非現実的な現実
俺が幽霊になって一ヶ月と三週間くらいが経った。
ちょうど四十九日が終わって、俺に関するいろいろなことが片付いてきて、俺の家族たちの元に本格的に日常が戻ってこようとしている。
もうすっかり夏だ。
分かったことがたくさんある。
もちろん、分からないこともある。
例えば、浮くことができる。
幽霊になったことを自覚してから最初に試してみたら、あっさり成功してかなり驚いた。
理屈的には、多分“重力を無効化できる”って表現が正しい。
浮こうとすれば浮くことができるし、やめれば普通に床を歩ける。
あと、物を通り抜けることができる。
すり抜ける、というやつだ。
すり抜けようとすればすり抜けられるし、物に触れたいと思えば触れることができる。
ただ、完全に自由自在ではない。
特に、何かに触れようとした時。
まず、生き物には触れることができない。
絶対にすり抜けてしまう。
人や動物が身に着けている物については、その生き物の一部分としてカウントされるらしい。
だから、例えば天咲の肌に触れようとしても、天咲が着ている服に触れようとしても、同じようにすり抜ける。
それと、物に触れるときは時間制限がある。
1秒にも満たない。
多分0.5秒くらいだ。
ちなみに、俺が物を触っても音は出ない。
例えば床をどれだけ強く叩いても「バン!!!!」なんて音は出ない。
ドアを蹴っ飛ばしても「ドン!!!!!!」なんて音は鳴らない。
でも、俺が触ったものが他の物にぶつかった時は、普通に音が鳴る。
例えば、ドアノブを回せば「ガチャリ」と音が出るし、俺が開いているドアを蹴っ飛ばせば、そのドアが壁に当たって「ドゴンッ」と音が鳴る。
まぁそんなことはどうでもいい。
問題は、時間制限だ。
両手首を使ってドアノブを回すのにも苦労するし、本だってまともに読めない。
不便すぎる。
でも、何故か床を歩く時は地面をすり抜けて落ちて行ったりしないし、壁に寄りかかったままぼーっとすることもできる。
なんでこうなってるのかははっきりとは分からないけど、暇だったから、自分なりには理由を考えた。
結論としては、その物体への潜在的な認識が関係しているという説で、俺の中ではまとまっている。
例えば、ドアノブとか、机とかは、普段、というか生きてた時は、触れようとして、能動的に触れてた。
でも、床とか、壁とかは、わざわざ『触れよう』と思って触れてるわけじゃない。
ドアノブは、能動的に『触れよう』として触れる物だから、触れようとしないと触れることができない。
床は、触れてるのが当たり前だから、『すり抜けよう』と意識しないとすり抜けることができない。
そういった、物体への潜在的な認識によって、基本状態がすり抜けるのか、それともすり抜けないのかが決まってるんじゃないかと思う。
……多分。
何が言いたいかというと、めんどくさいのだ。
物に触る度に、0.5秒間の中で目的を達成させないといけない生活というのは。
ドアを開けるために、いちいち気合を入れて、己を鼓舞して、限界まで集中して『―――――――ハッッッッ!!!』とか言いながら失敗を何度も繰り返すのは。
すごくめんどくさい。
だから、今はもうほぼすり抜けのみで生活している。
まぁ生活と言っても何かしてるわけじゃないけど。
なにしろ幽霊だし。
何かする必要なんてない。
何も食べなくても平気だし、睡眠も必要ない。
人間の三大欲求は幽霊になって完全に消失した。
食欲、睡眠欲、そして性欲。
全部なくなった。
そう、性欲もだ。
まぁもともと性欲が強かったわけではないけど、ちょっと悲しい気もする。
だって、ねぇ?
経験とか、なかったわけだし。
ありていに言ってしまえば、童貞だし。
童貞のまま死んじゃったし。
そういえば自殺する前も、誰か一人くらいレイプでもしとこうかなとか考えてたなぁ。
しなかったけど。
さすがにね?
しなかったけどね?
どうせ死んだら終わりなんだから、童貞のまま死のうが経験してから死のうが変わんねーだろ、って思ってたからなぁ。
それが今や幽霊だ。
誰からも見えないし、正体がばれることもない。
死んでるわけだから。
そう考えると、性欲はなくてよかったのかもしれない。
もしあったら大変なことになってそうだ。
好き勝手しちゃってたかもしれない。
例えば、誰に?
身近な人なら、お母さんは論外として、天咲とか?
