終章 別離のエピロゴス 2
何も見えない。何も聞こえない。何も感じない。
光は見えず、されど暗闇ですらなく、静寂すら認識できない。寒さも暑さもない。自分の体すら喪失している。ここがどこで今がいつなのかも分からない。自分が誰なのかも曖昧だ。
理解できるのは、自分が今から死ぬということ。それに対して、あまり動じていない自分と、酷く慄いている自分がいる。そして、これでよかったのだと確信している自分もいた。
何故、自分は死ぬのだろうか。確か、自分を殺す為だ。自分には自分を殺す責任があり、自分を殺すには自分が死ぬ必要があった。死は恐ろしいし、この世に生を受けた以上、生きることを追い求めるべきだ。しかし、それでも死ぬことに後悔はない。
――それは、本当に?
自分の中から、そんな問いかけが湧き出る。
無論だ。疑問を投げかける自分は、きっと死が恐ろしいだけなのだ。きっと生へ向かう義務を果たそうとしているだけなのだ。
――諦めるのか?
そうではない。受け入れるのだ。後悔を抱いたままの諦念ではない。全て納得した上での受容だ。自分の死には意義がある。死を素晴らしいものだとは思わないけれど、きっと自分の死は忌避すべき、ただ冷たいだけのものではない筈だ。
――確かに、その通りだ。
漸く自分の中の声が納得した。
しかし、自分の中にここまで生への執着を抱いた自分がいることには驚いた。
――いや、最早執着はない。ただ、疑問だっただけだ。
そうか。何れにせよ、自分の中で足並みが揃っていないのは気持ちが悪い。意思を統一することは必要なことだった。
――ああ、必要なことだ。この疑問を解かぬ限り、心の平穏は訪れない。
それはよかった。疑問は解けて、これで安心して死ぬことができる。
しかし、どうやら自分の中の疑問は未だ解けていないようだった。
――疑問だった。確かにこの死には意義がある。だが、貴様の生への執着は、その程度で死を受け入れるようなものだったのか、涯島相人。
その名を聞いた瞬間、世界が生まれた。
真っ白な世界。何もない、足場もなく、自分が今どうやって立っているかも分からないような殺風景な世界だった。色がなく、音もなく、しかしそれでも、自分は確かにここにいる。そして、自分が誰なのかもわかっている。自分は――、
「――僕は、涯島相人だ」
自分を自分としか認識できていなかった。それを今、相人は自分を相人だと認識している。
「まさか、また会うとは思わなかった」
「私もだ。よもや平静より生まれた私が、このようなことで平穏を崩すことになろうとは」
相人の前には壁と見紛うような巨体が立っている。彼の名はキビシス。相人に敗れ、相人と融合したアルコーンだ。
「先の問いに答えろ、涯島相人。貴様が解を示さなければ、落ち着いて死ぬこともできん」
キビシスの問い。それは、相人の生と死に対する意識を質す問いだ。
「私は貴様の生への執着に敗北した。私を討ち果たした貴様の執着は、大義名分一つで翻るような軽いものだったのか?」
大義名分などと、そんな言葉で一言に纏めないでほしい。死を選ぶことが軽々しい訳がない。自分には責任があったのだ。――そう言い返そうとしても、何故か声にならなかった。
「そうだと言うのなら、それはそれで構わん。だとすれば私の執着がそれ以上に軽かったというだけのことだ。だが、貴様の口から答えを聞くまでは引き下がれん」
そうだ。失望されようが、それが答えだ。――やはり、声には出ない。
「もう一度問おう。――貴様の執着は、自己犠牲などに敗北する程度のものだったのか?」
「じ、こぎせい……?」
途端に胸が痛くなった。
体の中心を、凄まじい激痛が襲う。あまりの痛みに立っていられなくなる。この痛みは、自分の中に異物があるかのような、この痛みは――拒絶反応だ。
こんな痛み、とっくに慣れた筈だった。三年間蝕まれ、ここ最近は完全に耐えきっていた痛みだ。こんなもの、もうどうということはない筈だ。
それでも耐えられない。この痛みは今まで感じたことない程の激痛だ。
痛い。耐えられない。こんな痛み、胸を抉り取ってしまった方が余程ましに違いない。
そう思った時には、相人は自分の胸に手を突っ込んで、心臓を取り出していた。
同時に、相人の痛みは綺麗に治まった。
「ああ――、そうだったのか」
相人は、自分の手の中で蠢く心臓――キュエネーを見た。
「何で、こんなことに気が付かなかったんだ、僕は。自分の気持ちにすら気が付けなかった。ずっと自己犠牲に塗り潰されていたんだ。僕はまだ死ぬ訳にはいかない。僕はみんなと約束した。だから、生きなくちゃいけない。――いいや、生きたい。生きて、約束を果たしたい」
相人が自らの答えを出した瞬間、キビシスは一言も語ることなく世界から消え失せた。
本当に、相人の答えが気になって死ぬこともできなかっただけらしい。
そして、一瞬前までキビシスが立っていた場所には、
「――愛」
西園愛が、立っていた。
「相人、生きたいのなら私と一緒に来て。一緒に死ぬだなんて言わないで」
「それはできない。僕は生きたいけど、責任を投げ出すことはできない」
愛の求めを、一瞬の逡巡もなく相人は却下した。
「そうでしょうね。残念だわ。いいえ、そう答えてくれてよかった。だって、他の人との約束よりも、私への責任を優先してくれたってことだもの」
愛は、拒絶されたにも関わらず、今まで見た中で最も穏やかな表情をしていた。
「――だから、それで十分よ」
「愛……?」
愛の様子に違和感を覚え、彼女の名を呼んだ瞬間、相人は異常を知覚した。
愛の姿が霞んでいる。まさか、拒絶反応による死がやってきたのか。
「私は相人と一緒に生きたい。でも、それは叶わない。相人は一緒に死ぬと言ってくれたけれど、ごめんなさい。私は、相人だけでも生きていてほしいんだって、やっと気付けたわ」
愛がそこにいる筈なのに、その背後の空間が見えるようになって、相人は気が付いた。自分の体は何ともない。消えているのは愛だけだ。
現在は相人の融合に主導権があるが、愛の能力は分離だ。愛は、融合によって生じる拒絶反応ごと、自分を相人から分離しようとしているのだ。
「愛、っ……!」
「そんな悲しそうな顔をしないで、相人。私は、相人が私の為に死ぬことを選んでくれただけで、幸せだった。私の最期に、最高のいいことをくれてありがとう」
愛は、涙を流しながら、満面の笑みを浮かべた。
「愛っ! 愛……!」
相人には、ただ愛の名前を呼ぶことしかできない。自分には、目の前の少女を救うことはできないのだと、知っているから。
愛は本当に幸せそうな笑顔で、最期の言葉を贈る。
「――愛しているわ、相人」
相人が目を覚ましたのは、みんなが相人の病室に見舞いに来ている時だった。
目を開けて最初に見た光景は、ベッドに眠る自分を囲む仲間達の視線だ。次いで、見慣れない白い天井。仕切り用のカーテン。どうやら愛との戦いの後病院に運ばれたらしい。
相人の目覚めに、凛は喜びの声を上げた。
遥は安心のあまり腰を抜かし、声を上げて涙を流した。
由羽は長い長い安堵の溜め息を吐き出した。
伊織は黙って相人の背中をいつもより少し強い力で叩いた。
ハーミーズは曇った眼鏡の汚れを取るふりをして、目元の涙を拭った。
漸く帰ってきた。言いたいことは沢山ある。聞きたいことも数えきれない。語り合いたいことなど、それこそ山のようだ。
それでも、相人はこの言葉だけは言わなければならないと――否、言いたいと思っていた。
「――みんな、ただいま」
渾融のパトス 黒鉛筆 @kuroenpitu
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます