成功者
目が覚めると―――――――。
いや、この表現は違うか。
“気が付くと”、俺は自分の部屋にいた。
たいして服なんか入っていないクローゼット。
小学生の頃から買い続けた参考書だらけの本棚。
閉め切られたカーテン。
大きな勉強机。
でも椅子はなくなっている。
ベッドも、無地の壁紙も、床一面に敷いてあったはずのカーペットも。
なくなっている。
部屋は暗い。
殺風景な部屋だったが、今はもはや生活感すらない。
ただ、部屋の様子は変わっているが、ここは間違いなく俺の部屋だ。
ってことは――――――。
『……失敗、か』
どうやらまだ生きているらしい。
わりと苦しんだ気もしたし、これは逝っただろうな、って感じもしたけど、どうやら俺はまだ生きている。
思わずため息が零れた。
まぁでも、それならそれで仕方ない。
とりあえず電気でも付けるか。
そう思って、腕を少し振って、歩き出そうとした。
でも、その足は半歩もいかないうちに止まった。
『―――――――ぇ?』
思わず目を瞠った。
自分の目を疑った。
こんなのありえない。
絶対におかしい。
幻か、幻覚か、そーゆー類の何かだ。
いや幻と幻覚って一緒か?
まぁそんなことどうでもいい。
とりあえず、俺はまだ生きている。
視界は明瞭だし、恐らく家の前を通ったのだろう車の音も、結構強く降ってそうな雨の音だって聞こえている。
生きている……はずだ。
でも――――――。
『手が……ない……?』
両手がなくなっている。
切断されているわけではない。
まるで透けるかのように、手首から先が“消えている”。
手首手前までははっきりとその姿形を視認することができるのに、そこから数センチを経て徐々に透けるように色素が薄くなり、手首と掌の境目辺りからはもう視認することができない。
完全な透明になっている。
俺は手に大きな怪我を負ったことはない。
手を切断するような事態に陥ったこともない。
でも、俺の両手は明らかに消えている。
『な、なんだこれ……』
何が起きているのか全く分からない。
もちろん、俺は何かをした記憶なんてない。
こんなことを起こす方法も当然知らない。
ということは、さっき気が付くまでに何かされた?
それなら、何をされたのか。
そもそも、俺のなくなった手は今どうなってるんだ?
俺の手は消えている。
まるで手首までが形を維持する限界だと言わんばかりに。
てことは、もう俺の手は“無い”のか?
それとも、どこかに“有る”のか?
もしくは、透明になっているだけ?
わけが分からず呆然と手首の辺りを眺めていると、あることに気付いた。
『これ、手の感覚が、ない……?』
手の感覚がない。
指の感覚がない。
それどころか、手首を曲げようとする感覚すらない。
手首から先は重さすら感じない。
つまり――――――。
『なくなってる、ってことだよな、これ……』
俺の手はなくなっている。
“見えない”のではない。
なくなっている。
そう思った方が良さそうだ。
『でもけっきょくどうなってんのかは全然分かんねーな…… これ手ちゃんと戻んのかな……』
さすがに手がないのは厳しい。
今までは普通に手を使って生きてきたのに、これからは手を使わずに生きろ、って言われてもそう簡単にはいかない。
それにそもそもこれで終わりかどうかも分からない。
ざっと確認した限りでは、手以外に消えてるところは見当たらない。
足もあるし、服も着てる。
でも、こんなことが起こったんだ。
もしかしたら手だけじゃなくて、これから腕とか足とかも消えてくかもしれない。
なにしろ手が消えてるなんて初めてだし。
当たり前だけど。
手が消えてるなんて明らかにおかしい。
切断じゃなくて、透けるように“消えてる”なんて。
わけが分からない……。
多分こんな経験をしているのは俺だけだ。
人類初だ。
嬉しくないけど。
『とりあえず下行くか……』
兎にも角にも、親に話さないといけない。
手がなくなった、なんて言っても困惑されるだろうけど。
この手を見たらもっと困惑するだろうけど。
でも話さないわけにもいかないし。
さすがにこれじゃ今まで通りの生活はできないし。
『やだなぁ……』
できれば話したくない。
てか今何やってんだろ。
まぁ多分下にはいるはずだ。
でもなんて言おう。
久しぶりに話しかける内容が「手がなくなった」って……。
絶対パニックになる。
でもこうなったのが俺でよかったのかもしれない。
もしこれが
なんで
まぁ多分これからどうせ怒られるんだろうけど。
なんて言われるんだろう。
「めんどくさい問題を持ち込むな」とかかな。
いや、それなら「妹はこんなに優秀なのに、なんでお前はいつも面倒事を持ち込むんだ」だな。
うん、こっちの方がそれっぽい。
「勉強はどうするんだ」はさすがにない……か?
いやでも言ってきそうだなぁ……。
『マジでやだなぁ……』
てかよく考えたらなんで俺はこんなに冷静なんだろ。
手なくなったのに。
意外と平気だ。
意外とっていうか、全然平気だ。
不安はない。
恐怖もない。
ちょっと動揺はしてるけど、それだけだ。
なんなら一番心配なのは今から親にどんな反応されるかだし。
まぁ悪いことではない……はず。
だよな。
錯乱するよりは。
多分。
『とりあえず早く行こ……』
嫌なことは早く済ませた方がいい。
勢いに任せないと親にこんなこと話せないし。
とりあえず、目下最大の敵はドアノブだ。
まずは部屋のドアノブを上手く開けないといけない。
両腕で挟んで開けるのが一番良さそうな気がする。
てかご飯とかどうしよ。
物持てないってのはかなり大変そうだ。
この状態に慣れちゃうまでには戻ってほしいなぁ。
『でもこれからこの腕と付き合ってかなきゃいけないわけだし、今のうちからいろいろ考え……』
ガチャリ、と音がした。
ドアが開く音だ。
目の前のドアが開いていく。
俺の部屋のドアが。
「うわー、なんか生活感ないねー。 まぁでもそりゃそうか」
「まぁ死因が死因だからねぇ。 カーペットとかもなくなってるし多分床とかも汚れたんじゃない?」
「カーペットなんてあったんだ。 私もうこの部屋どんなだったか全然覚えてないなー」
ドアを開いたのは
美香ちゃんは天咲と仲がよくて、家もあまり遠くないから時々遊びに来る。
かなり可愛い。
実際高校でもモテるらしくて、よく天咲とリビングで恋愛の話をしている。
そんな美香ちゃんと、その母親が、俺の部屋のドアを開け、中を覗いている。
『え……二人とも、どうしたの?』
美香ちゃんはよく家に遊びに来る。
でも俺の部屋になんて来ない。
というか俺がリビングを通ってキッチンに水を飲みに行く時くらいしか顔なんて合わせない。
最後にまともに言葉を交わしたのも何年前だったか分からないくらいだ。
でも、今日はいきなり入ってきた。
ノックすらせずに。
しかも、美香ちゃんだけじゃなくて、おばさんまで。
「いやー、でも首吊ったまま二日も気が付かないまま放置されてたとか実際やばいよねー」
「ちょっと、下にいるんだからそーゆーのやめてよ、聞こえたらどうするの」
二人は一階の様子を気にしながら小声で話している。
てか俺のことスルーかよ。
目の前にいるのに。
目の前にいるって言うか、固まっちゃって動けないだけなんだけど。
「てかあんた自殺のこと他の人に言いふらしたりしないでよね?」
「分かってるって。 まずそんな話する相手いないし」
……おかしい。
明らかにおかしい。
二人は話しながら部屋の中に入ってくる。
それだけならまだいい。
でも。
俺などまるでいないかのような態度だ。
二人の視線は俺を素通りしていく。
まず間違いなく視界には入っているはずだ。
でも、二人は俺には気付いていないかのように視線を動かしながら、俺の横を素通りして部屋に入ってきた。
手がなくなった腕も視界に収めたはずなのに、それすらスルーだ。
こんなの見たら普通はパニックになるはずなのに。
いや、それだけじゃない。
服装もおかしい。
こんな格好の二人を見たのはそれこそ何年ぶりだろう。
確か、じいちゃんが死んだ時の葬式だったか。
まるで喪服だ。
『――――――いや、まるで、じゃない。 これは……』
―――――――――――なるほど。
そうだったのか。
さっきと同様、俺の言葉に対して二人から反応はない。
“聞いていない”のではない。
“聞こえていない”のだ。
――――――――――いや、それすらも違うのかもしれない。
もしかしたら、俺は言葉を発しているつもりだっただけで、実際には言葉を発していないんじゃないか?