それは最悪だ。
確かに天咲は可愛い。
従妹の美香ちゃんも可愛いけど、天咲は兄の贔屓目を差し引いても美香ちゃん以上だし、間違いなくモテる。
頭もいいし、運動もできるし、胸も多分それなりにあって、黒髪ストレート。
挙句の果てには、生徒会にも入ってる。
まだ二年だから生徒会長とかではないけど、来年は恐らくそうなるだろう。
どこのヒロインだよって感じだ。
でも、もしかしたらそんな妹が唯一の性欲の捌け口になってたかもしれない。
それは良くない。
さすがにそれはだめだ。
まぁどうせ生き物には
何もできないんだし、やっぱり性欲はなくてよかった。
うん。
よかった。
これからもずっっっっっっっと童貞のままだけど、それでいい。
それでいい。
それでいいはずだ。
『でも、暇なんだよなぁ……』
何かする必要はない。
だから、俺は自由だ。
最初はそう思ってた。
でも、そんな都合よくいかないのが人生だ。
いや、もう人生じゃないか。
幽霊生だ。
できないことも、もちろんたくさんある。
物に長い時間触っていることができないのも、その1つだ。
あとは、俺はどうやらこの家から出ることができないらしい。
これが一番不便だ。
正確には、敷地から出られない。
何か見えない壁があるかのように、庭の
塀をすり抜けようとしても、浮いて塀の上から出ようとしても、正面入り口を堂々と通ろうとしても、見えない壁に阻まれる。
これが厄介だ。
厄介すぎる。
簡単に言えば、地縛霊みたいなもんだ。
家からは出られず、物をうまく扱うこともできない。
そもそも、物を動かしたり物音を立てるのはなるべく控えている。
なんとなく気が引ける。
親がどんな反応するのか怖い、というか。
死んでまで親に気使ってどうすんだよとは思うけど、俺にとって親とはそういうものだ。
だから、できるだけ物音も立てずに過ごしている。
そうすると、本当にすることがない。
しかも、外に出かけることもできない。
家の中で、特に何をするでもなく、リビングでテレビがついてればそれを見て、てきとーにごろごろしてるだけ。
『あああぁぁああぁあああぁぁああぁぁああああひますぎる!』
思わす叫んでしまうくらいには暇だ。
独り言が増えたな、と思う。
声は家族に聞こえないし、話し相手もいないから、独り言以外に言葉を喋る機会がない。
一人暮らしをすると独り言が多くなるって言うし、それと同じなのかもしれない。
まぁ別に生きてた時も話し相手なんてほとんどいなかったけど。
でも、生きてた時は独り言も少なかったはずだ。
もちろん、暇だってだけで叫んだりしたことなんてない。
家でも、ずっと黙ってた。
俺が無駄に喋ると、空気が冷たくなるから。
「なにこいつ…… いきなり喋り始めたんだけど」
「……無駄口はいいから部屋に戻れ」
実際にそう言われたわけではない。
でも、そんな空気になる。
いや、実際に言われたこともあったかも。
だから、生きていた時の俺は、ほとんど喋らなかった。
こんなに言葉を発しているのはいつ以来だろう、ってくらいだ。
まぁ独り言だけど。
独り言だけど、声を発するだけで空気が張り詰めるあの緊張感を感じずに喋れる。
だから幽霊になってから独り言が多くなったのかもしれない。
『ま、それはいいんだけど、やばそうなのはこれだよなぁ……』
俺の幽霊生活が始まってから一ヶ月と三週間。
どうやら俺が気が付いたのは、葬式から家族が帰ってきて数時間経った頃だったらしい。
葬式はかなり小規模だったらしくて、ほとんど身内だけでやったみたいだ。
多分、俺が通っていた高校でも、まだ俺が死んだことを知らないやつがたくさんいる。
俺と話したことがあるやつなんて数えるほどだけど、そいつらも多分まだ俺が死んだことは知らない。
まぁ俺自殺だしな。
家族もあんまり大きくはやりたくなかったんだろう。
葬式が終わってからの数日は、高校時代の先生とか、多分親の知り合いだろう、俺が知らない人も何人か家に線香を立てに来た。
そうして一ヶ月と三週間が経ち、俺が死んだことによって家族に生じた非日常は、やっと落ち着きを取り戻しつつある。
家族の雰囲気はわりと普通だ。
普通というか、俺がいた時とそう変わらない。
いや、そうじゃないか。
多分、俺が生きていた時は、もうちょっと家庭内の雰囲気は明るかったはずだ。
“俺がいないときは”、だけど。
俺が家族と一緒にいる時は空気が重かったけど、きっと、俺を除いた三人の時はすごく仲のいい家族だったはずだ。
そう考えれば、三人だけなのに空気が重い、とも言える。
でも着実に、俺が幽霊になったばかりの頃とは様子が違っている。
空気は少し重いけど、別に雰囲気が暗いというほどではない。
まぁ、元々俺が生きていた時もほとんど三人家族みたいなもんだっただろうし。
