冷たいものが落ちた。
ラナは、十年前に娼館で働き始めて以来、外に出たことがない。シェリルを置いて出ていくことなど、あった試しがないのだ。ならば、シェリルは何の話をしているのか。
ラナの心臓がぎゅっと縮んだ。
懐古症候群に罹患した人間は、何かに憑かれたように異常な言動を繰り返す。
まるで無くしてしまった何かを、戻らぬ過去を嘆くように。
そして、魔術師は。
「ねえっ、ラナっ!? 聞いてるの!?」
「っ……!」
伸ばした指先が、温度を調節する方の栓を捉えた。ラナは一気に栓を回す。湯から冷水へ。
勢いよく降り注いだ冷たい水に、シェリルはびくりと動きを止める。拘束から抜けだしたラナは、咳き込みながら親友を抱きしめた。
「っ……シェリル! しっかりして……っ!」
「……ら、な……?」
「大丈夫だから! 私がシェリルを守るから!」
「……あんた……」
「何っ?」
必死に顔を上げれば、シェリルがゆっくりと瞬きした。爛々と輝いていた瞳は鳴りを潜め、見慣れた彼女の目に戻っている。勝気な、けれどどこか心配そうな目。
シェリルが、ラナの頰に張りついた黒灰色の髪を指先で払う。
「なんて顔、してるの。大丈夫?」
ふわりと彼女が笑う。それに何も返せなくて、ラナは息を飲んだ。シェリルはゆるりと目を閉じて、ため息を零す。
ごめんね。呟きのような声とともに、シェリルの体がぐらりとかしいだ。それを抱きとめ、ラナは一緒に座り込む。
ざあざあと、雨が降り注ぐ。冷水は、すぐに二人分の体温を奪った。寒さに震えながら、それでもラナは決意を新たにする。
彼女を、守らなくては。大切な親友を。魔術師の手から。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます