やもあらかると

やもりれん

第1話 たまごやき

 父は不器用だった。


 自動車の免許を持っていないので、外出はいつも自転車だった。幼い私を後ろに乗せては、古い歌謡曲を歌いつつ、土手を走ってくれたのは楽しい思い出なのだが、ちょっとした凸凹でよろけ、転がり落ちた私を置いてきぼりにして行ってしまったという、情けない記憶の方がより鮮明だ。


 ある時は、車のハッチに荷物を積み、自分の頭を引っ込めるより先に、ハッチドアを閉めようとして、後頭部を強打した。またある時は、サッカーボールを蹴ろうとして、地面を力一杯蹴り飛ばし、足首を骨折した。

 運動会のPTAリレーでは、コーナーで必ず滑って転んだ。もはや名物だった。自分で閉めたシャッターに、足を挟まれるなんてことは、当たり前すぎて笑いもとれない。


 兄が初めてネクタイを結んだとき、父は嬉しそうに、何度も結んだりほどいたりして教えたが、逆だった。父は左利きだった。

 組立式の家具を買ってきて、慎重に、丁寧に組み立ててくれたが、化粧板の表裏が逆だった。父は左利きを言い訳にしたが、関係なかった。


 父は鈍感だった。


 お酒の席から上機嫌で帰ってくると、ワイシャツの背中が血塗れだった。母が無理矢理病院に連れていくと、どこかにぶつけたらしく、そこそこ深い傷があった。ついでに、既に自然治癒しかけている、肋骨のヒビも見つかった。医者は呆れていた。


 カラオケが大好きで、自分は上手いと錯覚していて、マイクが自分の存在意義に疑問を持ちかねないほど、大声で歌っていたが、サビで喀血。どうやら、喉に大きなポリープがあったのに全く気付いていなかったらしい。医者は嘆いていた。


 図書館の文学全集を読破したくせに、人の気持ちにも鈍感だった。母がドラマを観て涙すると、小馬鹿にして笑い、私が卒園式で泣くと、『何が気に入らんねん』と怒った。兄が成績のことで悩んでいる風だったときも、『阪神が敗けたからフテ腐れとんねん』と決めつけていた。説明するのもめんどくさかったので、それぞれスルーしていた。


 母のいない土曜日、父は私に昼御飯を作ってくれた。必ず、味噌味のインスタントラーメンだった。野菜などを入れる発想はなく、魚の缶詰めを乗せて完成だった。味覚が発達途上にあった私は、これが美味しいという感覚なのだと刷り込まれた、という気がする。

 父は質素な暮らしの家庭で育ったらしい。そのせいなのか、単に性格がアバウトだからか、父の頭の中にある『メニュー』というのは、ほんの数種類しかなかった。そして冒険をしない質なので、なかなか増えることはなかった。


 私が少し大きくなって、料理を覚えはじめると、父は謎の料理も食べるようになった。文句も言わないが、感想も言わないので、多分不味かったのだろう。

 ある時、見よう見まねでだし巻き玉子を作った。

 父は、はじめて、『うまい』と言ってくれた。そして、いきなり思い出話を始めた。


「俺の生まれた家は貧しかったから、お袋はみんなに、俺を産むのを止められたんやと。でも、お袋は、どんな苦労しても育てるから、言うて、無理言うて、俺を産んだんやと。ほんで、俺が小さい頃な、覚えてるんは、入学か何かの祝いの時、俺のために卵焼き焼いてくれた。全然豪華なもんやないことは、知っとったけど、何やめちゃめちゃうまかった。忘れられんほど、うまかった」

 

 私の卵焼きは、それほどの味ではなかったと思う。けれど、父の中にある、幸福の記憶を呼び起こす、一助にはなった。

 私は、嬉しかった。今も、忘れないほど。


 父よ。

 あなたを思うと、悲しくなるどころか、苦笑してしまうのだけれど、それもまた、あなたの不器用な愛だったのかもしれない。

 あなたの知り得なかった未来を、私が現在として歩み、そして私の見果てぬ世界を、新しい命となったあなたが繋いでくれるのだと、そう、知っている。

 その前に一瞬でいい、あなたに会って、有り難うを言いたい。


 卵焼きは、今や私の、特別な料理だ。

 

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