俺が死んで、一時的に俺のことを考えなければいけない生活が続いていた、という方が正確なのかもしれない。
この三人にとっては、これが普通。
戻ってきたのだ。
俺がいない、日常に。
そんな家庭内に漂う雰囲気の変化と同じように、俺にも変化したことがある。
腕だ。
前は消えていたのは手だけだった。
でも今は、ちょうど手首と肘の中間くらいから先が消えてなくなっている。
付け加えれば、全体的に体の色が薄くなっている気もする。
まぁ、でも、俺は幽霊で、ありえないことが起こってて、だからこれもそのうちの一つで、大したことなんてない。
最初はそう思ってたけど、もしこれがさらに進行していくと――――――――。
『消える、って可能性もあるよな、俺……』
消える可能性はある。
このままいけば、次第に薄くなって、そのうち足とかも消えて、体も消えて、完全に消えて、存在ごと、ちゃんとなくなって、終わる。
そんな可能性がある。
ある、というか、高い。
高いはずだ。
このままいけば、そうなるはずだ。
その時は、今度こそ、全て終わるのだろうか。
もしかして、また別の何かが待っていたりするのか。
分からない。
でも、それが良いことなのか、悪いことなのかは、正直判断がつかない。
“完全に消える”という可能性がよぎった時、俺は当たり前のように、それは嫌だ、と思った。
“死にたくない”と。
“死ぬのが怖い”と。
自殺を経験してる癖に何言ってんだよって感じだけど、でも、自分で死ぬのと、為すすべなく死んでいくのでは、やっぱり違う。
だから、死にたくない。
そう思った。
でも、すぐにそれは間違いだと気づいた。
そうだ。
そうだよ。
だって俺は生きてないんだから。
もう、死んでるんだから。
なら、別にいいんじゃないのか?
元々そのつもりだったんだし。
今のこの状況は、言ってしまえばおまけみたいなもので、本来は死んだら即消えて、それで終わり。
そう考えてみれば、別に消えることなんて怖くない。
死ぬわけでもあるまいし。
終わり損ねたから、ちゃんと終わりなおすだけだ。
それだけだ。
だいたい、こんな暇な毎日、長引いてもしょうがない。
外にだって行けない。
好きなことができるわけでもない。
俺が今ここにいる意味なんてない。
気が付いたら幽霊になってたから、そのまま惰性で怠惰を貪っているだけ。
別にどっちでもいいんだ、俺は。
このまま終わろうが、長引こうが。
どっちでもいい。
天咲が階段を下りてきて、玄関で靴を履いている。
私服だ。
今日は日曜日だし、これから友達と遊びにでも行くんだろう。
遅れそうなのかもしれない。
急いで靴を履いて、そのまま家を出ていった。
今までは家を出る前に仏壇に線香をあげてたくせに、もう忘れてる。
その後すぐにお父さんも出かけていく。
スーツだから、仕事かもしれない。
やっぱり、仏壇には寄らずにそのまま出かけていく。
そんなもんだ。
俺なんか。
この家族にとって、俺はそんなもんでしかない。
家族の会話でも、俺が幽霊になって最初の一週間以降は、ほとんど俺の話題は出なくなった。
きっとこうやって、忘れられていく。
その程度でしかないんだ。
そんな家族をずっと見ながら、こんな家にずっと縛られて、幽霊としていつまでもここで過ごしてもしょうがないだろ。
むしろさっさと消えたほうが、まだましかもしれない。
『これなら最初からさっさと消えてた方がマシだったかもなー』
まぁ、でも、多分もう時間も長くはない。
今の進行速度なら、あと一ヶ月もすれば、俺の身体は完全に消える。
その後どうなるのかは知らないけど、それはその後考えればいい。
夕方になって、お母さんが家を出ていこうとした。
何か買い物にでも行くのかな。
仏壇には寄らなかった。
まぁ、買い物行くだけだし。
外出るたびに線香あげるわけにもいかないし。
さすがに忘れてるわけではないと思う。
帰ってきてからとか、寝る前にでも線香を立てるんだろう。
今までは外に出るたびに線香を立てていたけど、毎日そうしてるわけにもいかない。
だんだん頻度が減っていって、線香を立てるのも二日に一回になって、三日に一回になって、一週間に一回になっていくんだ。
そういうもんなんだ。
そのはずだ。
だから、俺は忘れられてるわけじゃない。
忘れられてるわけじゃ――――――――――――――――――――――。
『―――――――ッ!?』
いきなりのことで、理解は追い付かなかった。
頭が働かない。
苦しい。
『……ぁ……が……っ…………っ…………う……い……ぁ』
何が起きてんだよ。
わけ分かんねーよ。
なんで俺……。
首、絞められてんだよ…………?
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