狂笑の女
――――――分からないことばかりが増えていく。
部屋の窓から外を眺めるのは、生きていた頃からの癖だ。
何か嫌なことがあった時は、だいたいこの窓からぼーっと外を眺める。
考え事をする時も、こうして外を眺めながら悩んだり。
生きていた頃は毎日のように、こうして外を眺めていた。
窓の向こうには、車2台がギリギリ通れるか通れないかくらいの細い道路。
向かい側には同じくらいの大きさの家々。
別に景色がいいわけじゃない。
ただの住宅街だ。
でも、こうしてゆっくり外を眺めるのが好きだった。
俺だけの景色だったから。
世界にはいろんな景色があるんだろうけど、落ち着く景色はどこにあるかと聞かれたら、絶対にここだと答える。
それはきっと、これからどんな景色を見ても変わらない。
だから、こうして外を眺めるのが好きだった。
死んでからも、ここで外の景色をよく眺めている。
悩みは減った、と思う。
今はいろいろ考えることが多いけど、確実に悩みは減った。
生きていた頃は、常に何かに怯えてた。
俺は出来が悪くて、遅れていて。
この家に居ていいのかと、何度も自問して。
これ以上置いて行かれるのが不安で、夜も上手く眠れなくて。
認めてもらうために努力しても、そんな簡単にはいかなくて。
まぁ結局は自殺したんだけど、そう決意するまでは、よく悩んでた。
悩み続けた。
あの頃に比べれば、死んでからはずいぶん悩みが減ったな、としみじみ思う。
できないことも多いけれど、確かに俺は自由になったと、そう思っている。
『とは言っても、考えないといけないこともあるよなぁ……』
一週間前。
正確には一週間と一日前に、首を絞められたこと。
その次の日、明日葉ちゃんが俺の仏壇の前で泣いたこと。
それにそもそも、俺はいつまでこうして幽霊として生きていくのかも。
分からないことが多すぎる。
答えが見つかる気すらしない。
『あと、これも……』
俺はしげしげと手首を見つめる。
一週間くらい前まで消えていた手首。
何故かまた可視化された、手首を。
『それに、身体も透けてきてたはずなのに……』
首を絞められる直前まで、俺は日に日に薄くなっていった。
この手首みたいに、だんだんと色が抜けていった。
別に焦ったりはしなかった。
幽霊っぽいな、とか呑気に考えてた。
存在が希薄になっていってるのかもしれない。
漠然とそう考えていたんだけど。
今は、消えて短くなっていた腕は手首まで回復し、身体も透明感なんて微塵もない。
自分の身体にちゃんと質感がある。
『なんかこの表現は違う気もするけど……』
一言で言えば、存在感が増している。
実体を取り戻した、とも言えるかもしれない。
幽霊に実体ってなんだよ、と思わなくもないけど。
ともかく、あの苦痛の時間を乗り越えた瞬間。
首を絞められて、死にかけて、何故かいきなり解放された、あの瞬間。
あの瞬間から、俺の腕や身体は幽霊になりたての頃まで戻った。
何がどうなっているのかさっぱり分からない。
幽霊になってからもう二ヶ月。
いろんなことを考えてたけど、どの疑問も結局それっぽい答えには辿り着けていない。
まぁ、身の回りに起こっていることが非現実的すぎるし。
多分俺には思いもつかないようなことが起こってる。
だから、どうせ完全に存在が消えるまで何も分からないだろうなって、正直諦めてる。
諦めてはいるけど、やっぱり時々あーでもないこーでもないって考える。
暇だし。
そんな日々を送っている。
そんな日々を送りながら、あの日明日葉ちゃんが来てからもう一週間が経った。
また身体が薄くなったり、手首の透明化が進行する様子はない。
……いやよく見るとまたちょっと薄れてきてるかも?
