エッセイ「普通に考えてみると(十一)」
@SyakujiiOusin
第1話
普通に考えてみると(十一)
百神井応身
1.落語の落ちじゃあるまいに
某TVの女子アナが、太鼓の罰を作っている人だとレポートしていた。
そりゃ罰じゃあなくって撥でしょうよ。
全国に放送されるんだから、ちゃんと読みましょうネ。
まさか、撥も罰も当てるのは同じだからなんてオチをつけてるわけでもあるまい。
2.力関係
世の中、正しいことが通るというとばかりは言えない。
大体が強いか弱いかで決まってしまうことの方が多い。
それでも大したことではないことなら良いのだが、自分の感情がおさまらないことにはつながるから、権力であれ金力であれ暴力であれ、力を得たいと望むことになる。
力を何に使うかということになると、自我を通すことや我欲を満たすということに向かう例が多いから始末に悪い。
力を得たら、それをどのように使いたいかということについては、整理して考えてみることが必要であろう。
聖人君子のようなことばかり言っても始まらないが、自分に正直に問うてみることをしておかないと、幸せからは結果として遠のくのかも知れない。
3.願いを叶えるために
恋の願い事を叶える為に、縁結びの神様にお参りするのもよくあることです。
商売繁盛も、ご利益のあるといわれる神社に詣でて聞き届けて下さいとお願いします。
お願い事というのは、実生活でも頼むときのお作法というのがありますが、神様にだって同じことです。無礼者、下がれということで門前払いされていることだってあるかも知れません。
そこにいくと、ご先祖様は身内ですから、大目に見てくれて親身になってくれるようです。
それでも、本気度は見られます。
ですから、ご先祖様が私のために「ここまでやってくれたんだから・・」と思って貰うくらいの誠意を、お参りして見せるわけです。
魚心あれば水心というのは、人情の自然です。
自分でできることを、誠意をつくしてまずやる、というのが初めの一歩です。
4.カクレミノ
隠れ蓑といっても、それを被ると姿が見えなくなるという蓑のことではありません。
今日はこの寒いのに、植木屋さんが3人でマンションの庭木の剪定にやってきて、1日がかりで樹木の手入れをやっていきました。
秋に実をつけていた天狗の葉団扇のような葉っぱの植物の名前を知らなかったので、尋ねたところ、カクレミノだと教えてくれました。
この木の樹液には、ウルシと同様の成分が含まれていて、人によってはカブレルのだというが、そんなこととはつゆ知らず、実を取り集めたのでした。
いくつになっても、勉強の種はあるものです。
5.この先20年あれば
風邪を引いたらしく、咳が止まらないのを放置していたら、声が全く出なくなってしまった。
仕方がないから医者にいくことにしたのだが、待合室が混雑していて大分待たされた。
よんどころなくラックにあった漢詩の本を開いて読むともなく読んでいたら、嘆駒隙(クゲキをなげく)なんて文が出ていた。
駒隙とは、月日が早く流れ過ぎること。
先日の古希の会に集まった面々は、生きてくるのに一所懸命で、クゲキなんてこととは程遠い経験をしてきたらしい様子が諸処に見て取れた。
70年を生き延びた人は、90歳以上まで生きるらしいから、この先20年をどうするかということになる。
20年あれば、かなりなことを成し遂げられる筈だから疎かにはできない。
気持ちはあっても体力とは相談しなくてはならないが、真剣に考えてみる必要がありそうです。
冷や水にならないように、知恵を使ってネ。
6.スノウドロップ
蕾が膨らんできたと思っていたら、今朝になって花を開きました。
スイセンと同じヒガンバナ科ですが、スノウドロップの方が咲くのが早い。
最近は、花の時季というのがいつなのか分からなくなる程、1年中花屋さんで見られるようになってしまったが、スノウドロップやスイセンといえば春早くに咲いて、ようやく冬が過ぎるのだと知らせてくれる花。土を割って芽を出すのを見ると嬉しい。
日増しに温かさを増す季節なのだろうけれど、今晩も雪まじりになりそうです。
7、負けず嫌い
「まけずぎらい」というのは変なのではないかと内のサイ(普段は見えませんが鋭いツノを持っています)が言う。
負けず、というのは負けないということだから、負けないのが嫌いというのは、言われてみれば確かに変。こういう言葉って意識しないでつかっているが、他にも沢山ありそうです。
8.めぐむ
「芽ぐむ」。芽吹くとほとんど同じように使われますが、芽を吹く前の少し膨らんできた状態をいうように思います。
好きな日本語の一つです。
「ぐむ」は名詞に付いて動詞をつくり、そのものが現れ始める意を表す。
「涙ぐむ」「芽ぐむ」などです。
冬の厳しい寒さにじっと耐えていた木々の幹が、血が通い始めたように生き生きした輝きを加え、枝先に花芽が芽ぐんできているこの時季は、心躍ります。
例年ですと正月には満開となる梅の蕾が膨らみ始めました。
9.もっけの幸い
漢字で書くと、勿怪あるいは物怪となるが、「もっけ」とは、思いがけないこと、不思議なこと、というような意味である。
世の中には、不思議な巡り合わせというのがあるが、実は不思議でも何でもないのかも知れない。
自分が気づかないだけで縁や因というのはあって、それを素直に行動に移していることで、ある日思いもかけなかった幸いを手にすることがあり得るのです。
10.やろうかどうか
やるかどうかを迷うとき、基本的にはやった方が良い。
ただ、何でそれをやろうかと思ったかの動機は、何らかの気づきや縁や目にした聞いた薦められたということが殆どであろうが、躊躇う原因というのは、騙されているのではないかという恐れに起因するのであろうことも不思議ではない。
神様は、多額のお金がかかることや、負担が大変なことをやれということはまずないから、そんなことも判断基準として、できそうなことであればやる方が良いということになる。
11.衣食足りて
倉廩(そうりん)実ちて則(すなわち)礼節を知り、衣食足りて則ち栄辱(えいじょく)を知る
(米蔵がいっぱいになって礼節を知り、衣食が足りて恥を知る)
「衣食足りて礼節を知る」と、学校では習いました。逆は「貧すれば貪(どん)する。
しかし、本当にそうなのだろうか?
ギスギスした関係や、殺伐とした事件が多すぎる。
むかしの貧しかった頃の方が、礼儀正しかったし努力しようとしていたし、互いに譲り合って弁えた行動をしたのではなかったか。
物が満ちて有り余るほどになったとき、ますます貪欲になって、自分に必要以上のものを他人を蹴落としてまでも集めるようになってしまったのではないだろうか。
奪い合えばいくら有っても足りず、餓鬼道。分け合えば余るともいわれるのに・・・
物の豊かさは必要だが、心の豊かさにも目が行くようにならないと、精神の安定が得られないように思えるのだが。
12.解らないことはやらない
解らないからやらないというのも一つの判断です。
しかし、考えてみるに、自分のやっていることはすべて解ってやっているのだろうか?
他人がやっているから自分もというのでは、他人以上に幸せになれるということにはまずならないのも、ある意味で事実ではある。
それでも、良さそうだと思えることは、まずやってみる。そうすると、後からそうやったことの効果と理由がわかるということも多い。
用心深いだけでは、新しいことは何もできない。
13.学びはどこででも
中学校の同級会を、「古希の会」となる節目でもあり、今年は郷里の飯田ではなくて東京でやることになった。
卒業以来半世紀余となるが、初めての参加者も加え総勢で21人集まった。
こういう会は、いくつかの条件が整わないと参加できない。
自分も家族も健康であり、経済的にも余裕があり、殊に女性は家を留守にすることに家族の理解があり、などなど。ありがたいことである。
禿たり白くなったり太ったりと外見は凄まじく変わったが、面差しは残っていて、すぐに打ち解け和やかになった。
この年になるまで、お互いの積んだ経験は豊富だから、話題は楽しいものであった。
仲間内の心安だてという事もあって、恥も外聞もなく開けっ広げで話せるというのも有難い。
住所録の中に、読めない漢字があった。偏がサンズイで旁が秋。これを長久手と読むのだという。長久手の戦いがあった近くの地名である。
何歳になっても、学ぶことは多い。
次は、喜寿の会で集まろう!という中で、楽しいから「来年もやらまいかな」という声が多かったから、多分来年もどっかでやることになる。
14.業が湧く
腹が立つことをされたとき、信州では業(ごう)が湧くという表現をすることがある。
業は、精神に悪い原因を積むことになり、それが将来悪い結果をもたらす。すなわち因果。
気持ちを軽やかにすると、結果として自分にとって良い展開となる。気持ちを穏やかにする為には、まず許すということが大事なのだが、許せないから心が痛み悩むのも事実です。
「許せないけど許す!」と、小さな声で口に出し、あとは放って置くとよい。
15.血圧を下げるのに
赤ビーツは、植物分類上はアカザ科に属し、カブの形をしているがカブの近縁種ではない。
この赤ビーツは名のごとく極端な赤色の色素を含有している。この赤色は、アントシアニンではなくベタシアニンである。
日本ではなじみの少ない野菜であり栽培面積が少なく、店頭にはほとんど出回らないが、瓶詰めなどの加工されたものが見られることはある。
糖分が17%前後含まれているシュガービートに比べると、糖分はずっと少ないが、甘さは幾分かは感じられ、食べたときには若干の土臭さがある。
食べ方としては、皮ごとゆでてから調理する場合が多いが、ピクルスにしたりサラダに入れたりして食べられる。また、世界的に有名なのはロシア料理の「ボルシチ」であり、ヨーロッパではスープとしても利用されている。
ジューサーで牛乳と一緒に飲むのもよいが、かなり濃いので多少飲み難い。
赤色の色素は細胞から出やすく、料理の色づけには良いが、逆に付きすぎるくらいで、生のビーツを切るとまな板や包丁が真っ赤になるので注意が必要。
このビーツというのが、キクイモと並び血圧降下に効くのだという。
16.言葉遣いを振り返る
大切に思う人や好きな人に対する言葉遣いは、自ずと丁寧で思いやりに溢れたものになっているが、段々親しさを増してくるにつれて、粗雑になってくる。
意識しないで、悪気はないであろうとも、相手の気持ちを逆なでするような口調や物言いになってしまってはいないだろうか。
仲たがいや夫婦関係のイザコザは、案外こんなところに起因していることが多い。
親しきなかにも礼儀ありで、許されないようなことを言ってしまうことは、気をつけなくてはならない。限度というものは、どんなところにもある。
他人行儀な表現がいいと言っているのではない。その場その時に合った丁寧さというのは、いつだって人間関係に必要である。
不仲になる原因は、認めたくはないだろうが大抵は自分の側にある。
「あの人はいい人だ」と言うときの「いい人」というのは、自分にとっていい人であるということだから、多くの人から「いい人だ」といわれている人の言葉づかいを意識して聞いてみると勉強になる。
科学とは、同一条件であれば誰がやってもそれを追認できることと言えようが、論理的に齟齬矛盾がないことが必要である。
論理とは、思考の道筋であり、それらは言葉を使ってなされるから、正確かつ適切な表現であることが求められる。
言葉は、文字や絵や記号、或いは音楽などによってあらわされるが、その時点で無形だったエネルギーが現実化されることになり、更には物質化の段階に進む。
良い言葉で表されたエネルギーは良いものを創造し、波動の悪い言葉で表されたエネルギーは破壊へと繋がるであろうことは、因果の法則上推し量ることができよう。
思考が現実化するとしたら、言葉というのは大切な意味を持つ。
言葉には、口に出したことを実現してしまうエネルギーがあるとするのが、言霊信仰とも言われるもの。
ある意味で真実かも知れぬから、無闇に縁起でもないことを言うのは避けたほうがいいだろうし、乱暴な物言いもしないほうが良い。
日本語には、美しい言い回しがいくらでもある。美しい言葉を口に出して言うことを言祝ぐ(ことほぐ)といい、寿ぐとも表す。
思考は現実化するというが、思考というのは言葉を使ってなしていることを意識せずばなるまい。
17.幸運度指数
何をもって幸せと考えるかは、個人によって違う。欲をかけばきりがない。
国民の95%が幸福だと感じている国のことを羨ましいとする意見を述べている人が沢山いたが、ではその人がその国に行って住むことになったら幸せだと思うかと言ったら、それは一概に言えないのだということまで実情を知っての意見であるとは思えない。
そんなに良いというのなら「そこに移住したら?」と薦めてみても、そうする人は殆どいないのではなかろうか。
今の自分の方がもっと幸せなのだと思っている。
幸福とは、人それぞれによって違う筈のものであるから、安易に他と比べるようなものでもあるまいが、あるものだけで満足して、それをもって幸せだと決めてしまうには、人はそれぞれが持つ望みが多いのであり、望みを叶えることが幸せの一つの形であるとするのもありえる。
いずれにしても、決めつけるのは自分を不自由にするし、可能性を狭める。他と比べるものでもない。
18.弘法筆を選ばずというが
名人達人というものは、どんな道具でも使いこなすというが、修行中であるときは、良いと思われる道具を選ぶべきである。
料理人や大工が、切れ味鋭く使い勝手の良い刃物を選び、ペンキ職人がハケに拘るのは、良い仕事をしようと思えば当然のこと。
音楽家も普段から良い楽器を使わなければ、良い音を作り出せない。
本当に道を極めたいと思うなら、良いと思われることを常に求めることが、何事によれ進歩の基本となる。
19.差別と区別
名詞とは、事物・動作・状態などを表す品詞であり、これがなくてはものを区別できない。
本来、区別を意味していたはずの名詞であるはずが「ただいま不適当な表現の放送がありました」などのように、近年使用が憚られる言葉が増えてきたように思える。
誤って差別的に使われることは咎められるべきであろうが、行き過ぎれば名詞というものの意味が無くなることだってあり得る。
「片手落ち」というのは差別用語だから「片落ち」と言わねばならないらしいが、そんな日本語なんてあるのだろうか。「片手運転」「片手演奏」なども、そのうち槍玉にあがるのだろうか?
「主人」と呼ぶのが怪しからぬということで、「夫」でも「妻」でもなく「パートナー」と言えとどこかの国の大臣が言ったそうだが、国語力を疑う。
大きな声で騒ぐ人や、なんらかの思惑があって主張する人に引きずられることって多過ぎないだろうか。「差別」とレッテルを貼られることを避けたいというのが人情とはいえ、大勢によってたかって責められるのは面倒とはいえ、簡単には見過ごせないものだってある。
最近、TVや新聞のニュースだけでなく、ネット上の書き込みも読むようにしているが、その中に、意外に事実や真実を伝えているのではと思えることが多い。誰かが言っているからではなく、自分で判断することが重要である。
言葉も、差別的な意味で使わないようにすれば、名詞の数を減らしたり、くどくて長い表現をしたり、外国語に置き換えたりしなくてすむのではないのか?
20.星の光に身を占って
星の形を書けと言われると、普通 ☆ というように光芒が五本でたものになるのが多い。
ペンタグラム(五芒星)。このペンタというのは、5のこと。
Mono 1 ・di 2 ・tetra 3 ・tri 3 ・tetra 4 ・penta 5 ・hexa 6 ・hepta 7 ・ octa 8・ギリシャ語の数である。
モノレール・ジレンマ・トライアングル・テトラポット・ペンタゴン・ヘキサゴン・・・
などと聞けば思い当たることが多いと思われます。
三角形を二つ組み合わせてできる六芒星ヘキサグラムや四角形を二つ組み合わせてできる八芒星などは、呪術的な意味をもっているようで、神社などでよく見かけます。
米は宝だ宝の山だ・・・の米は、8本の光が出ている太陽の光芒を示すのだとか。
21.潜在意識について
誰の脳にも、見たり聞いたりなど普段日常的に使っている「意識」とは別に、普段意識的に使っていない「潜在意識」と呼ばれている、大抵のことを可能にしてしまう能力があるのだといいます。
この潜在意識というものは、今までに聞いたり、読んだり、見たり、言ったり経験したことの全てを記録する膨大な記憶装置でもあるのだという。
ここには、世界中の全ての図書館にあるものを合わせた情報量よりも遥かに多くの情報を、記憶できるということが証明されているといいます 。
潜在意識が何かを記憶するとき、その記憶は「いい」か「悪い」かに区別されません。
しかもその上、潜在意識は、事実上の現実と、想像上の現実を区別しないのだともいわれます。
ですから、現実と想像の区別がつかなくなってしまい、思考と行動が潜在意識によって現実に導かれてしまうこともあり得るということになります。
潜在意識は一番強力で、いくら強い意志を持っていたとしても、潜在意識には適わないので、例えば、「ダイエットをしよう」と意識的に思っても、「今日は特別だから明日からにして、食べてもいいや」と考えてしまうのは、潜在意識のパワーによるものです。(潜在意識は変化を好まない)
しかし、もしもこの潜在意識を、自由自在にコントロールすることができれば、自分の意識や行動は、常に成功に向けて自動的に進むことがプログラミングされるといわれていますから、望みを叶えるのには強力です。
ただ、この領域につながるのはなかなか難しい。気づきのキッカケは、小さなことからなのだというのですが・・・
22.素直にできることは
人間は本来、大抵のことは実現できる能力を持っているらしいのだが、それを発揮することも、それに気づくこともなく、自分であると自分が認識している能力の範囲内で過ごしている。
何事をも可能にしてしまうといわれる潜在能力というものに近づくには、厳しい修行を耐えなければならないのだと思い込んでいるが、肉体の鍛錬が必ずしも必要であるということでもないらしい。
心に素直にしていれば、気づき・ひらめき・啓示のような形で常にコンタクトしてくるものなのだともいう。
ただ、小さなキッカケとなることを突然のように脳裏に浮かばせるので、見過ごしてしまったり、ないがしろにして無視してしまったりしていることが多いようです。
最初の一歩は、ささやかなことから始まるらしいから、告げてくるものに敏感でなくてはならないようです。
私が受け取ったもののなかに「手の甲をマッサージしなさい」というのがあります。
手の甲を指先に向かってマッサージすると、これがなかなか気持ちが良い。
これがどんな結果をもたらすのか、それがいつになるのか判らないけれど、簡単にできるし気持ちもよいので、続けてみようと思っています。
難しいことや、多大な費用が掛かるようなことが告げられてくることはまずない。
23.遅咲きの蠟梅
毎年2月には、宝登山の山頂にある蠟梅を見に出かけますが、今年は開花が遅れているとのことで、昨3月4日に出かけました。おりしも神社では山伏が火渡りの行をしていて、大勢の行者さんや善男善女が神妙な面持ちで火の上を渡っていました。
この山は、登山シーズンに入る前の足慣らしとして気に入っています。麓からゆっくり歩いて1時間ほどで山頂に至り、そこに咲いている蠟梅や福寿草やマンサクの花を見るのがご褒美といえます。近くには武甲山遠くには両神山も望めます。
山頂までのリフトがあるので、家族連れの花見客も多数訪れ、おにぎりを食べながら眺望を楽しんでいますが、四季折々の花や、山麓近くの長瀞やマンジュシャゲの巾着田など、観光の名所でもあります。
宝登山神社(ほどさんじんじゃ)は、埼玉県秩父郡長瀞町の宝登山山麓にある神社で、秩父神社、三峯神社と並ぶ秩父三社の一つ。神日本磐余彦尊(神武天皇)、大山 祗神、火産霊神を祀る。境内には、日本武尊が禊をしたといわれる泉があります。
24.冬なればこそ
15年に及ぶ海外生活から、ピアニストとして昨年9月に帰国した息子が、プラハの長く寒い冬が終わると、雪を割って芽を出したスノウドロップの白い花が一番最初に咲くのだけれど、これを森に見に行くのが楽しみの一つであったと語った。
たまたま花屋さんの店頭で、この花の球根を見かけたので買い求め、鉢に植えておいたものが綻んできました。
寒い寒いといっていても、草花は春を知っているのだろうか。
冬なればこそ 春遠からじ
夜が明ければ日は昇り、春もめぐってくる。
25.年金問題
現在年金を貰っている特に後期高齢者の方々の受給額について、高すぎるだの何だのの議論があるが、その人たちが戦後の焼け野原の中から立ち上がって、死に物狂いで働いてくれたお蔭で日本の現在があることを思えば、感謝こそすれ減額しろなんてとても言えたものではない。
休日なんて殆ど取ることもなく遊びらしいことも殆どないまま、社会の底辺を支えた人たちが、ようやく老後の安らぎを得られそうになった途端に、梯子を取っ払うに等しい。
積み立てられた原資を無駄遣いしてなくしてしまった人たちが、何の責任もとらず論点をぼかしてしまっていることが腹立たしい。
年金保険料の最高額を長期にわたって納めてきたかくいう私も、受給開始年齢があがり、受給額もカットされるが、恩知らずにはなりたくない。
私たちを、自分のことは後回しにしてでも必死で育ててくれた年代の方々に報いる方法というのはないものなのだろうかと扼腕しています。
26.馬鹿にするほどではないこと
そんな馬鹿なということにして、無視したり放っておいてやらないことってないだろうか?
判断の基準は、自分の能力の限界や了見の狭さに気付くことなく、自分の小智才覚を過信してであることが多い。
知らないことの方が多いのだと自覚するのは難しい。
何か偉大なるもの(神様といったほうが解りやすい)が、閃きのような形にして知らせてきたり、目に触れさせ或いは耳に聞かせることは、たとえ小さなことであっても、その後に重大な影響を持つことが多い。その時には解らなくても後で解る。
神様は、お金が沢山必要なことや、それをやるのが大変なことをやれと言うことはまずない。
簡単にできそうな小さなことを気づかせて、やるかどうか本人に任せるのが普通です。
それで素直にやるかどうかを見て、「コイツはやらないな?」と判断されれば、後の導きは途絶える。
知っていることと解っていることとが違うことは勿論だが、素直にやるかどうかが大事なことになるようです。何もしないで幸せになれることは少ない。
27.梅に鶯、花に風
鶯は、今年は声も聞かないし姿も見ないが、代わりにメジロがやってきます。
2か月半遅れで、梅がようやく綻びました。もうすぐ桜も咲くだろうに・・・
盆栽仕立てにしていたものを、庭に下したものなので、幹回りは40センチほどあります。
場所がないので、サツキの間で窮屈そうにしています。
梅には、俳句も和歌も多い。
梅一輪 一輪ほどの あたたかさ (嵐雪)
梅が香に のっと日の出る 山路かな (芭蕉)
人も見ぬ 春や鏡の 裏の梅 (芭蕉)
手をかけて 人の顔見て 梅の花 (一茶)
一輪を 五つに分けて 梅散りぬ (蕪村)
東風吹かば 匂ひをこせよ梅の花 主なしとて 春な忘れそ (道真)
28.物言いがきついと
最初の内はよいのだけれど、段々に周りの人が離れて行ってしまう人というのがいる。
決して悪い人ではないにもかかわらず、本人に悪気というものがないにもかかわらずそうなる。
ものの言い方や口調がきついのである。少なくとも語調がそうであることが多い。
世の中、味方にまでなってはくれなくとも、敵になるような人は作らない方がよい。
敵は、味方の10倍以上の破壊力がある。
「あの人のものの言い方はああだから」なんてことで大目にみてくれることはまずないから、「普通に言えばわかるのに・・・」という思いが積もると、一気に敵にまわることがある。おだやかなもののいいかたをするようにしたい。
29.目的を達成するには
競技でも勝負事でも、勝ちを抑えるのは、執念深い方に傾くことが多い。
執念深いというのは響きが悪いが、別の言い方をすると、諦めない心の強さ。
ただここで注意しなくてはならないことは、「念」が強くならないようにすること。
軽やかにふわっと意識下に留めつづけないと、力が入りすぎたものの結果はよくない。
この兼ね合いが難しい。我欲にのみ基づいたものは、無理がくる。
30.わやになる
親の意見とナスビの花は、千に一つも無駄がない。
そう昔はいいましたが、今どきそんな覚悟があって子にものが言えている親がどのくらいいるだろうか。
まさにナス(成す)というには覚悟がいるのです。
昨晩は、酔ったおじいさんが多少怪しげな呂律で面白い歌を口ずさんでおりました。
聞いたこちらもかなりいい加減だから、あまり定かじゃないけれど・・・。
親が裁判官で子が泥棒 (おや~がさいばんかんで こがどろぼう~)
検事判事が叔父さんで (けん~じはんじが おじさんで)
そこで弁護士が従兄弟なら (そこ~でべんごしが いとこなら)
何で裁きがつけられよう (なんで さばきがつけられよー)
ホント、こんなんになっちゃったら、一体どうしたらよいものやら。
31.アカイマンマ
アカイマンマ(イヌタデ)は、子供がママゴトのときに使いました。
そもそもが夏の時期の雑草ですが、刈り取られた後にしぶとく息を吹き返し、小さいながら花をつけて咲いていました。
アカイマンマにトトそえて しろいまんまにしいかけて にんじくまんじくふくたまれ。
どういう意味の呪文だったのでしょう?
百合の花弁を1枚はがし、両手のひらで上記の呪文を唱えながら、軟らかくなるまでそっと揉みます。
そうして端から息を吹き込むと、風船のように膨らみます。そんな他愛の無いものが玩具がわりであった時代に育ちました。
32.烏彗沙摩明王
お寺のトイレを借りると、ウズサマミョウオウのお札が貼られていることがあります。
この明王さまは、不浄なものを浄化してきれいにするといわれる仏教の神様です。
おトイレの臭穢(しゅうえ)を払うことを司るのだそうです。
トイレに入るとき黙ったまま入ると、この神様がお怒りになるので、軽く咳払いをしたり、指を鳴らしてから入るようにします。
使用後のトイレの蓋を開けっ放しにしておくのは、運が逃げるといわれよくありません。
本日は、トイレのお作法のお話でした。
トイレは、汚した人がその場で綺麗にしておきましょうネ。
33.ウニとの違い
脳の重さは、大体1300グラム位なのだそうです。
私のは、もう少し多いと思うけれど・・・
えっ、ウソだろうって?
人間は、その脳の重さを支え体を安定させるために、直立二足歩行をするように進化した。
結果、自由になった手を使うことができるようになり、特筆すべきは親指を他の指と対抗させることで、物を掴むことができるようになったことだという。
これは人間だけにできることなのだとか。
進化が進んだとはいえ、DNAレベルで言えば、ウニと比べても99パーセントは同じなのだというから驚く。
万物の霊長としては、もっと進化しなくては・・・
34.うまく行く人の特徴
特に努力しているようでもないのに、傍からみていてツイている人というのは、「ありがとうございます。」とか「お陰さまで。」とかを自然に口にしています。
口先だけの口癖ではなくて心から出ている言葉だから、まわりにも気持ちよく伝わるようです。そういえるようなことを実際にしているからなのかも知れません。
聞いてみると、「自分の力だけなのではなくて何か大きな力に導かれているように感じているからなのです。」と仰います。
それで、感謝の気持ちまでに、せめてものこと自分で墓石クリーニングをしようと思い立ってやってみたのだそうです。
「ツキを呼ぼうとかの気持ちが全然なかったとはいいませんが。」、と言っておられましたが、とにかく結果として目の前に形として現れた綺麗になった墓石を見たとき頭に浮かんだのが、「引き寄せる力」という言葉だったそうです。
これに限らず、自分に合った何らかの言葉が閃くといいます。
善は善を引き寄せる。
でも、なによりかにより綺麗になったという満足感は、なんとも言いようのないものだったと・・・
35.川鵜
どこかの川には、カワウが群れをなしてるんだとか。
カワウは川魚を大量に食べてしまうので、なかなか大変なのだと聞きました。
どこの海岸の崖の上だったか、歩くのもやっとのような所にヨシズかなんかで囲いをし、そこに人が潜んで、海鵜が岩にとまるとヨシズの隙間から足を捕まえて獲っている所があありました。(今その崖は崩れてしまって、使われていないらしい。)
海鵜を捕まえて何をするかというと、訓練して鵜飼用の鵜にする。
捉まるとその鵜の行く末は、あわれ喉を紐で縛られ、鮎をとっても飲み込むこともままならぬ鵜飼をさせられるということになるのです。
長良川が有名ですが、ほかの川でもやっているところがあるのだとか。
縛るといえば、本当か嘘かなんでなのか知らないけれど、忍者を捕らえたら、カワウならぬカワウソの皮ひもで縛らないと、縄抜けをされてしまうから駄目なんだといいます。
その昔、猿飛佐助だの霧隠才三だのに夢中だった頃、遊び仲間の悪がきが言っていた。
その頃は、そうなんだと信じていました。
36.キンタマハジキ
なんともかんとも、すごい名前がついています。
子供のころ、山で熟した実を摘んで食べたものです。
完熟して紫色となった実は、甘くて美味しかった。
この実の別名に「ハチマキブドウ」などがあることは知っていたが、この植物は120種類くらいの名前をもっているらしい。
なんで、ナントカはじきの話題をとりあげているかっていうと、これって日本のブルーベリーということなのです。
彼の夫人が、ブルーベリーの栽培を日本で最初に始めた農家出身である友人が、大粒のブルーベリーをジャムにしたものを恒例により同期会に持参してくれ、みんなで伴食したのであるが、帰り道が一緒だったので、その木の実の話しをしたところ、彼もそれがナカマだということを知っていて、なんとも嬉しそうな顔をして笑った。
彼が育ったあたりでの名前も、私のあたりの呼び名と同じく「キンタマハジキ」だったとのこと。なんではじくのかね~。いたいのにね。
37.こごとこうべい
ふわふわと、ただ酔っていた。それでも意味は通じるけれど、
かわいい女の子が、記憶を消されて・・・という場面でのナレーションなのだから、「ふわふわと、漂っていた。」ということでないと、意味がわからないシーン。
厚く焼いた石の上に、木の葉に包んだ・・・
熱く焼いた石の上で蒸し焼きして食べた。ということに違いないんだけれど、熱くと厚くは、読み分けて欲しいものです。
休日だというのに、出かけず不精を決め込んでTVを見ていると、荒ばっかり見えてよくない。
いずれも、こども向きの番組なだけに、プロだったらしっかりせいっ!といいたくなる。
われわれみたいに、お遊びで言葉をあやつっているわけではない立場の人は、将来にわたる影響にも心しなくてはなるまい。
子供たちの感性を養うのは、正しい言葉からなのだから。
38.しら鳥は悲しからずや
ハクチョウが飛来したとの便りが聞かれるようになりました。
湖に浮かぶ白鳥は、優雅なものであります。
が、一旦陸にあがるとそうでもなくて、縄張りを主張するんだか順位制を図ろうとするのか知りませんが、人相手でも結構突っかかってきます。
それも、強そうな大人の男にではなく弱そうな女子供に対してであります。
ガチョウもその気があるし、甚だしきは猿であります。
こちらが対抗手段をとろうものなら、動物愛護団体や生き物に優しいと自認している人たちから非難されます。
そうかと言って、害意はないんだと言って聞かせてわかる相手じゃないし、むこうにはむこうの都合があるのだろうから、癪でもとりあえずこちらが避けて通ることにしないとならない。
動物相手では仕方なくとも、他人や国相手となるとそうもいきかねる。
うみのあおにも しまずただよう だけではどうにもならないのであります。
39.シワ
ほんとは皺なのに、昔のことだからと史話なんて。
昔だって皺がよるほど激しかなかった。
で、よく思うのですが、「真実」と「事実」と「解釈」というのが、それこそ混然として使われ、ときによっては思い込みが信念とまでなっていて、改めての検証もしてみないで世に出ているものって多いのではないかと感じることがある。
それが自分頭で考えたものでなく、思い入れや思惑、宣伝や教育などでそのまま刷り込まれてしまっていて疑ってもみなかったことが、いいもわるいも含めて「えっそうだったの?」となっているとしたら、オウムじゃないんだからと、改めて学びなおさねばならぬことの多いことに愕然とする。
脳みそのシワも伸び加減になってるしするけど、こっちのシワはふやさねばならないと思うこのごろです。
40.タバコを買うとき
20年間タバコを1本も吸わないでいたのだけれど、事情があってまた吸い始めました。
どんな事情かと言うと、悪い虫がつかないようにしなくてはならない事態がおこったからです。
オカルトっぽい話ですが、悪霊はタバコが嫌いなのだそうです。
いつでも又やめられると思ったのですが、これがなかなか難しい。
で、やめている間に、タバコ吸いの環境が著しく変わったことに驚きました。
やたら値段が高くなった。吸える場所が制限されて殆ど無いに等しくなった。などなど。
それより不思議なのは、コンビニなどでタバコを買う時、未成年ではないという確認ボタンを押せと言われることです。
本人が未成年ではないと本人がボタンを押すのでは、チェックになるまいに、と思うのです。
子供が買ったって、店の人が許してしまうことだってありうる。
大人びて見える子もいるし、親のお使いで買いにくることだってあるし・・・
41.たんと(沢山)
忘年会の季節になり、お酒を飲む機会が多くなります。
ささ(酒)を"たんと"きこしめすことをながきにわたってくりかへすと、皮膚、とくに鼻の頭が赤くなります。これをサカヤケと申します。
勿論、そこだけ焼けるというわけではなくて、ひたいとひたいのうえ、頬などが猿のようになりまする。
ゆくゆくは肝硬変などといふ恐ろしき病の原因ともなりかねませんので、ほどほどがよろしいようでございます。
毛の生えている頭を剃ると、月代は青くなります。(なんでこれをサカヤキって読むんだろうね?)
そのほかにサカムケというのがございまして、ムクと大抵のものは痛いのです。
「過ぎたるはなお及ばざるがごとし」と申します。
ほしのり にんじんたまごにみかん あおなのなかにも タントあるたんとある
ビタミンビタミンABC~ この歌がわかる人は、かなりの年です。(昔、ラジオからよく流れていました。)
なにがたんとあるかっていうと、ビタミンA 。
しからば、ビタミンBはなんにあるか? こんなん知ってるのは戦後間もなくの小学校に通った年代くらいかも知れません。
42.ツマグロヒョウモン(蝶)
先日、スミレを食う虫の書き込みをしたところ、それはツマグロヒョウモンというスミレを食草とする蝶の幼虫なのだと教えて下さった方がいました。
庭先にも時々は飛来して花々にとまり、ゆっくり羽を開いたり閉じたりしています。
そうなんですか、毒々しい色をした毛虫なのに、蝶の幼虫なんですか。毛虫は蛾になるのだとばかり思っていました。
今更ながらよかったと思うのは、取ってつぶすなどの駆除をしなかったということです。
最近、別に仏心がでてきたというわけではありませんが、滅多に虫などの命を奪うことはしません。
プランターに播いたホウレンソウの芽がでたばかりのところにカタツムリが何匹も集まって、これも丸坊主にされるのですが、これも遠くの草むらに移すだけで潰したりしません。
種を播き直し、イタチゴッコを繰り返しています。
しかしながら感心するのは、コイツラはのろのろしか進めないのに、かなりの距離を移動して、また集まってくることです。
のろのろでも歩いていれば、目的地に着けるということなのでしょうか。
43.ツレの仕返し
鶴の恩返しなら、とてもよいお話なんですけど・・・。
電車内でマナーを注意されたのを恨んで、陰湿な仕返しをする女性がいるらしい。
オンナのうらみいちばんコワイ。
教育的指導をしたことのある人は、混雑した車内では十分注意して下され。
なにをかって?別段殴りかかってくるなんてことはないけれど、"ツル"んでチカンの冤罪をかけられる可能性があるかもしれないってこと。
「わたし、このおじさんに胸をさわられました。」仲間が、「わたし、見てました。このおじさんです。」っていう一昔まえでは考えられないような悪質な手口。
本当の痴漢行為があったのなら、それは取り締まられて当然と思うが・・・
君子危うきに近寄らず、なんてことで公共の場所でのマナー違反から目を逸らしていると、だんだんその手の問題が蔓延るようになる。
なんとかとなんとかは怒し難しっていうじゃん。なに?"ど"がちがうって?
ほんと、だれが悪いんだか、情けない時代になっちゃった。な~に教えてるんだか教わってんだか・・。
最近の大人は勇気ないもんね。
44.どうしろって言うのか?
突然、ふと思い出した。
昔、講談本で読んだ沢庵禅師が柳生十兵衛に出した謎かけ。
佇むな 行くな戻るな居座るな 寝るな起きるな 知るも知らぬも
一体どうしろと言うんだろう?
何事かをしていて、袋小路に入ったように、二進も三進も行かない状態になることがある。
必死に考えても解決策が見いだせないとき、人はどうすればいいのだろうか?
それでも人は、何とか生きて行けるものではあるが・・・
45.なんという
「我が身にかえても」という気持ちを、例えば親であってもすることが少ないご時世と成り果てては、このような情愛が導き出すであろう世の中が現れることは段々になくなっていってしまうのでは・・・。
我が子にでもそうなんだから、国民や国の将来のためになんてことも考えなくなってきてしまっているのかも知れない。
自分の都合が、もっと極端にいえば、自分勝手な感情が何にも増して優先し、またそれを個性として助長してきた中で育ったら、相手を思いやるなんてことは程遠い。
上っ面の、言葉での"やさしさ"なんてのを声高に言い募るばかりで、身をもって教え導く大人が少なくなってしまったのは何故なんだろう。
幼い子供の言動に、優しさを見ることが多いのに、いつそれが失せてしまうのだろう。
お祖父ちゃんが、変なご飯の食べ方をしていた孫に食べ方のお作法を教えたら、「余計なことをしないで下さい」と母親から文句を言われたんだと。
そうです。ご飯のお茶碗は左で、お吸い物のお椀は右なのです。
それはどちらにあっても大した違いじゃないじゃないか、なんてことで見過ごしてはならないものが多くあるのです。
そういう小さなことが、社会に出たときにお互いの関係を滑らかにするルールなのだと思います。
昨日の夕暮れ時、補助輪のついた自転車に乗った女の子を、母親が感情的に口汚く叱責しながら一緒に歩いておりました。
何を怒っていたかというと、少し先の交差点を渡る都合上、道の右側を進めと母親が言うのに、女の子が交通法規を守って左側を行こうとするのが気に入らなかったらしい。
よっぽど注意してやろうかと思ったけれど、後で女の子に八つ当たりするに決まっていそうだったのでやめておいた。母親だけだったらそうはいかないけれど。
46.ホタルブクロ
ちょっと時季外れですが、夏の山野草にホタルブクロというのがあります。
うまい名前がついてるもんですね~。このところ、ネット上でいろいろ勉強になる話を聞くことがが多い。
雄蕊雌蕊、セミへの語変換、虹、蜂の天敵、なかなか教えてくれるところはないから嬉しい。
嬉しいって言えば、旨い汁っていうのを吸えたらそうなのかも。吸うものにはよいものが多い。
チチ、ミツ、ウマイシル、なかにゃ生き血なんて恐いのもあるけど・・・
そこへいくと、飲むっていうのにはいろいろ問題含みなものがある。
飲む打つ買う、でいうところの般若湯、苦汁、青汁(う~マズイッ)、煮え湯、などなど。
健康の為には必要なものもありますだって?そりゃそうでしょう。
私だって実のところ、飲むのも吸うのも舐めるのもみんな好きなんですから。
47.ものを習う姿勢
ある研修会に参加してみました。
講師が一所懸命に講義をしているのですが、その声が聞こえないくらいの声で私語を交わしている人たちがいかに多かったことか。
研修に参加しているくらいなのだから、何か身に着けたいものがある筈なのに、聞く姿勢すらなく周りに迷惑をかけているとの認識もない。
話がしたいんだったら、外で思いっきりすればいいのに。
こんな輩に限って、それ知らない、聞いていない、教わっていないなどという。
いい大人なのに、義務教育の時期に学校でも家庭でも、ものを教わるときのマナーを身に着けられなかった可哀そうな人たちなのだと思いつつも、それですまされていて良い筈がないのだと思えてならず、静かにして下さいと注意した。
ただ、これをすると逆恨みされて何をされるかわからないリスクがある。
ホールで催されるコンサートなどでも、このての輩はいる。
ヒゾヒソ話をする、咳やクシャミをかまわずする、鈴をつけた携帯電話を取り出す等々。
基本的なマナーが皆無では、一生のうちにどれ位のマイナスを蒙るかということを考えたら、疎かにはできないのだと思うのだが・・・
基本を身に着けるのは子供のうちであろうから、親や先生が教えておくことが大事だと思うのです。
48.ライオンの群れに
喫煙ルームに70年配と思しき人が3~4人集まって、楽しそうに談笑していました。
ゴルフの話らしい。
「バンカーからホームランした。」とか
「順調にきたのに、最終ホールでOBを3連発してしまった。」とか、実に和やかなのである。
で、スコアーの話になると、彼らの言うのは「俺はいつでもライオンだ。」と、いずれもが口々にいうのである。
なんのことかと思ったら、「百獣の王」なのだとか。
110にかけて、警視庁とはよく言うが、百獣の王というのには聞いていて思わず笑ってしまった。
若いときには良いスコアーで回っていたらしいが、屈託なく笑い合っているのが清々しく感じられました。
49.挨拶から始まる
挨拶を辞書で引くと、挨拶の「挨」は押す、「拶」は迫る意で、本来、禅家で門下の僧に押し問答して、その悟りの深浅を試すこと、と出ています。
「あい」には、心を開く、「さつ」には、その心に近づくという意味もあるのだとか。
「おはようございます」「こんにちは」「こんばんは」
こんな基本的で簡単な挨拶をすることは、人間関係では当たり前のことだと思うのですが、それがそうでもないらしいのです。
会社や近所や知り合いなど、基盤を同じにしているところはまだしも、面識があっても生活に関わりがないとなると、すれ違っても知らん顔で通り過ぎるということが珍しくもなくなりました。
「知らない人から声をかけられても、相手をしては駄目よ。」と言って育てられた、安心できない社会が現実としてあるから仕方ないのかもしれませんが、他人から信用される第一歩は、挨拶ができるかどうかだという現実も一方にあることを思うと、人としての広がりを安全に保てる社会をどうしたら良いものかと考えてしまうのです。
私の住むマンションでは、エントランスや駐車場で顔を合わせても、殆どの人たちは挨拶を交わしません。私の方から挨拶しても、何人かを除いて、不思議そうな顔をしてソッポを向く人さえいます。
殺伐とした世の中は、こんなところから始まるのかも知れません。
50.家族の役割分担
私が育ったころは戦後まもなくで、どこの家も子供が多く、さして裕福ではないのが普通でした。
家族がお互いを思いやり助け合って、仲良く暮らしているのが伝わってくるような時代でした。
小さな子供でも、家でのできる仕事を分担して、それをすることに疑問も違和感も不満もなく、喜んで手伝っていたものです。
庭先を掃く・風呂の水汲みをする・ヤギやウサギの餌になる草を土手で刈り取ってくる・夜になったら雨戸を閉めるなどなど、できることは言われなくても進んでやりました。
そんなところから、思いやりの気持ちや絆が深まったのだと思います。
そんなの自分の仕事じゃないと、自分の都合ばかりを主張し、自分はまわりから何をやってもらっても当たり前だとしていたら、感謝するという言葉すらなくなってしまいそうです。
エッセイ「普通に考えてみると(十一)」 @SyakujiiOusin
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