2. 冠するは炎 常世を祓い暁を導け
「何してるの」
食堂の棚を漁っていたラナは、入り口からかかった声に顔を上げた。薄暗く狭い食堂の電気がパッと点く。食堂の入り口に、スカーフを肩から羽織った少女の姿があった。
頭からすっぽりと外套を羽織ったラナを、彼女はジロジロと見やる。
「ラナじゃない。あんた、お客様は?」
「……外で落ち会うんだよ。そういう遊びをしたがる客でさ」
ラナは頭に浮かんだままの嘘を口にして、肩をすくめた。少女は形の良い眉を潜める。髪を指先に巻き付けながら、睨むようにラナを見つめた。
「じゃあ、なんで食堂にいるわけ? とっとと出発すればいいじゃない」
「それは……その、色々と準備が必要なんだ」
「準備って何よ」
「シェリル」ため息まじりにラナは親友の名を呼んだ。彼女に見えぬよう果物ナイフの刃を布巾で包み、さり気なく肩に掛けた鞄に入れる。「私の客はちょっとばかり変なんだよ。前に話しただろ」
「でも、」
「君の方こそ、どうなんだい? もうすぐ客が来るんじゃないか」
ラナが少しばかり強い口調で言うと、シェリルは押し黙った。その顔には、不満の色がありありと浮かんでいる。ラナの言葉が嘘だと見抜いているのだ。物言いこそ厳しいが、ラナの親友は面倒見のいい姉のような存在だった。
シェリルの方に向かいながら、ラナは少しばかり眉尻を落とす。
「……大丈夫だよ、心配しないで。外に行きたがる客だって、これが初めてじゃない。シェリルだって、先週の客は外で相手してただろう?」
「……」
「それに、ほら。鎖もちゃんとつけてるし」足首と手首につけられた鎖を揺らして、ラナはぎこちなく笑う。「これって、GPSが入ってるんだろう? どこにいたって店主は私の居場所を把握できる。何か危険なことがあったら、きっと見つけてくれるさ」
「……危険なことにはね、首をつっこまないのが一番なのよ。分かってる?」
すれ違いざま、シェリルがぽそりと呟いた。蛍光灯の灯りの下で、彼女の柔肌が幽鬼のごとく白く輝いている。ラナは目を伏せた。鞄の肩紐をぎゅっと握る。
結局返事もせずに、ラナは食堂を後にした。
娼館の裏口から外に出たラナを、夜色の空気が出迎えた。眼前には灰色の建物が並び立つ。その隙間から、都市のシンボルでもある時計台が見えた。午後八時を目前にした盤面は薄汚れた黄色に照らされ、朧月のように輝いている。それをしばしの間じっと見つめ、ラナは意を決して歩き始めた。
裏道に人の気配はない。思い出したように吹く生ぬるい風に、ラナはフードの裾を押さえた。下水の臭いに顔をしかめながら、携帯端末を頼りに小走りで進む。
赤い点は先程から同じ場所で止まっていた。だが、どうして廃ビルの解体現場にいるのだろう。シェリルの不安げな顔がちらと頭に浮かぶ。ラナは頭を振って、親友を隅に追いやった。
程なくして、ラナは目的の場所にたどり着いた。
鉄筋の骨格をむき出しにして、ビルが黒々と空に突き立っている。ところどころの壁にかけられた白い布は、風が吹く度に音を立てて揺れる。巨大で、不気味な生き物。嫌な想像から逃げるように、ラナは再び携帯端末を見やった。赤い点が示す場所は確かにここだ。
まさか怖いわけじゃないだろ。ラナは、じっとりと汗が滲む掌を服になすりつけた。帰るなんて、冗談じゃない。彼が魔術師かどうか、見極めなければ。
彼女は唇を噛んだ。端末を鞄にしまい、果物ナイフが入っていることを手だけで確認する。大きく深呼吸して、立入禁止と書かれた白い布を押上げた。
するりと、ラナは中へ身を滑り込ませた。床はすでに剥がされていて、むき出しになった地面から土の匂いが強く香った。見上げれば、鉄筋の狭間から深い闇色の空が見える。
人の気配はない。ラナのみぞおちがぐっと冷えた。やっぱり、自分は地図を見間違えたんじゃないか。すがるような思いで、鞄から携帯端末を取り出す。
時計台が、重々しい鐘の音を響かせ始めた。
「おいっ」
「っ……!」
野太い声に、ラナは携帯端末を取り落とした。勢いよく振り返る。途端に飛び込んでくる眩しい光に、彼女は腕を目にかざす。
「お嬢ちゃん、何してるんだ。こんなところで」
ラナへと向けた懐中電灯を下ろし、作業服を着た禿頭の男が頭を掻いた。ラナは震える息を吐き出す。暴れそうになる心臓を押さえ、すみません、とだけ絞り出す。
