8 紅い花

 かすかな軋みをあげて、マンションのドアは開いた。

 あの花の甘い香りが、ねっとりとあふれ出て俺を包む。

 

 香りの奥に、真っ白なセーターとスカートを身につけた京香が、怯えた目をして立っていた。


「響一さん……来るのは、明日じゃあ……」


 言い終わらないうちに、俺は京香を張り倒した。


「なんだてめえ、俺が来るのがそんなに迷惑か、ああっ!」


 床に倒れた京香が頬を押さえ、しゃくり上げる。

 俺はその背中まで届く黒髪を掴み、引き上げた。


「あっ……」


 京香の顔が、苦痛でかすかに歪む。

 濡れた瞳が悲しげに俺を見つめる。この女の、一番美しい表情だ。


「金だ。あと、ビールもな」


 俺は奥の部屋のソファに腰を下ろし、部屋を見回した。

 さして広くもない2LDKが、温室のように花で満ちている。


 あの、紅い花だ。

 何ヶ月か前に、気まぐれに連れてやっていった海岸沿いの植物園。他とはポツンと離れて、黒に近い緑の茂みに大きく鮮やかな紅の花が散っていた。むしった花は手のひらの中で柔らかく潰れ、血のような汁を流した。


 あの時、京香がいやに熱心に花の説明を読んでいたと思ったら、次の週には部屋に鉢植えが並んでいた。それから来る度に紅い花は増えて、今ではこの有様だ。古い花もドライフラワーにして残しているので、部屋の中は甘い香りでむせ返るようだ。


 ……まあ、可愛いといえば可愛い。

 俺が京香をどこかに連れていってやったといえば、あの時ぐらいだ。それを、思い出として大事に抱え込んでいるという訳なのだろう。

 まあ、だからといって、俺が優しくしてやろうと思う訳なぞ無いが。


 なにしろ京香をここまでにするには、けっこう手間がかかっているんだ。

 一番最初は、京香が一人でバーにいたのを睡眠薬でつぶして食ったんだ。おとなしそうに見えたから、それでいけると思ったら大間違い。脅して、すかして、ありもしないバックをちらつかせて……

 結局、クスリとセックス漬けにして、やっと言うことを聞くようになった。


 と、安心して京香の母親からも金を引っぱったのが……もう半年も前になるか。


 あの時は、俺もびびった。

 ドアを開けた途端に、京香が何だかわめきながら体ごとぶつかって来たからな。刺身包丁を握りしめてだ。


 紙一重のところでかわして、包丁を取り上げたんだが、もみ合っているうちに、あつらえたばかりのジャケットがボロボロになっちまった。


 俺はキレた。


 声も出せなくなるまでぶちのめしてから素裸に剥いて、そのままトイレに繋いでやった。

 丁度、京香に試してやろうと思っていくつか「道具」を持って来ていた所で、その中に手錠と縄もあったんだ。


 それから一週間、残りの「道具」も使って京香をゆっくり可愛がってやった。トイレの中だったから、「道具」は全部使えたしな。

 ……一週間後には、顔はもちろん体の形まで変わっちまって、しばらく外にも出られないような状態だった。なに、その後は俺が世話をしてやったんだよ。優しくな。

 逃げ場のない、絶望の底まで落としておいてから、ちょっと手を差し伸べてやる。これが一番効くんだよ。

 実際、京香もそれからは大人しく言うことを聞くようになったからな。


 最近は、女か金が切れた時に使うようにしている。


「……どうぞ」


 ーー京香が、缶ビールとグラス、そして白い封筒の載った盆をテーブルに置いた。


「八万か。……よし、来週は改めて十万だ」


「そんな!」


 京香の、真っ白に握りしめた両の手が小さく震えている。


「どうして、そんなにいじめるんですか。私、私、一生懸命やっているのに……」


「ああ? 幸せだろう? 愛する男に尽くせてよ」


「あなたなんか嫌いよ!」


 突然、ものすごい目になって、京香は叫んだ。


「私から何もかも奪っておいて……沢山の夢があったのに、沢山の未来があったのに……何もかも!」


 ……なんだ、こいつ。


「ーー分かった分かった、いいからこっちに来いよ。今日は新しいクスリを持って来てやったんだ。夜が明けるまで、楽しめるぜ」


「嫌。そんなものをやって、あなたに抱かれたら、また自分が分からなくなっちゃうわ」


「いい加減にしろよ。なんだってんだよ。お前に何ができるってんだよ! 去年のように、俺に向かって包丁でも振り回してみるか? あの時どうなったか、忘れたのか、ああっ!」


 俺は京香を床に押し倒した。


「あの時は、楽しい一週間だったぜ。 ーー今度は、どこに繋いでやろうか?」


「できないわ……あんなこと、もうさせないわ……」


 京香の顔に、薄く笑いが張り付いた。こいつが笑うのを見るなぞ、俺は初めてだった。

 いつもと様子が違う。俺は不安になって、京香の左右の頬を張った。


 京香の口元から、ひとすじ、紅い線が流れた。


「ふざけるなよ、お前は黙って俺の言うことを聞いていればいいんだよ。お前はな、泣くことしかできない女なんだよ。他に何も、出来やしないんだよ!」


「出来るわ……私にだって、お部屋を花で一杯にすることぐらい……」


「ああ?」


 何を言っているんだ、こいつ。


「知らなかったでしょう、あなたは、あの時植物園で花の説明なんか読まなかったから。この花の香りはね、ガスの匂いを消してしまうの」


 いつのまにか、京香の右手には、銀色のライターが握られていた。

 と、思う間も無く京香の両腕が俺に絡み付いた。信じられないような力で。


 そしてその時、俺は気付いた。キッチンの方から聞こえる、空気の漏れるようなかすかな音に。


「知らなかったでしょう」


 俺の背にまわされたその手の中で、ライターが小さくカチリと鳴った。



 

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