プレアデスの鎖を解け
湊波
[load.preiades(114103:114106)] Il destino di amore non corrisposto.
EP1:AL2O3 幸せな物語の主人公には、なれなかった
1. キセキは、どこから生まれると思う?
「キセキは、どこから生まれると思う?」
男が横柄に尋ねる声がした。ラナは、グラスに氷を入れていた手を止め振り返る。
娼館一番の大きな部屋だ。部屋の半分を占拠するベッドは綺麗に整えられたままであり、シーツの白が日暮れの薄暗闇に沈む。
ベッドの反対側にあるのは開け放たれた窓だ。そこから入ってくるのは、夕焼け色の光と、帰宅を急ぐ車の音。時折響くクラクションの音が、夜を目前にした気怠い空気をかき混ぜる。街の雑味と埃とを孕んだ風がゆるりと吹いた。
そして窓辺の椅子に、彼が――ラナの今夜の客が腰掛けている。薄金色の髪の毛先を風に遊ばせた彼は、ゆったりと長い脚を組んでいた。糊がきいているのか、紺のスラックスはぴんと伸びている。
男の前髪が微かに揺れる。その隙間から、真意の読めぬ金の目がのぞく。
ラナは仕方なく、視線を宙に上げた。うーん……と、わざとらしく呟く。
「奇跡なんて……神様の思し召し次第じゃないのか」女性にしては中性的な声音と言葉遣いのまま、彼女は肩をすくめる。「交通事故で死ぬ人もいれば、奇跡的に助かる人もいる。そこに理由も何もないだろう?」
「そっちの奇跡じゃない」
「おや、そうなのかい?」
「こっちだ」
肘掛けに頬杖をついて、男がひらりと左手を振った。その手に嵌められているのは、鎖を幾重も重ねて作られた
「輝石はどこから来ると思うかね、ラトラナジュ」
男は、いつもの通りにラナの本名を呼んだ。彼女は曖昧に笑う。
正直、どこから来たってラナには関係ない。さりとて、男の機嫌は彼女の今晩の売上に大いに関係する。ラナは気づかれぬよう息を吐いた。過度に媚びへつらう必要はないだろうが、ここらで機嫌をとっておいた方が良さそうだ。
「アラン、意地悪しないで」ラナは眉尻を下げ、首を傾げた。曖昧な笑みを苦笑いに変えて、囁くように懇願する。「教えてくれないのかい?」
男は――アランは、仕方がないと言わんばかりに鼻を鳴らした。けれど、その様はどこか得意げでもある。ラナは胸を撫で下ろした。この解答で正解だったらしい。
アランは左手の人差し指をすいと立てた。
「全ての輝石は土より生まれる。何百年もの間、大地に潰されて初めて完成するのさ」
ラトラナジュは後ろ手でテーブルを探った。先程のグラスを手に取り、次いで探し当てた酒瓶の中身をそこへ注ぐ。飴色のとろりとした蒸留酒が、氷をくるりと動かした。
アランの朗々とした声は続く。
「こうして出来た輝石に我々は名を与え、意味を持たせ、金を積むわけだ」
「宝石に意味なんてあるのかい?」
「石言葉だよ、ラトラナジュ」アランは、腕輪の中心に嵌った深紅の石を指さした。「例えば……ルビーの石言葉は勇気、勝利、純愛。文献によっては、炎と血の象徴とも記されている。転じて、血液の浄化や永遠の命を示すとも」
ラナは、己の親指の爪ほどもあるルビーを見つめ、目を瞬かせた。
「ふぅん。一つの石でも色々と意味があるんだね」
「見る者によって、石の持つ意味は大きく変わるということさ。そして……ここで重要なのは、輝石は全て土から生まれるということだ」
「それの何が大切なんだい?」
「どれほど美しいものであっても、最初は泥だらけの、汚れきった場所から生まれる」
アランの言わんとしたことが分かって、ラナは小さく笑った。薄布を重ねて作られた服の裾を翻す。踊り子のような装いは、科学の発展した現代においては時代遅れの産物だ。けれど、
肩口と太腿を大胆に晒しながら、グラス片手にラナは歩を進める。猫のように目を細め、男の元へ。彼女の両足首につけられた鎖が軽やかに音を奏でる。
男はラナをじっと見つめ、薄く笑みを浮かべた。
「美しさに生まれなど関係ない。
「アランは相変わらず世辞が上手い」
「俺は自分の気持ちに正直なだけだ」
「では素直に喜んでおこうかな」
ラナは酒盃に口づけた。アランの視線が彼女の褐色の肌をなぞる。見せつけるかのようにラナは喉を晒して、少しばかり中身を煽った。くぐもった樽の香りが鼻を抜ける。ぺろりと舌先で唇を舐め、ラナは男の方を見つめた。
雲が差したのか、部屋に差し込む黄昏の光がさっと陰る。
「……それで? アランは、どちらがお望みだい?」
「……どちらでもない」
