逃走の果て



 

 俺はやっぱり頭が悪い。

 そうだよ。

 よく考えればこの可能性は浮かんでもいいはずだ。

 むしろなんで思いつかなかったんだ。

 自分のバカさ加減が嫌になる。



 俺のことをガン見しながら車をすり抜けた女の人は、しばらく固まっていたかと思うと、ニヤニヤしながらこっちに向かってきた。

 ただ、その方法は人間のそれではない。

 浮いたのだ。

 重力なんて存在してないかのように、ふわっと、いや、スーッと浮いて、俺の部屋まで一直線に進んでくる。

 俺はまだ身体が固まっている。

 なんとなく、何が起きているのかは理解しているつもりだ。

 この女の人についても、まぁ多分こうだろうという予想はついている。

 でも、衝撃的すぎて身体が動かない。

 だって、俺はこの人が車に轢かれると思ってたんだ。

 車に轢かれて、質量の暴力に吹っ飛ばされて、死にはしなくても、大なり小なり怪我をする。

 そう思っていた。

 なのに、この女の人は……。



 女の人は浮いたまま俺の部屋の窓の前で止まる。

 「入っていい?」と聞かれたけど、俺はまだ動けない。

 もう一度「ねぇ、入っていいよね?」と聞かれて、俺はやっと返事をした。

 いや、返事はしてない。

 首を縦に振っただけだ。

 まだ声なんて出せる状況じゃない。

 かろうじて首だけが動いた。

 彼女は満足したように笑いながら「じゃ、お邪魔しまーす」と言いながら俺の部屋に入ってくる。

 もちろん、玄関に戻って、階段を上って、俺の部屋に入ってくるのではない。

 部屋の窓から直接入ってくるわけでもない。

 彼女は特別な表情を浮かべるわけでもなく、まるでそれが当然だと言わんばかりの様子で、部屋の壁をすり抜けて入ってきた。

 部屋に入ってきて、床に胡坐をかき、俺の様子など意に介していないかのように、話し始める。

 


 「ねぇねぇ」

 「あ、はい」

 「座ったら?」



 ……ここ俺んちなんだけど?

 そう思わないでもなかったけど、確かに、今のままだと俺が上から見下ろしてる感じになる。

 それはちょっと良くないような気がする。

 まぁほぼ間違いなく年上だろうし。

 俺はまるで他人の家に居るかのような心地を味わいながら、腰を下ろした。

 どう座るか迷う。

 胡坐……はだめだよな。

 絶対だめだ。

 じゃあ、正座とか?

 まぁ正座でいいか。

 床に正座した。

 女の人は、俺が座る様子を楽しそうにニヤニヤ眺めて、姿勢が落ち着いた頃を見計らって、また口を開いた。



 「君、名前は?」

 「え……」

 「名前だよ、なーまーえ。 もしかして忘れちゃった?」

 「あ、神野憶人かみのおくと、ですけど……」

 「ふーん…… どんな字?」

 「……字?」

 「漢字。 かみのおくとってどんな漢字?」

 「あぁ…… えっと…… 神様の神に、野原の野、あと記憶の憶に、人間の人で、神野憶人です」

 「へー。 あ、私大森はるね。 よくある大森に、太陽の陽で、大森陽。 ハルさんって呼んでいいぞ」

 「はぁ…… ありがとう、ございます?」



 きょろきょろと俺の部屋を見回しながら話していたハルさんは、くすくす笑いながらこっちを見てきた。

 改めて見てもすごい美人だ。

 行動は意味わかんないけど。



 「なんでお礼?」

 「え…… なんで、ですかね?」

 「……君面白いね」 

 「そんなことは、ない……と、思うんですけど……」

 

 なんなの?

 この人なんなの?

 なんでこんなことになってるの?

 なんで俺の部屋入ってきたの?

 なんかニマニマしてるし。

 緊張とパニックで上手く喋れないんだけど。

 


 「憶人くんさ」


 

 異性に名前を呼ばれたのは初めてだったから、ちょっとびっくりした。

 でも、ハルさんは大人だろうし、年も離れてるだろうし、そんなことは全然気にしてないっぽい。

 俺が恋愛経験もない、バカな童貞だから、こーゆーのに慣れてないだけだ。

 落ち着いて、ちょっと咳払いをして、こんなことなんでもないですよ、という表情を作って、返事をする。 

 いや、ほんとにどうってことないけど。

 名前で呼ばれるくらいなんてことない。

 俺だけそーゆーの意識してるなんて、そんなわけがない。

 普通だ。

 このくらい。

 うんうん。

 普通普通。



 「……はい?」



 ……声が裏返った。

 いや、今のは違う。

 今声が裏返ったのは、違う。

 名前を呼ばれたのとは関係ない。

 なんか、こう、あれだ。

 そう!

 こーゆー状況だし。

 状況がね?

 分からないしね?

 だからちょっとパニックになってるというかね?

 いやパニックって言っても名前を呼ばれたのとは関係なくてね?

 ……てかこの人なんでニヤニヤしてるんだよ。

 俺が動揺してるから?

 ……いや動揺なんてしてないけどね?

 俺が動揺してるからではない。

 だって動揺してないし。

 でも、ならなんで?



 俺が下らないことを考えている間、ハルさんはニヤニヤしながら俺を見つめて、ひとしきりニヤニヤすると、いきなり口を開いた。



 「憶人くん、幽霊だよね?」

 


 いきなり核心をついてきた。

 思わず息が詰まった。

 心臓止まるかと思った……。

 いや、一瞬止まったと思う。

 ……あれ、俺の心臓が止まったらどうなるんだろう。

 難しい問題だ。

 首絞められた時は息が出来なくて死にそうになった。

 でも俺は幽霊だ。

 汗なんてかかないし、寝る必要も、何かを食べる必要もない。

 血が流れてるかも怪しい。

 なのに心臓が止まったら死ぬってのは、ちょっと矛盾してる気がする。

 ……いやそもそも整合性を取ろうとするのが間違ってるのか?

 幽霊になってからは何でも起こるし、常識なんて通用しない。

 そういうものだ、と受け入れるべきなのか?

 ってそんなこと考えてる場合じゃない!

 ハルさんがこっち見てる!

 「どしたの?」って言いながらこっちを見てる!


 

 「あ、えっと、そうです」

 「おぉ! やっぱそうだよねー」

 「ハルさんも……?」

 「そうだよー」



 やっぱり。

 そうだったんだ。

 すごい。

 まさか自分以外の幽霊に会うなんて。

 自分以外にも幽霊がいるなんて。

 その可能性を思いつかなかった自分が恥ずかしい。

 まぁ思いついてもどうせ探したりは出来ないけど。

 俺家から出られないし。

 ……あれ、そう言えば……?



 「あの、質問、いいですか?」

 「うん、いいよー?」 

 「ハルさんは、その、自由にどこでも行けるんですか? 俺この家から出られないんですけど……」



 そう。

 ハルさんは俺の家の前を歩いていた。

 でも多分、あの辺から動けないから仕方なくあそこにいた、ってわけじゃない。

 この二ヶ月、暇で暇でしょうがなくて、よく外を眺めていたけど、ハルさんを見たのはさっきが初めてだ。

 それは間違いない。

 つまり、どこかからこの辺に来た、ということになるはずだ。

 もしかしたら、最近この辺で死んだとかかもしれないけど。

 でも、それなら俺が知らないのはおかしい。

 最近この辺で事故は起こってないはずだ。

 事故が起きたら騒ぎになったり、救急車が来たりするはず。

 24時間起きていて、一度もこの家から出てない俺が言うのだから間違いない。

 この辺で事故は起きてない。

 救急車も来てないし、騒ぎも起こってない。

 二ヶ月間、この住宅街は、ずっと静かだった。

 のどかな毎日だった。

 だから、やっぱりハルさんは、どこかから来たはずだ。

 でも、俺は家から出ることはできない。

 おかしい。

 おかしいよね?

 なんでハルさんだけ自由にどこでも行けるの?



 「あー、なるほどなるほどー」

 「あの……?」

 「憶人くんは、ここで自殺したってことだよね?」

 「はあ、まぁ、そうですけど……」


 

 …………ん?

 ちょっと待て。

 なんでこの人自殺って言ったの?

 何で知ってるの?

 家で死んでるから、こりゃ自殺だろうな、みたいな?

 いやいやそんなわけないでしょ。

 家で死ぬから自殺ってのはあまりにも短絡的すぎる。

 家でだって、いろんな死に方があるはずだ。

 例えば……病気とか?

 心臓発作とか、脳梗塞とかで、いきなり死んじゃったり、とか?

 いろいろあるはずだ。

 病気には詳しくないから、よくは知らないけど。

 だから、家だから、ってわけではないはず。

 じゃあ、なんで?

 もしかして、俺って自殺しそうな雰囲気してる?

 そんなことないと思うんだけど……。

 いやまぁ、めっちゃイケメン! って感じではないけどね?

 でも遺伝子が良いから、顔はそこそこのはずだ。 

 生きてた時鏡で見ていた限りでは。

 今は鏡には映らないから、分かんないけど。

 もしかして、幽霊の俺って顔がすごいことになってるのか?

 腕とか足とかと違って、顔は自分では確認できないから、その可能性は否定できない。

 もしかして、今の俺って雰囲気が暗くて、死にたそうな顔してるの?

 ……でも、ハルさんの言い方的に、俺が自殺したと予想してる、って感じではない。

 憶測じゃない。

 多分ハルさんは、俺が自殺をしたと確信している。

 そう確信するだけの何かがあるんだ。

 多分、俺が知らない何かが。

 


 「君、死んだのいつ?」

 「6月の……上旬くらい? ですけど……」

 「ふむふむ。 今日は?」

 「今日?」

 「今日は何日?」

 「あぁ…… えっと今日は8月10日です」 

 「じゃあ二ヶ月くらいか…… 今まで他の幽霊に会ったこと、ある?」

 「いやないですけど…… ってやっぱ他にも幽霊いるんですか?」

 「そりゃいるよぉ」

 「マジか……」

 「ま、それは置いといて。 憶人くんさ、それ」



 ハルさんは、唐突に俺の腕を指さした。

 腕が、どうかしたのだろうか?

 ……………いやちょっと待て!?



 「え………ゆび……?」



 そうだ。

 なんで気付かなかったんだよ。

 俺どんだけバカなんだよ。

 そうだよ。

 ハルさんは幽霊なんだ。

 おかしい。

 指がある。

 指があるんだ。

 てっきり、幽霊ってのは手がないものなんだと思ってた。

 幽霊になった時から手首から先はなかったし、腕まで消えかけた後も、手首までしか復活しなかった。

 だからてっきり、手首までしかなくて、生きてた頃みたいに手首から先が戻ることはない、と思ってた。

 でも、ハルさんは掌どころじゃない。

 指まである。

 薄れたりもしてない。 

 指の先まで、しっかりくっきりだ。



 「その感じだと、ずっと手なかった?」

 


 俺はコクコクと頷くことしかできない。

 この人が現れてから驚きの連続だ。



 「それで二ヶ月かぁ。 よく持ったねぇ」

 「持った、って……? あ、そう言えば! 俺一回腕とか身体も消えかけて、それで誰かに首絞められて、わりと死にかけたんですけど、いや死にかけたって言っても俺幽霊ですけど、まぁそんくらい苦しくてやばかったんですけど、なんかいきなりそれが解放されて、んでその後また手とか身体が戻っ―――――!」

 「あーはいはい、ちょっと待って」



 ………取り乱してしまった。

 こんなこと言っても困るだけだろ……。

 いや一応“持った”、って言い方的に消えかけた時のこととかも言っておいた方がいいのかなと思ったんだけど……。

 絶対引いてるよこれ……。

 ハルさんをチラッと見てみると、ちょっと思案気な顔をしている。

 少し間をおいて、ハルさんが話しだした。



 「よし、それじゃあ憶人くん」

 「……はい」

 「この私が、君に、私たち幽霊について教えてあげる!」

 「幽霊について……?」

 「そう! 教えてあげないと多分君そのうち死んじゃうし。 私君結構気に入ってるからさ。 憶人くんだって、また苦しくなったり、死にかけたり、ヤバくなったりしたくないでしょ?」

 


 ……気に入ってる?