音として、声に出せていないのかもしれない。
でも、俺の耳にはちゃんと俺の声が届いている。
ってことは、俺にしか聞こえない?
そうか。
そう考えればすべて辻褄は合う。
生活感のなくなったこの部屋も。
二人の会話の内容も。
俺の声が届いていないのも。
喪服を着ているのも。
この二人が何故か俺の部屋に入ってきたのも。
俺の手が消えてなくなっているのも。
“目が覚めた”のではなく、“気が付いた”と感じたのも。
全てに説明がつく。
そもそも気が付いたら自分の部屋だった、なんておかしい。
本来なら病院とか、救急車とか、そーゆー場所で目覚めるのが普通のはずだ。
俺は冷静だったんじゃない。
どこかで“成功”していた自覚があったんだ。
“安心”していたんだ。
だから、焦らなかった。
「あ、お母さん明日仕事だからもうそろそろ帰らないと。 あんたどうするの? 天咲ちゃんと話してく?」
「いや、私も今日は帰ろっかなー」
部屋から出ていこうとする二人を追い抜いて、先に部屋から出た。
美香ちゃんにぶつかるかもしれないと思ったけど、ぶつかった感覚はなかったから、ギリギリ当たらなかったみたいだ。
階段を下りて、開いているドアを通ってリビングに入る。
リビングには両親と妹の天咲がいた。
両親はテーブルに座ってテレビを見ている。
天咲はソファーに寝転がってスマホをいじっている。
全員喪服だ。
カレンダーには6月12日と書いてある。
俺には6月4日以降の記憶はない。
ちょうど一週間くらいだ。
いろいろと時間がかかったんだろう。
病院で静かに死ぬのとは違って、天災のように降り注いだんだ。
準備もなくいきなり後処理やらなんやらをしないといけなかったはずだから、大変だっただろうことは想像に難くない。
少し歩いて、親や天咲の視界を遮るような位置に移動しても、もちろん俺には気付かない。
やっぱりだ。
『あれ? ここのドア開いてるじゃん』
リビングの向かいにある空き部屋のドアが珍しく開いている。
ここは基本的には誰も入らないし、いつもはドアなんて開いていないはずなのに。
『あ、もしかして……』
部屋に入ると、予想通り、見慣れない物が置いてあった。
ばあちゃんちに行った時くらいしか見たことがない、仏壇が。
俺の家にある。
花が添えられている。
かなり新しい。
線香が立っている。
本数は……12本。
供え物がある。
そして案の定、位牌の裏には――――――――――。
失敗したと思っていた。
逃げられなかった、と。
まだ、生きなければいけないのだと。
あの日々の延長を。
惨めで、苦しくて、楽しみなんてゼロに等しい、レールの上を。
まだ歩かなければいけないのだと。
でも、そうではなかった。
成功していた。
きっとこうなったら全部が終わりで、完全に無に帰すと思っていたから、少し戸惑ったけど。
もう動揺はしていない。
そう。
俺はもういないんだ。
ここには、もういない。
“いないもの”として、ここに立っているんだ。
――――――――――――――仏壇の裏には、
そう、彫ってあった。
俺の、名前が。
俺は自殺に成功した。
今、俺が生きているのは、人間としてじゃない。
ここにあるのは――――――――――――――――――
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