第2話 65ミリリットル

 16歳の頃、私は自分がとても嫌いだった。


 環境等に原因があったのではない。ただ、自分に裏切られてばかりだったから。


 努力したつもりでも、何一つ結果に結び付かず、人に好かれることもなく、大切なものは、いつも失ってから気づいた。自分でいるのが、苦痛だった。


 ごはんを食べるのも、罪悪感があった。そして、食べるのをやめた。


 どのくらいの期間、そんなことをしていたか、覚えていないが、痩せていっていることには気がついていた。でも、誰にも気付かれていないと思っていた。



 そんなある日、盲腸になった。保健室から、病院に運ばれて、さっさと切ってしまった。盲腸炎自体は、ごく軽いものだったが、退院はずっと先になると言われた。


 体重が少なすぎたからだ。知らなかったか、髪の毛も抜け落ちていた。



 手術の後、しばらくは、意識が朦朧としていたのだと思う。記憶にあるのは、とにかく寒く、震えで体が跳ねていたこと位だ。


 多分、何日か過ぎた頃だろう。ようやく落ち着いて、周りを見る余裕が出来た。どうやら、私は六人部屋の隅に寝かされているらしい。体を起こすと、ひどく頭が痛んだので、横になったまま、交わされる会話を聞いていた。



「……見舞いにも来ないんだから、ほんとに冷たいものだよ」



「でもあんたのところのお嫁さんは、でしゃばらないから、まだいいよ。うちのなんてねえ……」



 どうして、皆、自分の方がより不幸せだと、言い合っているのだろう。不思議だったが、私には考える力が残っていなかった。



「……あら、しげさん、またお出かけ? 」



誰かが、誰かに声をかけている。返事はなかったが、ぺた、ぺた、と、ゆっくりとしたスリッパの音が通りすぎていく。



「しげさん、ヤクルト持って、いつもどこ行くの? 」



「三階に入院してる、おじいさんの所」



「へえー。足も弱っているのに、朝夕だものねえ。おじいさん、だいぶ悪いの? 」



「さあねえ……本人はなにも言わないから。でもいいわねえ。うちのなんて……」



 そうか……しげさんっていうのか。そう言えば、今朝も、夕べも、昨日の朝も、あの足音が聞こえていたっけ。ヤクルト、持って行ってたんだ。おじいさん、ヤクルトが好きなんだろうか……


 ぼんやりと、そんなことを思っていた。



 本当に毎日、朝夕必ず、しげさんの足音が聞こえていた。しげさんの声は、聞いたことがなかった。たまに、看護師さんが怒る声が聞こえた。ヤクルトはしげさんの栄養のために出ているのだから、自分で飲まなくちゃいけません、と。


 ある日、しげさんはどうしても自分のヤクルトを飲まなくてはならなくなってしまった。看護師さんが、食事が終わるまで側にいて、見逃してくれなかったのだ。



「……おじいさんが……」



しげさんは、ぽつりと、言った。しわしわの、小さな言葉だった。


 

 小さな、言葉。――けれど、私の中で、何かが起きたのだ。私の胸の奥の、狭まった隙間から、ちるちると、血液が流れ込んでくるようだった。


 私は飛び起きて、自分のヤクルトをしげさんの手に握らせ、おじいさんの待つ病室に、おんぶして行って――という衝動に駆られたのだが、急にそんな体力が沸いてくるわけもなく、ただ情けなく横たわっているだけだった。悔しかった。


 

 私は、知った。


 私は自分のことしか、考えていなかったのだ。自分に囚われて、申し訳ないとか、権利がないだとか、卑屈になっていた。まるでそれが、正しいことであるかのように。


 ヤクルトは、しげさん自身が飲むのが正しいに違いない。けれど、しげさんの想いは、65ミリリットルの栄養を摂取して、満たされるものではない。長い年月を共に生き、今は別々の部屋に眠る、愛する人への献身に、正しさを突きつけて一体何になるのか。



 私は、食べ始めた。食べて、回復して、ヤクルトが出るようになったら、しげさんにあげるのだ。何か間違っているかもしれないけれど、そうしたかった。


 若かったことが幸いだった。私は自分でも驚くほど、体力を回復していった。そして、しばらく体を起こしていても、頭痛に悶えるようなことがなくなって、やっと、願いを叶えることが出来たのだ。



「……ありがとうね」



しげさんは、皺だらけの手で、受け取ってくれた。そして、ぱた、ぱた、と、病室を出ていった。曲がった腰で、両足を精一杯開いて、おじいさんの元へと。



 生きていよう、と、思った。


 たとえば、お礼を言われたら、恥ずかしい位の、些細なことしか出来ないとしても、それすらできなくなるよりはずっといい。


 自分のことが嫌いでもいい。誰かの生き方を好きになれたら、そのように生きていけばいい。たぶん、それでいい。


 何だか、肩の力が抜けた。



 それからしばらくして、しげさんは、退院していった。私はそのとき、眠っていたので、挨拶をすることもできなかった。


 おじいさんが、亡くなったからだと、後から聞いた。しげさんは、遠くに住む息子さんが迎えに来たらしい。寂しくないといい。



 目を覚ました私が見つけたのは、枕元のテレビ台にそっと置かれた、ヤクルトだった。


 

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やもあらかると やもりれん @yamore002

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