1.「バンビーナ」

 正直言って、光井雄二は普通の男だった。当時四十四歳。既婚で、子供が二人。奥さんとは大学の文芸サークルで出会い、十年ほど同棲したのちに空気を読むような形で結婚し、空気を読むような形で妊娠、出産、一年ののち再び妊娠、また出産。両方とも女の子で、中学生。姉妹仲もよく、おとなしく簡素な子達だったという。喧嘩もなく不満もない。たまに家族で光井の実家がある山形へと温泉旅行に出かけ、結婚記念日にはここでもまた子供達が空気を読むようにそれぞれの友人宅へと外泊しに行ったそうだ。八王子の分譲マンション。ベランダ。花の匂い。光井はあまり語りたがらなかったが、わたしはとても穏やかで幸せな家庭を想像した。仕事は都内の証券会社。営業係長だったという。この男のことだ、きっと生真面目に取り組んでいたに違いない。


 ヨリコと出会った日も、十数年来の同僚で友人でもある関口という男と、仕事終わりの一杯の気持ちで新宿歌舞伎町の大衆酒場へふらっと足を運んだそうだ。大勢の人たちが同時に叫ぶような店内のめまぐるしさは、関口をいつものようなへべれけにさせ、光井はそっと携帯をさわって奥さんに「ごめん、朝に帰るよ」とメールを打った。


 終電間際になり、一応通過儀礼的に「そろそろ帰ろう」と言うと、関口は学生時代にラグビーで鍛えた上腕二頭筋を使って光井の腕をグッと引き寄せ「まだ行けるだろ、金曜だぞ」と予想通りだだをこねた。関口と組んだスクラムを思い出しながら、光井は「はいはい」と返事を流した。

店を出ても空気は変わらず不味かった。店外に置かれた大きな水色のポリバケツからずり落ちた可燃ゴミを、一匹の太ったネズミがしあわせそうに突っついていた。光井がその様子に見とれていると、すでに関口が黒服のキャッチに捕まっていて、「おい」と手招きしている。白い息を吐く。トレンチコートのボタンを留めて、光井は歩き出した。


 「バンビーナ」

 オムライスにケチャップをかけたような丸い字体が、そのガールズバーの安っぽさとやる気のなさを容易に想像させた。雑居ビルの上階へと吸い込まれる狭いエレベーターの中、黒服の男が「俺、役者やってるんすよ」と独り言のように呟いた。光井はオレンジ色の電光数字が3…4…とカウントするのを眺めながら「そうですか」と独り言で返し、扉は開いた。

チェーンの牛丼屋のようなコの字型のカウンターの中には、ダボダボのワイシャツを着た若い女たちが数人並んでいた。どこか寂しそうに笑う中肉中背の男たちがつまみにしているのは彼女たちの顔ではなく、シャツから透けた赤や黒の下着だった。とにかく光井と関口は、回転式の傷ついたハイチェアに座らされ、それぞれに女が充てがわれた。光井は、酔ってうまく座ることのできない関口を支えながら、チラッと目の前の女に目をやった。

「ヨリコです。よろしくね」と、彼女は言った。そして、少し遅れて、少し笑った。

「あぁ、どうも」

「その人、大丈夫?」

「いつもこうだから…」

「へぇ、大変ですね」

ヨリコの白くか細い手がライターを握った。光井が咥えたセブンスターに火を点け、小さく会釈した。関口に付いた女は、無心に携帯をいじっていた。

「…どうも」

「…私も一杯貰っていいですか?」

「…あ、どうぞ」

「ありがとう」

そう言って、彼女はジントニックを黒服にねだり、また少し遅れて少し笑った。気が付くと関口は机に突っ伏して眠っていて、光井はようやく自分のお酒を飲む事ができた。特に自分から話す話題も見当たらなかったので、光井はヨリコの話を聞いていた。彼女は昼間やっているビルの窓拭きの話や、最近借りて観た映画の話をしてくれた。「タイトル忘れたけど、ゲイリー・オールドマンが殺される映画だよ」と言っていたが、そんな映画は無数にある。2人は笑った。そして、話を聞くうちに、光井はなんとなくヨリコがどういう人間かがわかった気がした。そして、思いもよらず口にしていた。

「昼間の仕事の時も、そのカツラは外さないの?」

ヨリコは一瞬ぽかんと口を開けたが、それを横に伸ばして笑顔に変えた。

「え、わかるの?」

光井が頷くと、ヨリコは「でもね、これ、ウィッグっていうんだよ」と笑った。

不健康そうな女性が、健康な笑顔を無理やり作っている。光井はそう思いながらへぇと頷いた。

「外すのは、部屋に帰った時だけ」

光井はそれ以上は聞かなかった。横で潰れている関口をちらっと見て、氷で割ったマイヤーズラムをグッと飲み干し、ヨリコに言った。

「もう上がれる?どこか行こう」


2007年の初冬。光井とヨリコは全てを捨ててこの街からいなくなった。



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世界は二人(仮題) 骨男 @bone_man

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