男は暗闇の中で乱暴に息をついた。腕を組む。
「すみませんってなぁ……お嬢ちゃん、ここは立入禁止の場所だよ。分かってる?」
「は、い……」
「色々危険だからこそ、子供は入っちゃ駄目なんだ。まったく、近頃の若者と来たら……」
男は足を引きずるようにして歩き始めた。ラナの脇を通り抜け、地面の上に転がった携帯端末のところで立ち止まる。のろのろと腰を屈めた。
「いいか、お嬢ちゃん。そもそも、こんな真夜中に君は出歩くべきではないんだ」
画面の青白い光が、男の丸まった背を照らし出す。面倒なことになった。顔をしかめたラナは、辺りをきょろきょろと見回す。幸か不幸か、二人の他には誰もいない。
「おい、聞いているのか」
「は、はい」
鋭い声が飛んできて、ラナは慌てて返事をした。背を向けたままの男は、少しばかり口調を緩める。
「悪漢に襲われるかもしれないだろ」
「……反省してます」
「いや、かもしれないじゃないな……そうじゃないんだよな。実際に襲われている事例もあって、だからこそ悲しむ家族がいて、俺は」
「おじ、さん?」
ばきん、と何かが壊れる音がした。青白い光が掻き消える。世界が真っ暗になる。男がゆらりと立ち上がる。
その彼が振り返り、ラナは一歩後ずさった。
灯りの消えた廃ビルは真っ暗だ。だというのに、男の影は夜の空気よりも尚暗い。血走った目に射すくめられて、ラナの体は凍りついた。
男が、真っ黒な腕をぬらりと伸ばす。ラナの細い手首を鎖ごと掴んだ。激痛と骨の軋む嫌な音に、ラナは小さく悲鳴を上げた。
「痛っ……!?」
「まも、る……守らねばならないんだよな守らねば奪われ殺されてしまう……から……殺す……殺さねば……」
「っ……やめ、……っ、離して……っ!」
「やめて……やめてか……そうだろうな……あいつもさぞ痛くて怖くて叫んだだろうよお前らにいいようにされてなッ……」
「離せってば……!」
鼻息荒く顔を近づける男から逃げるように、ラナは身を捩った。掴まれていない右手を鞄に突っ込み、必死に動かす。
刃を向ける時には、迷ってはいけないよ。養父の言葉に突き動かされるまま、彼女は取り出した果物ナイフを男に向けて振るった。感触はやけに軽かった。あっけなく拘束が解かれ、ラナは地面に尻もちをつく。生暖かく、鉄臭い何かが勢いよく降りかかる。
男の影が、ぐにゃりと曲がった。
浅い息を吐きながら、ラナは言葉を失う。細い紐のような影が、男の体中から伸びている。それは瞬く間に男を覆いつくした。獲物を喰らわんと蠢く。男の呻き声がぶつんと途切れる。濃くなる血の匂いに、二日酔いよりもひどい吐き気がした。
飛び出した黒い影は、今やラナに向かって首をもたげていた。しゅうしゅうと、訳の分からぬ音がする。紐の先端から滲む液体が地面を溶かす音なのだと、彼女が気付いた時には遅かった。
黒い影が、ラナに襲いかかる。
そして一陣の疾風と共に、ラナの眼前で細切れになった。
「っ、な……」
ラナは思わず目を見開いた。地面の上で、細切れになった影が蠢いている。黒い影の本体が、焦ったように別の紐を伸ばし、小さくなった影を瞬く間に回収する。
それを呆然と見やっていたラナの耳に、足音が届いた。
「雑兵風情が、再生するとは笑わせてくれる」
低く、静かな声。それと共に、影の向こうから一人の男が姿を現した。
ゆるりと生温い風が吹く。薄金色の髪が揺れ、鷹のように細められた金の目が顕になる。ラナは息を呑んだ。
「アラン……」
『――術式展開』
ラナに応じることもなく、アランは歌うように呟いた。何かに口づけるような仕草をした後、右手を黒い影に向かって差し出す。
その指先で、仄かに明滅するのは赤い石。
黒い影が何かを察したかのように、アランに向かって影を伸ばす。だが。
アランはどこまでも優雅に微笑んだ。
『冠するは炎 常世を祓い暁を導け』
その声に応じるように、紅の輝石が澄んだ音を残して砕けた。
欠片が星のように煌めき、散っていく。その一つ一つが、揺らめき、瞬き、燃え上がる。
そうして顕現した紅蓮の炎は、一片の容赦なく黒い影を焼き尽くした。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます