果実

響木刹那@大学生

本文

 ビールが飲めない僕はだいたい最初の一杯はサワーを頼む。レモンとか柚子とかそういう爽やかでちょっと苦いやつ。それに対して向かいに座るこいつはがっつり生ビール。時々ハイボール。けれど基本生ビール。こっちが一杯飲んでる間にこいつは3杯飲む。決して僕のペースが遅いとかじゃないと思うけど、こいつと比較するとゆっくりしすぎてるのかなぁなんて思ったりする。

「なぁ、お前って酒強いの?」

「さあ? 弱くはないんじゃない。別に倒れんし寝たりもせんし。というかそれはあんたの方がよくわかるんじゃないの? 今までどうよ、散々飲みに付き合わされた側としては、さ」

「お前と二度と飲むかって思うことはないよ今のとこ」

「そりゃ上々」

 ビールは好きになれない。ただ苦いだけという感想。のどごしとか言われてもわからない、舌ではなく喉で味わうのかもしれない。あと息が臭くなる。ハイボールは飲んだことがない。なんでも甘くないしさっぱりしてるらしい。しかもビールよりカロリーも低いとか。飲むならビールよりハイボールだと思う、飲まないけど。

「そういうあんたは相変わらずのレモンサワーですか。好きだねぇそれ」

「美味いだろ。飲みやすいし」

 一口啜るように口に含む。喉に直接雪崩のように流し込むのもいいものだが、少々口の中で回して味を確かめてから身体の中に通す。ワインじゃあるまいしそんなことしたって仕方ないのだろうけど、なんかこれが好きだからそうする。酸味、苦味、僅かばかりの甘味。シュワシュワと染み込んでいく様にさっぱりとした幸せを感じる。

「一口ちょうだいよ」

「頼めよ」

 そんなにはいらないのと置いてある僕のグラスを身を乗り出すようにして取ってこようとする。オーバーサイズのニットが揺れる。だらけた胸元から逃げるようにアルコールを追加する。その様子を不満気にしているのが見えて仕方なく机を滑らせて相手側に渡す。ありがと、躊躇なく半透明な液体を流し込んだ。顔を上に向けグラスを思い切り傾けて遠慮なく身体の中に注入する。喉を鳴らして沁みていくのが見てて分かる。目を閉じてその果実の味や香りを味覚と嗅覚と聴覚に集中して味わっている。ほとんど飲み終えたほぼ空のグラスをガンッと机に八つ当たりするように打ち付け置いた。

「ごちそうさま」

「……どうも」

 酒が入ったせいかきめ細やかな白い肌がやや朱色に染まる。妙に色っぽくなっていた。目もどこか輪郭があやふやで吸い込まれそうな綺麗な目からほどよく潔癖さが消えて、むしろ向こう側のどことも知れない世界に繋がっているような危ない気すらした。弱くはないと言ったが、ある程度の酒飲みみたいな酔い方はするらしい。呂律が回らない、顔が赤くなる、身体がふらつく。それどれもが言われて初めて気付くような微細なものだから、なおさら酒には強いんだろうと思った。

「たまにはこういったさっぱりしたものもいいな」

「そうかいそうかい、じゃあその一杯は君から払っといてくれ」

 ケチだとか小さいとか言うが殆ど飲んでるんだからそれくらいしてくれてもいいはずだ。学生はいつだって金欠なんだ。そういう時は助け合いの精神が大事だとよく言う。というか一杯もいらないんじゃなかったのかよ。ふてくされているこいつを無視して2杯目のレモンサワーを追加注文する。じゃあとこいつも4杯目の生ビールを店員に告げる。山盛りのポテトをついばみながら突然脈絡なく言葉を発した。

「あんたって今幸せ?」

「……なんだよ急に。宗教の勧誘なら間に合ってるぞ」

 そうじゃないさ、ケチャップを口につけて控えめに笑う。僕の口元に自分の指をあてると、向こうは察して白い布巾を赤く染めた。じゃあどうしたんだよ急にらしくない。なにもつけずフライドポテトを口に入れた。

「ふと思ってさ。深い意味があるわけじゃない。あんたは幸せってなんだと思う?」

「幸せとはなにか、か。随分突然な問いだな。いきなり小テストを受けることになったくらいにはびっくりしてるぞ」

 こいつの性格には合わない哲学的な質問をされたせいで掴んでいたポテトを机に落とした。3秒ルール適用内なので口内に放った。塩味とは別に甘辛い粉が降りかかってて美味しい。

「じゃあお前はどうなんだ。幸せってなにか、その答えはあるのか」

「質問に質問で返すってマナー違反だってこと知らないなら知っておきなよ」

「……知ったうえでだよ。そんなこと突然言われたって答えられないよ。僕は人生に達観してるわけでも哲学者でもないんだからさ。幸福論は専門外」

「そんなあんただから聞くんだろ。むしろ専門的な意見なんて求めちゃいないよ。そういうのはかたっ苦しくてやだね、酒飲みながら話すことじゃないよ」

 それはごもっともで。気づいたら生ビールをおかわりしている。口の周りに白いふわふわをつけてプハアといかにもな声を上げる。口の周りに何かをつけるのが好きらしい。

「……そもそもの話だけど、僕は幸せって感じたことはあまりない」

「ほうほう、それはまた別な方向で興味深いね」

 手を自分側に振って僕が続きを話すのを促している。

「美味しいものを食べる、今みたいな」

「ポテト旨いよなこのポテト」

 そうこのポテト旨い、言いながら4本ほど一気に口に入れる。そんな光景が面白かったのかこいつは指さして笑っている。それを見て僕も可笑しくなる。ポテト、ポテト、ポテト、そう呟いてたらなんか変に面白くなってきて噴き出してしまった。うわっ汚っとこいつがなにか言ってるがごめんごめんと言いながらやっぱり可笑しいままだった。ああこれは酔ってる。どこか冷静な僕が後ろのほうから言ってる。

「あとそれなりに仲いいやつと話したり……今みたいな?」

「その間はなんですかそこでどうして疑問なんですかあと片付けなよ」

 意外と準備がいいらしいこいつはポケットから道端で配ってる英会話教室のチラシが入ったティッシュを取り出し掃除していた。案外しっかりしてるんだなぁなんて他人事で見ていた。

「だいたいこうやって二人で飲んでる時点でそれなりに仲良いでしょうよ。逆はまずないって一般的に」

「それもそうだな。じゃあ僕たちは仲が良いということにしよう。今確定した」

 あんた酔ってるなと細くなった目でこっちを見てくるが無視する。薄暗い半個室で見るその顔はまるでお化けみたいに思えて少し笑った。

「そんな今みたいな些細なことも幸せって言えるのならそれが幸せってことでいいんじゃないかな。僕はそれくらいがいいって思う。世間一般的な結婚とか子供とかそういうのにあまり興味ないし」

「そっか」

 店の中を照らすのは薄い橙の控えめなランタンみたいな明かりだけ。仄暗い空間は洞窟の中に放り込まれてるような気分になる。ちゃんと座れてご飯もお酒も出てくる洞窟なんてないわけだけど。向かい合って座るこいつは半分ほどになったビールのジョッキを机に置いたままそれをじっと見ていた。暗いせいでいまいちどんな感情を顔に出しているのかよくわからないけど、少なくとも酔いすぎて気分が悪くなったわけではないようだ。愉快極まってるわけでもなさそうだけども。

「……それで、お前の幸せって? 答えたんだから答えなよ。等価交換だよ等価交換。自分で振り返ってみると恥ずかしいんだからな」

 なんかこのまま黙っていそうな気がしたから、柄にもないことを言ってしまったという変なくすぐったさを誤魔化すためにも話を振る。そうだなぁと静かに言ってまた少し黙った。そうだなぁと何度か言ってビールを口にしてから少し間を空けてやっと話をした。

「大切にしたい人を大切にできること、かな」

「……え」

 聞き間違いをした。僕以上に柄にもないことを言ったような気がした。これは本当に酔ったひどい空耳をした水を飲もう。そう思ったわけだが、目の前のビール信者の真剣な表情を見て、案外自分がまだまともだったことに気づいた。

「どうしたってんだよ急に。病気か、熱でもあるのか。それとも頭でも打ったか。もしかして珍しく酔いが回ってるのか。水を飲もう、二人して水を飲もう。丁度いい僕も一度水を挟もうと思ったんだ」

「安心してくれ、まだまともだ」

 それは安心できない。これでまともだとしたら僕はこいつを知らない。正確には僕の知ってるこいつではない。噂に聞くパラレルワールドというやつだろうか。あったかもしれない、そんな可能性の先にいる別のこいつが今なんらかの偶然でこっちの世界にやってきてしまったのだろうか。それはそれで面白い、夢みたいな話だ。けどそうは今は思えない。そういう現実離れした世迷言は素面の時に聞くからくだらないと笑い飛ばせるというのに。酔っていたら本気にしてしまうかもしれない。

「分かった分かった、じゃあ君をまともだとしようそう仮定するよ。その上で聞くけどなんでそう思ったんだい? それを教えてくれないと不思議すぎて酔いが覚めそうだ」

 なんか不服そうだがどうにか答えてくれた。その前にビールとレモンサワーと水を注文した。

「恋人ができたんだ」

 箸の先で掴んでいた三本のフライドポテトを落とした。幸い大皿の上だったからセーフだと思ってもう一度一本取って口に入れた。しょっぱい。

「バイト先の人。多分あんたも知ってる」

 聞いてもないのに教えてくれる。特徴を聞いてあああの人かと目星がついた。こいつのバイト先の焼肉屋には数回行ったくらいだが、こいつが店員としている時も僕と一緒に客として来る時も、毎回必ず喋る店員がいた。それを一つ一つ思い返してみると割としっくり来た。むしろ付き合ってなかったのかと思い直すくらいだ。

「どっちから」

「向こう」

 だろうな。交友関係が男女関係なく広いこいつでも、あまり恋愛に強い関心があるようには見えなかった。したくないわけじゃないけど自分から行くほどじゃない、そんな典型的なやつだった。こいつとしてはただ仲良いくらいの相手だったんだろうけど。告白された時どんな顔をこいつはしたんだろう。驚いて呆然としたか。案外照れたりしたのだろうか。意外にそれなりに決心ついてたりしたのかもしれない。僕が知りようのないことだから考えても仕方ないのだけど、僕の知らないこいつの百面相を想像してみると愉快な気がした。僕が見ることのない表情を色々と。きっとそれは愉快なものだ。そうに違いない。

「それっていつの話」

「一昨日のバイト終わりに」

 タイムリーな話題を提供してくれたわけか、ありがたいことだ。仲良いだけある。めでたく付き合って二日経たないうちに幸せについて語りたくなってしまったと。ぞっこんじゃないかこれは。僕はなんて顔をすればいいんだろうか。正直動揺とか衝撃とかで満面の笑みと呼ばれるような愛想のいい顔は出来る気がしない。仕方ないからそっかそれは良かったなと無難な返しをしておく。それにただただありがとうと返してくるこいつは所謂盲目というやつなのかもしれない。おめでたい、薄っぺらい言葉が漏れた。

「……それでいいのか?こんな風に僕と喋ってて、二人で飲んだりしてさ」

「なんでだよ、あんたとは仲良い友達だろ。それをどうこうする権利なんざないさ」

「恋人にも?」

「恋人にも」

 当然だろと不思議そうな顔をする。それもそうだ。仲良い友達、ただの仲良い友達になにを心配しているのだろう。友達とはいえせっかく恋人ができたのに僕に時間を割いていていいのだろうか。こいつの生活の時間割を組み直した方がいい気がする。

「それにあんたと飲んでるって言ったら、あの人は行ってらっしゃいって言うよ。言ったんだよ実際。心から楽しんでこいよって言うみたいにさ。あの人もあんたのこと知ってるし、心配しなくて大丈夫。そもそもなにを心配するんだって話だけど」

 そうかそれは良かった。加えてそれは困った。こいつらが務めるお店に行くたびに、正確に言えばこいつがいなくてもその恋人さんがいたら否応にもこのことを連想してしまう。それは面倒だ。ただでさえ仲良くない人と上手く話すのは苦手だというのに、これではもっとよそよそしくなってしまう。嘘をついているわけでもないのにだ。それこそ酒でも飲まないといけない。もちろんレモンサワーを。

「そうは言うけど、もうすぐ恋人たちの季節だろ。ミーハーらしく夜の街に赴かなくていいのか?」

「それはそれ、イルミネーションを今までと違って愛しく眺める予定は別であるさ」

「そうかそうか、それならいいや」

 なにが良いというのだろう。

「どこ行くんだよ?」

「なばなの里」

「これまたベターな」

「やっぱりなんだかんだでベターが一番だってことだよ」

 真理だな、酒を流し込んだ。水を飲んだからだろうか、ちょっと頭が落ち着いてきた。それはそれで単純すぎるけれど。

 なんでもなく、ちょっとした気まぐれでこいつの顔をじっと見つめてみた。こんな顔をしていたっけ。そういえばこんな顔をしていた気がする。アイドルになれるような整った顔をしているわけじゃない。かと言って不細工でもない。むしろどちらかと言えば美形だ。言い方を変えると丁度いいんだ。一緒にいて圧迫されるような緊張感はない。少なくとも顔面偏差値とやらは低いわけじゃなくて、その点でマイナスに修正されることはないだろう。なに見てんの、とこちらの視線に気づいたらしく首をかしげる。なんでそんな顔に恋人ができるんだろうなと不思議に思ってたところさ、言ってから口走ったと気づいた。うるさいやい、頭を強く叩かれた。思ったより痛い。いやこれは本当に痛い。二日酔いしたような痛みだ。

「冗談だよ冗談、お前は別に顔は悪くないさ」

「この流れで言われてもただの気休めにしか聞こえないのは酔ってるからか?」

 そうだよ。

「本気で思ってるさ、本気でさ。よくいるだろアイドルでさ、こいつ本当にアイドルなのかって思うような微妙なやつ。でもふとした瞬間ちょっと良く見える時があるんだよな。それも気のせいかもしれないっていう微妙な感覚だけど。お前はそれだよ」

「褒めてるってことにしておくよ」

 しとけ。

「にしてもね、あんたに褒められたの初めてじゃない?」

「いや、そんなことないだろさすがに」

 そんなことないだろうと思う。いややっぱり自信はない。確かに何度も喋る機会はあって、お互いについて色々言ったりしたことはあった。しかし褒めたことがあるかと聞かれたらそれは無いような気がする。というかなにを改まってそんな恥ずかしいことを言わないといけないのだろう。

「……お前のなにを褒めればいいんだ?」

「それはあんたが考えることであって本人に聞くことじゃないでしょ」

 ごもっとも。自分で自分の褒めるところを公表するなんてしない方がいいに決まってる。そういうのはTikTokで踊ってるような人たちがやればいい。

「……そういえば、あんた何杯目?」

「二桁乗ってから数えてない」

 前言撤回、こいつはやっぱ酒強い。僕だったらとっくに吐いてるか頭ぐわんぐわんして千鳥足になるまでがテンプレだろうに、ちょっと顔赤くなってちょっと調子に乗っているだけで、別に辛いとかそういう顔を歪ませる類の感情は見えてこない。ああそんなにビール飲み散らかしちゃって、まだまだ元気ですか? そうですかそうですか、こっちはもうソフトドリンクの時間にしようかと思ってるんですけどね。

「いっつもお前と飲むたび思うよ、これが飲み放題だったらどれだけ安く済んだだろうって」

「予約してないから仕方ないだろ?」

「予約しなよじゃあ」

「直前で決めてるから無理だろ?」

「当日飲み放題できるところにしなよじゃあ」

「でもこの店好きだろ?」

「……割り勘はしないからなじゃあ」

 卵焼きが優しい。刺激性をふんだんに抜いた腑抜けた甘み、それが逝かれた頭に丁度いいみたいだ。大丈夫か、なんてそんな心配してなさそうな伸びた声でこっちの顔を覗いてくる。項垂れながら出汁の味を噛み締めていた僕はいきなり目の前に現れた見慣れた顔の見慣れない景色に、ただただふわぁっとなんでもない感情だけを頭の中で垂れ流していた。顔、赤いなこいつ。

「手、綺麗だなあんた」

 僕の手がなにかに掴まれた。僕の手を掴むとしたらそれは目の前にいるこいつ以外いないわけだけど、それはやっぱりなにかだった。男なのにゴツゴツしてないし毛も生えてない、というかほんとスベスベしてんね。お前なんだよ急に、酔ってるにしてもその酔い方は聞いてないよ。いやあ憧れるよね、やっぱ男でも綺麗な方がいいって。お前の好みなんて聞いてない。掴んでた両手のうち片方はジョッキを持って持ち主の口まで運んだ。ますます赤みを帯びた顔をどうしてか見れなかった。目線を逸らした先には相変わらず僕の手を触る僕とは違う手がいた。爪の先を触れる触れないの強さで撫で指一本一本を掴んで太さを確かめているようだ。甲の上を滑り手のひらに自分の手のひらを重ねる。ひにゃとくっつき少し経って名残惜しそうに離れる。意味がわからない。今なにが行われているのか僕の正常ではない頭ではわからない。分かるのはこんなことをするこいつが正常じゃないことと、こんな光景に狼狽することなくむしろ感情なんて空き皿に残したまま片付けられてしまったようで、無駄に平然としている僕も正常じゃないことだけだ。

 数分と続いた意味不明な静寂。手が触られている間僕も相手の手を眺めていた。確かに僕とは違う。でも同じように綺麗だと思った。いやむしろ僕よりも綺麗だと思う。拘束されない自由なほうの手でグラスを持つが既に水は飲みきっていて、仕方なしに半分ほど残ってた生しぼりレモンサワーを一気に煽った。とにかく今は喉を潤したかった。別段渇きで飢えているわけでもないけど、どうも僕は水分が欲しくて仕方なかったらしい。結局逆効果なわけだけど。流れてきた液体は直接胃に流し込み、溶けて小さくなった氷は噛み砕き、切り分けられたレモンの塊は皮ごと噛みつき果汁を絞った。酸っぱいやら苦いやら甘いやら。今日はもう帰らないか、もう終電の時間だし。そうだね、お互いベロンベロンだし。真っ直ぐ歩けるのか? 大丈夫さ、いざとなったらあの人に迎えに来てもらうさ。なにここから近いの? どうにもそうらしい、だからあんたのほうが心配だよ。安心しろ僕のほうがそういう点ではまともであると自負している。そうかい。

 いつにも増してお会計の金額が悲惨だった。殆どの飲み代はこいつの分なので半分以上払ってくれた。当然だと思う。そこそこの酔いだったらこいつも渋っただろうけど、今はこいつも僕もベロンベロンなので、どうも緩いみたいだ。お財布も酔ってるのかもしれない。

「お前帰り道ってそっちだっけ、引っ越した?」

「あの人の家こっちなの」

「そっか」

 いつもだったら社線一つ分一緒になるけど、今日は駅に入らず地上を歩いていくようだった。もうそろそろ日付も変わるというのに看板や信号機や車のライトが眩しくて、ちゃんとお休みをいただいているのだろうかと心配になる。必要以上にケバケバしい光源たちが鬱陶しい。ああ早く帰りたい。帰ってゆっくり布団にくるまってこの頭痛から現実逃避したい。もはやこの痛みが酒のせいだけなのかわからないけど思いつくあたりそれだけだしそういうことにしておこう。なんにしろバファリンは飲めないのだし。

 あいつと別れたあとの電車はぼうっとしていた。車内の人も帰宅ラッシュはとうに過ぎて疎らで、酔った勢いで横になってしまおうかと思ったけど、人がいないわけではなくさすがに視線が痛いわけで、大人しくガラス窓に頭を預けて目を閉じた。揺れて揺れてガコンガコンと頭をぶつけて痛かった。電車を降り歩いている帰り道の途中でいろはすを買って半分くらい一気飲みした。いつもだったら白桃味を買うところだけど、なにもないただ必要最低限の役割だけを果たす味のない水のほうがその時は頼もしく見えた。体内のアルコール濃度を気持ち薄めたところでなんとなく空を見上げた。気づけば日付は変わってるらしく近くの信号機は片や赤点滅もう片や黄点滅で交互に仕事していた。周りの住宅たちはちらほらと電気がついているがほぼ消えている。静かだと思った、あと寒い。身体は酒のおかげで熱いのだけどどうにも寒くて仕方ない。熱い芯の周りを冷気が纏わり付いているような、自分一人の温度差で風邪をひきそうだ。手袋もないのでポケットに手を入れたらちょうどスマホが震えた。LINEの通知、無事帰れた!と生存報告。一緒に送られてきた写真にはアップのあいつと後ろに笑うあの人。震える指でちゃんと寝ろ、と返してパンツのポケットにしまった。すぐに返信は来たようだけど返す気にはならなかった。また寒空の下に手を出すのは嫌だった。今度はスマホ対応の手袋を買おう。

 思ったよりすんなり眠れた。酒を飲むってことは自傷していることと違いないのだろうししっかり疲れていたのだろう。ただ寝る前にあいつのことが不思議と一瞬だけど思い浮かんだ。今更になって知らないあいつとはじめましてしたような気分で、もはや本当に今日一緒に呑んだくれたのはあいつだったのかと思ってしまう。それならそれでいいのかもしれない。そう思ったらすんなり眠れたのだ。この日以降、あいつと飲むことはなかった。

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果実 響木刹那@大学生 @Setsuna_sona

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