「へぇ?」
「分かっているだろう? 俺は君とおしゃべりを楽しみにきた。それだけだ」
「アラン……」吐息と共に、ラナは彼のシャツをくしゃりと握った。窓際にグラスを置く。眉根をぎゅっと寄せる。顔を俯ける。ラナの黒灰色の髪が頬を掠めた。「君はいつもそう言う……正直、自信を無くしてしまいそうだよ。これでも、この娼館では稼ぎ頭なんだけれど」
「愛しいからこそ、壊したくないものさ。そこが輝石と君の、一番の違いだ」
「……あんたは口ばかり達者だな」
「可愛らしい挑発だ」
男はラナの癖毛気味の髪を指先に巻きつけた。三十にしては若く見える彼は、ラナの耳元に顔を近づける。彼女は目を閉じた。その鼻先を艶のある香りが擽っていく。男の耳飾りが、戯れのように彼女の首筋をなぞる。
「君は美しい宝石でもあるが、気高い猫のようでもある」
ラナはパッと目を見開き、突き放すようにシャツを離した。男は大げさによろめいてみせる。薄金色の髪は、再び差し始めた斜陽を透かして淡く光っている。
「それでは、愛しい君。今日も良い時間が過ごせた」
「……私にとっては、今日も良くない時間だった」
「直接示すばかりが愛ではないさ」
男は肩をすくめ、扉に向かう。ラナは窓辺に腰掛けた。唇を尖らせながら、酒に浸した指先でグラスの縁をなぞる。
視界の端で、男が外套を羽織った。ポケットから取り出した携帯端末を片手で操作している。今日の分の入金か。はたまた、仕事の案件でも確認しているのか。どちらであれ気に食わず、ラトラナジュはこれ見よがしに視線を外す。
程なくして男が近づく足音がした。
「ではな、ラトラナジュ。愛しているよ」
ラナは息をつく。もう何百回繰り返したか分からない、いつも通りのやりとりだ。濡れた指を止め、ゆっくりと顔を上げた。
「……私も愛しているよ、アラン・スミシー」
渋々お決まりの台詞を吐けば、男は金色の目をきらりと光らせてから部屋を出ていった。
扉が閉まる。ラナは勢いよくグラスを持ち上げ、中身を一気に煽った。不味いだけでしかない酒に舌打ちする。頭を乱暴に掻く。
今日も駄目だった。一体あの男はいつになったら尻尾を出すのか。ラナは胸中で吐き捨てた。音を立ててグラスを窓際に置く。窓を横目で睨む。
陽は落ちかかっていた。建て替え中のビルの影が、ぼんやり浮かんでいる。一羽のカラスが鳴き声を上げて飛び立つ。
不意に、心臓を掴まれたような息苦しさを覚えた。ラナは唇を噛む。懐を弄って、懐古時計を取り出した。
困った時は、これを私代わりだと思いなさい。とかくアナログな物、古い物が好きだった亡き養父を思い出す。養父さん、私はどうしたらいいんだろう。ラナは時計を握りしめ、逃げるように目を閉じた。
この娼館の中に、
娼館で働く少女達の、噂話を聞いたのは先週のことだ。それ以来、黒い靄はずっとラナの胸にこびりついている。
懐古症候群。発症すれば二度と治らない精神疾患。患者は何かに憑かれたように異常な言動を繰り返す。まるで無くしてしまった何かを、戻らぬ過去を嘆くよう――だからこその、懐古症候群。
そして、懐古症候群を発症した人間は、魔術師によって命を奪われる。
それは駄目だ。ラナは胸中で呻いた。
養父を亡くし、彼女がこの娼館で働きはじめて十年経つ。環境は良いとは言えなかった。
それでもラナにとって、ここは守るべき家だった。大切な友人だっている。それが壊されるのを、どうして黙ってみていられるだろう。
手のひら越しに、懐古時計がかちりと音を立てた。お前のしたようにすればいい。記憶の中の養父がそう囁いた気がする。私はいつだって、お前を見守っているから。
ラナはゆっくりと目を開けた。
日が沈む。最後の残光がグラスの縁を弾いて消える。ラナは懐古時計を懐にしまった。首を振り、立ち上がる。小走りに、ベッドサイドに置かれた棚へ向かう。
一段目の引き出しから携帯端末を取り出した。数度画面をタップすれば、無機質な青白い光と共に、目的の地図が画面に表示される。明滅する赤い点は地図上をゆっくりと移動している。
――ではな、ラトラナジュ。愛しているよ。
去り際の、穏やかなアランの声が蘇った。その声音に滲む暖かさは亡き父に似ている気がして、胸がつきりと痛んで。
そんな自分をラナは笑う。娼婦へ囁かれる愛に、一体何の価値があるというのだろう。
ラナは己を叱咤するように端末を握りしめ、顔を上げた。
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