彼女の名残
羽田宇佐
第1話
それは、彼女ではなくなりつつあるものだった。
言うなれば、異形の者。
それでも、目の前にいる“これ”が何なのかと問われれば、志津は『葉月である』と答えるしかない。何故なら、彼女はまだ葉月の意識を残している。そして、志津と意思疎通を図ることができる。
「お願い。あたしをあたしのまま終わらせて」
志津は、葉月の何度目かの願いに首を横に振った。
放課後の教室。
茜色の空から分け与えられた赤が差し込み、机や椅子を照らしている。窓は閉め切っているから、風はない。それなのに、寒気がして志津は肩を震わせた。そして、体の揺れを止めるように手を握りしめ、ナイフを握っていることに改めて気がつく。上履きは、葉月の血で濡れていた。
鱗に似た何かや棘のようなものと引き換えにした血を流しながら、葉月のようなものが近づいてくる。夕焼け色と血痕が混じり合い、床に不穏な色の塊を作り出す。
葉月のようなものの手が伸びてきて志津は後ずさるが、腕を掴まれる。誰の席かはわからないが、机に当たり、ぎぎぃと嫌な音を立てた。
整然と並べられていたはずの机と椅子。
その大半は、志津の心を映し出したかのように乱れていた。
*** *** *** ***
授業がすべて終わってから、一時間ほどが経っていた。志津は葉月の机に腰をかけ、大きな欠伸を一つする。殺風景な教室に彩りを与えていた生徒たちはほとんどが下校し、見るべきもののない広々とした空間を志津と葉月の二人で占有していた。
「明日、数学の小テストあるんだっけ」
両手を上へ伸ばしながら、志津が尋ねる。伸びきった腕がだらりと下がり、後ろでまとめた志津の髪が揺れるのを見てから葉月が答えた。
「忘れてる。英語も小テストあるよ」
「ええー」
志津が悲鳴に近い声を上げ、足をばたつかせる。チェックのスカートがひらめき、健康的な色の肌が見える。
「今から勉強する?」
椅子に座っている葉月が鞄の中からわざとらしく数学の教科書を取り出し、志津の太ももをぽんと叩く。教科書が触れただけなのに志津は大げさに足を押さえ、がらんとした教室に笑い声が響いた。
「英語はまだわかる。でも、数学って人生のどこに役立つのかわかんないのに、どうしてこんなに勉強しなきゃいけないの。足し算、引き算、かけ算、割り算くらいでよくない?」
「役に立つからやるわけじゃないし、仕方ないじゃない。それに、とりあえず受験勉強には役立つし」
ブラウスのボタンを生真面目に一番上まで留め、ネクタイをかっちりと締めた葉月が真面目な顔をして答えた。そして、トレードマークとも言える長い黒髪をかき上げ、椅子の背もたれに肘を置き、もたれかかる。志津は、葉月とともに窓の外を見る。窓から差し込む赤みがかった光りが、葉月の白い肌を照らしていた。
「それはそうだけどさあ。もう、空を飛んで数学から逃げたい。どこか違う国にでも行って、明日学校休みたい」
志津が葉月の手から教科書を奪い、大きなため息をつく。
必要がないと言えば、必要のない会話。昨日見たテレビの話や出来たばかりのスイーツの店、ときにはテストの点数といった些細な話で盛り上がる。放課後はいつもこんな具合に、志津は葉月が飽きるまでとりとめのない会話を楽しんでいる。
「本当に空を飛べたらいいのにね」
志津が数字が並んだ教科書をぺらぺらとめくっていると、静かに葉月が呟いた。暗号のような数式が記された教科書を机の上に置き、志津は葉月を見る。
葉月の血管が透けて見えそうな白い肌が今日はいつもより青白く、志津は思わず手を伸ばした。頬にそっと触れると、葉月が薄く笑う。口角が上がるというよりは口元が歪んで見えて、志津は頬に触れた手を自分の胸元へと引き寄せた。
「飛べたら、どこに行きたい?」
志津は、会話を繋ぐためだけに言葉を紡ぐ。
「家じゃないところ」
「……相変わらず、親と上手くいってないの?」
「まあね」
感情のこもらない声で葉月が答えた。
葉月につきまとう“製薬会社のお嬢様”という肩書き。彼女の父親は、地元どころか全国的に有名な製薬会社の社長だ。葉月は高校生なら欲しいものを何でも持っていたし、望めば大抵の物が手に入る立場にいた。自由がないという以外は、何不自由ない生活を送っている。
難しい顔をしている葉月を前に、志津は困ったように笑う。彼女が一番欲しいものは、自由だと志津は知っている。そして、その自由を満喫するために、放課後を無為に過ごすというささやかな抵抗に付き合っている。
「二人で、どこか遠くに行けたら良いのに」
コツン、と上履きで床を蹴り、葉月が言った。
「今は無理だけど、大学行ったら一緒に旅行しようよ。私、バイトするしさ」
「今すぐじゃないと駄目だって言ったら?」
「お財布的に無理」
「そっか。そうだよね」
「あと一年とちょっと。卒業するまで待ってよ」
「ごめん、待てそうにないかな。――だから、今すぐ殺して」
「え?」
平穏な会話に混じった不穏な言葉に、志津は思わず葉月に視線を向け、声を上げた。けれど、葉月はその声を聞かなかったかのように話を続ける。
「心臓にナイフを刺してくれたらいいから」
「その冗談、笑えない」
「冗談じゃない。自分で死のうとしたけど、無理だったんだよね」
葉月の視線は、床を捉えている。だが、その声も顔も真剣そのものだった。青白い肌はより一層青白く見え、志津の脳裏に顔面蒼白という言葉が浮かぶ。葉月はすでにナイフで刺され、いくらかの血液を失っているように見えた。
「真顔で冗談言うの、やめようよ」
予習、復習を欠かさず、校則を破ることもない。葉月は真面目を体現したような性格だったが、冗談を言うこともある。だから、志津はこれが冗談であることを願った。
しかし、葉月は志津の期待を裏切り、高校生には相応しくない言葉を口にし続ける。
「あのね。志津が殺してくれないと、いろんな人を殺すことになるんだ」
「意味、わからない」
「もうすぐ、あたしはあたしじゃなくなる」
「今日、どうしたの?」
頭が痛い。
風邪を引いた。
目眩がする。
何でも良いと志津は思う。とにかく、葉月がどうかしていることを確かめたかった。何か理由があって、悪い冗談を言っていると思いたかった。だが、葉月の態度は変わらない。
「どうもしない。全部本当。だから、真面目に聞いて」
床を見つめ続けていた葉月が視線を上げ、志津を見る。お互いの目が合い、葉月が口元だけを動かし、微笑んだ。
「あたし、お父さんの実験台にされてる」
朝食のメニュー、あるいは教科書の一文を読み上げるような機械的な口調で葉月が言った。
「実験台?」
「何の実験かはあたしも知らない。それに、どうでもいい。失敗したみたいだから」
葉月が用意された台本を読むように言葉を続け、立ち上がる。志津はつられるように机の上から降りると、葉月の前に立った。
「それ、信じろって言っても無理だよ。だって普通、親が娘を実験台になんてしないでしょ。そもそも、実験って動物か何かでするものじゃん」
「お父さん、普通じゃないから。おかげで、あたしはもうすぐ何かに変わる。何かはわからないけど、なにか良くないものに。そうお父さんが言ってた」
「――嘘だよね?」
現実に起こるとは思えない出来事を並べ立てられ、志津は大きく息を吐き出す。与えられた情報は頭の中で絡まり合い、それが正しいものなのか判断出来ずにいた。ただ、葉月の口調は嘘を言っているとは思えないもので、志津の心はでたらめとしか思えない言葉を信じようとしている。
「嘘なら良かったんだけどね。本当だから、これあげる」
葉月が数学の教科書を出した鞄から、ナイフを取り出す。志津は首を横に振ったが、葉月に手首を掴まれ、手のひらに強引にナイフを押しつけられた。
鈍く光る長い刃。
志津が手にしたナイフは、果物ナイフのような可愛いものではない。人を刺せば、簡単に心臓を貫きそうな刃渡りのナイフだった。
「何かに変わっても、心臓が止まれば死ぬでしょ」
乾いた声で葉月が告げる。
「さっきからね、体が変なんだ。だから、あたしがあたしのうちに志津があたしを殺して」
「無理だよ。それに、人間が何か別のものに変わるわけないじゃん」
志津はぶんっと首を横に振り、手にしたナイフを返そうとする。だが、葉月は受け取らなかった。
「言わなくてもわかってるだろうけど、心臓はここ」
そう言って葉月が、とん、と胸の真ん中よりやや左を指さす。
「むりだって」
「志津にしか頼めない。お願いだから、あたしをあたしのまま終わらせて」
葉月が懇願するように言い、それと同時に、みしり、と何かが軋むような音がする。耳に残る湿り気を感じる音に、志津が辺りを見回す。音の発生源は近く、志津はすぐにその音が何なのかわかった。
葉月の足が裂けていた。
流れ出る血の奥に、折れかけた骨と鱗のようなものが見える。
そして、足はさらに裂け、キラキラとした鱗のようなものが次から次へと生えてくる。
志津の呼吸が一瞬止まる。慌てて、足りなくなった酸素を補うように息を吸うと、喉がひゅうっと鳴った。
*** *** *** ***
志津の腕を掴む、葉月のようなものの手。
過去に人間であったもの、というべき姿になった葉月が口を開く。
「今なら、空が飛べるね。翼があるし、どこへでも行ける。あたしを殺さないと、志津をさらっちゃうよ」
鱗に似た何かに覆われた足。
鋭い棘のようなものに覆われた腕。
そして、背中には血に濡れた白い翼。
それは、ミシミシと嫌な音を立てて背中の肉を破り、服を裂いて最後に生えた大きな翼だった。
「いいよ。葉月となら、一緒に行っても」
「台詞、間違ってる。志津、あたしを止めてよ」
そう言った葉月の目は、血の色に染まっていた。人とはかけ離れた赤い目が縋るように志津を見る。
十分ほど前はいつもと変わらない教室だったはずなのに、今は夕陽が作り出す赤と葉月が流す赤に染まっていた。翼は、葉月の命を形作っている血液を確実に奪っている。背中から流れ出る液体が、水道水の気軽さで床を濡らしていた。
流れ出てしまった血液は、彼女の中に戻ることはできない。今となっては、ペンキやトマトジュースと同じようなただの赤い液体だ。
志津の腕を掴む葉月の手に力が入る。骨が軋むほど強く握られ、葉月の腕を覆う棘が皮膚を刺す。ぐいっと引き寄せられて、もう一方の手が志津の首を掴んだ。
「自分じゃ、止められないの。このままだと、志津が死んじゃう」
血だまりの真ん中で、葉月が顔を歪める。それでも、志津は握ったままのナイフを葉月に突き立てられず、痛みに耐えていた。
「志津は、いつだってあたしの言うこと聞いてくれるじゃない。だから、今日もあたしの言うこと聞いて」
製薬会社のお嬢様である彼女の我が儘は、今始まったことではない。今日ほどの無理難題を押しつけられたことはないが、志津はそれなりに彼女の気ままな願いを叶えてきた。彼女が他の人には見せない自分勝手とも思える振る舞いを許してきた。
それでも、今日の彼女の願いは叶えることができなそうで、志津は無理だと小さく答える。
「多分、もうそんなに時間がないと思う。志津にしか頼めない。だから、お願い。あたしが志津を傷つける前に、なんとかしてよ」
そう言いながらも、葉月が手に力を込める。掴まれた志津の首は絞まり、呼吸が上手くできない。突き出た棘が刺さり、血が流れる。それでも志津は、葉月にしか聞こえないような掠れた声で「できない」と告げた。
教室に消える言葉に、葉月が首を振る。そして、長い髪を揺らして獣のように唸り、志津の首から手を引き剥がした。
「できなくてもなんとかして。あたしは、あたし以外になりたくない。そんな姿、志津にだって見られたくない。だから、酷くても、恨まれても、それでも志津に頼みたい。あたしのすべてが変わってしまう前に、あたしがあたしでいるうちに、あたしを終わらせて」
葉月が顔を覆う。
こめかみの辺りがひび割れ、流れる血と共に何かが生えてくる。
志津の目の前にいるのは、彼女の形をかろうじて残し、彼女ではなくなりつつあるものだった。
きっと、顔も声ももうすぐ失われる。
志津は、手にしたナイフを構えた。
「死なないで」
志津の口から零れ出た言葉に、葉月が顔を見せる。
かつてしなやかだった手で、とん、と胸の真ん中よりやや左を指さす。
抵抗があった。
肉を突き刺しても、刃は簡単には進まない。
志津は体重を乗せて、葉月に寄りかかるように刃先を沈めていく。
手には、温かな液体。
赤い、赤い彼女の血。
刃先を進めていくほどに、葉月が終わっていく。
「あ、りがと」
最後の言葉が告げられ、志津はナイフから手を離す。志津の目にはゆっくりと、だが、実際にはあっという間に葉月が崩れ落ちた。
終わってしまった葉月を前に、窓の外を見れば、今日という世界が終わりに向かって行くことを告げる赤い空が志津の目に映った。
いつもなら、夕焼けが綺麗だと言ってくれるはずの葉月はもういない。今の志津には赤い空も、教室も、ただの味気ない空間にしか思えなかった。
涙は出ない。かわりに、手の骨が軋んで痛かった。葉月が傷をつけた腕や首から血が流れ出ていて痛かった。
胃の辺りがむかむかして、志津は胸の下をぎゅっと押さえる。
どういう仕組みか、血だまりに倒れた葉月が少しずつ消えていく。
最後に残ったのは、赤く染まった羽だった。
彼女の名残がたった一枚、血だまりに残っていた。
彼女の名残 羽田宇佐 @hanedausa
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