 俺のことを?

 俺のこと気に入ってるの?

 それは、ど―ゆー意味で?

 ………………。

 いや、どうもこうもないか。

 少なくとも、恋愛的な意味ではない。 

 間違いなく。

 そーゆー意味じゃない。

 断言できる。

 …………てか、それどころじゃないだろ。 

 「また苦しくなったり、死にかけたり、ヤバくなったりしたくないでしょ?」

 そう言ったよな?

 それって、このままだと、そうなるってこと?

 また、あの苦しみを味わうってこと?

 


 「じゃ、準備はいい?」

 「……準備って?」

 「授業を聞く準備だよぉ。 先生が教えてあげるんだから。 心の準備! おっけー?」

 「あ、はい、それは、まぁ大丈夫ですけど」

 「よし、じゃあまずは……」



 あの日、死んで、幽霊になってから。

 一人でいろんなことを考え続けた。

 でも、答えはほとんど分からなかった。

 何が起きてるのか、分からないことだらけだった。

 でも、これでいろんなことが分かるはずだ。

 ちょっと怖い気もする。

 どんなこと言われるんだろう。

 この先は嫌なことしか起こりません、とかだったらどうしよう。

 


 「まず、幽霊になる条件は、心臓が完全になくなること。 火葬でもいいし、土に返ってもいいし、動物に食べられてもいい。 ま、要するになんでもいいってこと。 心臓がなくなればおっけー」

 「なるほど……」


 

 つまり、俺は葬式で火葬されたから、幽霊になった、ってことか。

 確かに幽霊として目覚めたのは葬式が終わって数時間が経った頃だったはずから、多分本当だろう。



 「で、条件がもう一つ。」

 「もう一つあるんですか?」

 「そ、もう一つ。 それは~~~~?」

 「いや、そーゆーのいいんで」

 「えー、先生気分もうちょっと味あわせてよー」

 「……先生ってそんな感じじゃなくないですか?」

 「………まぁそれもそっか。 ……えっと、何の話だっけ?」

 「幽霊になる条件の話ですね」

 「あぁそうそう。 もう一つの条件は……」



 ド忘れしたのか、ハルさんは思い出そうと斜め上を見つめた。

 やがて思い出したように、口を開く。

 

 

 「幽霊になるもう一つの条件、それは――――――――自殺成功者であること」

 「……は?」

 

 

 とんでもないことをさらっと口走った。

 自殺しないと幽霊にはならないってこと?

 じゃあ、ハルさんも…………?



 「憶人くん、覚えておいて」



 ハルさんは俺の目を見て、真剣な眼差しで口を開いた。



 「私たちにとっての死とは、人々の記憶から消え、向けられる“想い”が尽きることよ」


 

 その眼差しに息が詰まって、俺は口を開けなかった。

 ハルさんの言葉は、まだ尽きない。



 「私たちは、幽霊として、魂を持っている。 命を持っている。 だから当然、死もある。 人々から向けられる想いが尽きた時、私たち幽霊は――――――」



 その口は、まだ閉じない。

 そして、更なる衝撃を以て、言葉を紡ぐ。



 「――――――自殺した時の苦しみをもう一度体験し続けながら………完全に、消える」



 …………なんだそれ。

 それってつまり―――――――――。



 「つまり私たちが死んで辿り着いたのは、あの“死ぬような苦しみ”に怯えて、逃げ続ける人生よ。 ―――――――生きてた頃と同じように」




 俺は、人生から逃げ出した。

 そして、それは成功した。

 そう思っていた。

 幽霊にはなったけど、これはおまけみたいなものだ。

 ちょっと現実感が強い天国みたいなもんだ。

 そう思ってたけど………。




 ――――――――――――逃げきることは出来ない、ってことか。




 どうやら俺の人生は、まだ終わっていなかったらしい。



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