パラケルススの娘たち

まきや

パラケルススの娘たち



卵が先か親鳥が先かなんて話、よくあるでしょう。


それは私たちだって、多分ずっと、大昔からしてきた話。


私たちのずっとずっと前の私たちだって、多分ずっと、そんな話をしてきたに違いないわ。




いつもみたいに空を飛んで、木々の間を抜けてきた。


どれぐらい飛んできたのかはわからない。


飛んでいる間って、あまり物事を覚えていないんだもの。


けれど今回は私が、その男の子を橋の上で見つけたの。


私たち、じゃあないよ。


こだわるよ、そこが重要だから。



水の上を川に沿って飛んでいたら、次の橋がやってきた。


競争だという意味の口笛を誰かが吹いたので、あわてて欄干らんかん隙間すきまを通ろうとした。


その子が見えた。


ちょっと暗い顔をして、川と空のあいだをぼおっと眺めてた。


茶色い瞳がうるんでいて、睫毛がとても長かった。


細くて黒い髪は、先に飛んでいった私たちに揺らされて。


ふわっふわの、さらっさら。


私は馬鹿じゃないから、すぐに気づいた。


このまま、ぼぉっと飛んでたら、ぶつかっちゃう!


私の手が足が、そして顔が……あの子の白い頬に触れてしまう!


ドキッとした瞬間、私が私たちから別れ出た。


私は急な方向転換で、橋の下にするりと逃げてしまった。


すごい急降下ダイブ。真っ黒の汚れた川にぶつかりそうになった。


あわてて体を起こして向きを変えて、橋の下から空に逃げ出たわ。


あの子はまだ、そこにいた。


私はゆっくりと渦を描きながら、川から立ち登ってくる仲間のあいだを降りてきた。


欄干の柱に手を伸ばして捕まって、下の方からその子の顔を覗き見た。


あ、泣いてる……悲しそうに。


大きなまぶたが閉じて、押し出された涙がひと粒、落ちてく。


ちょっと、なんだか私、とっても体温が高くなった気がするんですけど。


熱が上がったら大変。逆らえない力に急激に下から押され、思わず雲のところまで浮かんで行きそうになった。


やばいって思ったけれど、気持ちなんだよ? 簡単に止められないじゃない。


私は石でも鉄でも無いんだから。



”ねえ! ちょっとそこのエアリアル!”


って、私を呼ぶ声がする。川の方を見ると、橋の下でなんだか水面が盛り上がって見えた。


”私が先に目をつけたのよ! 勝手に想って、舞い上がらないでくれる?”


出た。嘘みたいな難癖なんくせの付け方。


あんな物言いで、いっつも濡れた服着てるのに、私たちの姉妹だなんて、信じられる?


ただのウンディーネのくせに。


私は嫌味たっぷりに言ってやった。


”あの子の涙が水に落ちたから、あわててもの欲しくなって出てきたんでしょう。恥ずかしくないの?”


”はあ? 言いがかりはよして。私は昨日もおとといも、彼がここにいるのを知っているんだから!”


それは初耳だった。あれ、もしかして形勢不利になってる?


”ば、ばっかみたい! 誰がそんな嘘、信じられるもんですか?”


私は言ってやった。


”そんな「わたしのものー」なんて言い方したって、知るもんですか。せいぜい彼がここを去るまで、いきがってればいいわ!”


”なんですって?”


”あなたのそのべちゃっとした下半身は、その汚らしい川にくっついて、離れられないじゃない。その点、私はずっと一緒にいられるんだから。文字通り彼に『抱きしめられるように』ね……”


”ちょっといい加減にしなさいよ! ただの吹いて飛ぶような、小風こかぜのくせに! 私だって雨になれば、彼に付いていられるわ!”


”かわいたらぁ? どーするんですかぁ? あはは、ばっからしい。私の方がやっぱり有利よね!”


”へん! あんたなんか、醜いオーカスに食べられてしまえばいいんだわ!”


”あんな豚が空気の私を食べられるものですか!”


”食べられるわよ! 吸い込まれたら逃げられないのが、あなた達ですもんねぇ。鼻水だらけの豚鼻に吸われて、腐った食べ物と一緒に腸を流されなさい。そして汚い所から臭い空気と一緒に出てしまえばいいのよ!”


”なぁんですってぇぇ!! い、言うに事欠いて、この水女みずおんな! あんたたち何人の夫を呪い殺せば気が済むのさ! 火トカゲサラマンドラに焼かれて蒸発するがいい!”


”じょうはつしても、しにませんよぉ、だ! そもそもあんたたちが言いふらしている伝説なんて、信じるもんですか! この嘘つきビュービュー風女かぜおんな!! 臭い息!”


”黙れ! 黙れ! 黙れ! このぐちゃぐちゃみずぺちゃパイ!!”



今となってはこのいさかい、流石に恥ずかしい。


久しぶりに、私になったのが嬉しくて、お互い夢中になりすぎちゃった。


少年がはっと顔を上げた仕草にも、近づいてくる人影にも。


私もあいつも気づいてなかった。


(……気づいていたら、邪魔できたのに)


”ねえ!”


”何よ!”


”ちょっとあれ……”


”え? あ……”


もう遅かったわ。


あの長いまつげの男の子、いつの間にか来た女の子と……。


橋の上で抱き合ってるじゃない。


”……”


”……”


二人は手を取り合って、橋の上から去っていく。


もう惨めすぎた。


その後を追うなんて、少しでも、絶対に出来なかった。


”終わったのね……”


水のあいつが言った。悔しいな。否定はできないか。


”そうね”


”また戻るのね、水の中に”


”そうみたい。私は風だけど”


”今回は少し長く私でいられた”


”本当だったんだ。私は一瞬だった”


”ねえ、聞いてもいい?”


私は静かに同意した。


これは建前のやりとり。


精霊はあらたまって聞かれた質問を断ることはできない性質がある。


だから相手もわかってて口にしているの。


そんな時、次に何を尋ねてくるのかは想像できる。


”恋したから『私』になったの? それとも『私』になってから、好きになったの?”


”わからないわ”


”私も”


”どっちでもいいじゃない。少しだけでも『私』になれたんだから”


”そうね”


”……”


”……”


”そろそろ時間ね……”


”そうね”


私は自分の中に起こる変化の合図を、明確に感じ取っていた。


あったかさが無くなっていく。


私の少し高いエントロピーが、周囲の無数の風たちに、どんどん溶け込んでいくの。


たぶんあの子も、水の中で同じ体験をしている。


それは私が私たちになる合図だから。


薄まっていく私の意識は、声を絞り出した。


”じゃあね”


”さよ……なら……”


向こうからの最後の返事は、あまりよく聞こえなかった。


やがて、奥底から聞こえてくるのは、延々と繰り返される終わりのない、あの言葉――。



卵が先か親鳥が先かなんて話、よくあるでしょう。


それは私たちだって、多分ずっと、大昔からしてきた話。


私たちのずっとずっと前の私たちだって、多分ずっと。


そんな話をしてきたに違いない。


多分ね。




(パラケルススの娘たち   おわり)

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