一週間くらい前に身体が元に戻ってから、この一週間でまた少しだけ薄れてきたような気がする。
まぁ、でもたいしたことじゃない。
首を絞められたり、誰かからの接触があったりしたわけでもない。
俺は幽霊として、相変わらず誰にも認識されず、一人で自由に暇を持て余しながらすごしている。
俺の周りでも相変わらず、俺がいないことに完全に慣れた家族たちが日常を送っている。
誰かに首を絞められて殺されかけたのなんて、夢だったんじゃないかと思うことすらある。
でも夢は絶対見てない。
一度も寝てないんだから。
幻だったんじゃないか。
そう思うことはある。
この一週間はそのくらい平穏で、変化もなく、緩やかな日々が流れている。
――――――いや、変わったことが一つだけあった。
『あ、また来た』
空は真っ赤に染まっている。
もう夕方だ。
天咲が学校から帰ってきた。
天咲の学校は、夏休みでも午後に補習授業がある。
だから、夏休みとか言いながら、夏休みの半分以上は学校に行くことになるらしい。
大変そうだ。
今日も今日とて補習授業から帰ってきた天咲は、相も変わらず一人じゃない。
明日葉ちゃんだ。
明日葉ちゃんも天咲と一緒に帰ってくる。
一週間前に初めて線香を立ててくれたあの日から、毎日来ている。
明日葉ちゃんの目的は俺だ。
……いやちょっと違うか。
放課後に天咲と一緒に帰ってきて、そのまま俺の仏壇の前に座り、線香を立てて、長い時間をかけて手を合わせ、ゆっくりと目を開けて、リビングに行き、天咲と少し言葉を交わし、そして帰っていく。
それを毎日、一週間。
気づけば俺は、それを見るのがひそかな楽しみになっていた。
……別に楽しみではないかもしれない。
でも、待ちわびていた。
心を込めてくれているのが分かるから。
丁寧に、丁寧に手を合わせる姿が好きで、毎日、その後ろ姿を見つめていた。
正直、俺気持ち悪いなって自覚は少しあったけど、やっぱり嬉しかった。
なんでこんな熱心に来てくれるのかは分からない。
心当たりなんて皆無だ。
なにしろ、数回だけ交わした、口数もそんなに多くなかったはずの会話も、どんな内容だったかすら覚えてないし。
十中八九大したことは言ってないはずだし。
だから、なんで毎日俺の家まで来て、線香を立ててくれるのか、俺には全く分からない。
でも、やっぱり嬉しい。
多分、家族よりも俺の死を悲しんでくれてる。
手を合わせている間どんなことを考えているんだろう。
知りたい気もする。
でも、知ることはできない。
それは、俺には伝わらない。
届かない。
でも、きっと真剣に悲しんでくれてるんだということは伝わってきて、すごく嬉しかった。
俺が死んで本気で悲しむ人がいるなんて思いもしなかった。
死んだら家族に迷惑をかける。
それが申し訳ないと思ったことはある。
世間体とか、いろいろあるだろうし。
自殺をするか悩みながらもなかなか決断できなかったのは、そんなしょうもない理由だった。
でも、もし生きている内にこの子ともっと話していたら、俺はまだ死んでいなかったかもしれない。
ふとそう思ったりしたこともあったくらいには、明日葉ちゃんのことが好きになっていた。
好きって言っても、別に恋愛的な意味じゃないけど。
人間としてだ。
もちろん。
そもそも、俺は生きてた時だって誰かに恋愛感情を抱けたことなんてない。
それなのに、死んで幽霊になってから初恋を経験するなんて、冗談にしても酷すぎる。
明日葉ちゃんだって、まさか幽霊の俺に恋愛感情を抱いてほしくて毎日家に来てるわけじゃないだろう。
そんなんじゃないはずだ。
明日葉ちゃんに失礼だ。
『帰っちゃったかぁ…… あーひまだなー』
明日葉ちゃんは長居はしない。
毎日わりとすぐ帰っていく。
だから、一日で一番のイベントであるこの時間はすぐに終わるし、すぐに終わるから、もちろんすぐにこうなる。
『なーんもすることないなー』
そう。
暇なんだ。
どうしようもなく。
暇すぎる。
生きていた頃には考えもしなかった色恋について思いを馳せるくらいには暇だ。
このままずっとこうしていくしかないのかと思うと、恐怖すら湧いてくる。
よく物語に出てくる、不老不死の登場人物が刺激を求めることが多いのもちょっと分かる気がする。
でも、多分あの物語の登場人物たちよりも俺の方がずっと暇だと思う。
だって、できることが少なすぎる。
家から出ることも出来ないし、物もろくに使えないし、誰かと話すことも出来ないし、人から見えすらしない。
完全に一人だ。
世界で一番暇な人選手権があったら、間違いなく俺が優勝できる。
まぁ、人ではないんだけど。
人ではないから、こんなに暇なんだけど。
とは言っても、現状への疑問について考えても多分いつも通りだろうし。
『分かんねー』とか言いながら諦めるのがオチだ。
『せめて外に出られたらなぁ』
外に出ることが出来たら、生活は激変するだろう。
誰にも認識されず、物理的な障害も一切ない。
別に外に出て何かしたいわけじゃないけど、やろうと思えば世界一周だってできるはずだし。
よく紹介されてるような絶景だって見に行けるし、もしかしたら宇宙にだって行けるかもしれない。
いや、宇宙は無理か。
首絞められて死にそうになったし。
呼吸は必要ないっぽいけど、不安だから、多分行く勇気が湧かない気がする。
もし性欲があったら、真っ先に行くのはやっぱり女湯とかだろうか?
行動範囲が広がることを夢見ると、妄想も同じように広がっていく。
……でも、これは妄想でしかない。
俺はどこにも行くことができない。
兎にも角にも活動範囲が狭すぎる。
家の中だけじゃ何もできない。
でも外に出る方法なんてさっぱり思いつかない。
そもそもそんな方法が存在しているのかも分からない。
だから、相も変わらずとりとめもないことを考えながら、ぼーっと外を眺めることしかできない。
――――――――――――――ふと、違和感があった。
外をずっと眺めていたから、気付けたのかもしれない。
チラッと見ただけでは、多分気付けない。
『あの人、道のど真ん中歩いてる……』
一人の女性が、道の真ん中を歩いている。
そして、見据える先には、ライトを照らしながら走ってくる乗用車。
違和感には、すぐに気づいた。
『あの人、もしかして車に轢かれるつもりなんじゃ……?』
女の人は、車を見据えながら、真っ直ぐ、臆することなく、歩いていく。
―――――――その顔には、笑みが張り付いていた。
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