最終話

長谷凛一とランスロット・ザラが別れた3年後。1923年、9月1日。関東大震災が燦然名花もある色町を襲った。被害は膨大。種子から花芽へと成長した水人が死亡した。

生き延びたランスロットは震災を機に、母国の英国へと戻る。

時は流れ、1941年、12月8日。太平洋戦争、勃発。日本国で民間人およそ39万3千人が犠牲となる大きな戦争だった。その内に、恐らく懐かしい燦然名花の面々が含まれているだろう。心が痛み、胸が張り裂けそうだった。



「すみません。店先のひまわりを4本ください。」

低くざらついた落ち着いた声が響く。

最寄りの駅を降り、駅前の花屋でひまわりの花を買い求めた。思い出の花。きっと凛一も喜んでくれるはずだ。

暑い、暑い8月の昼下がりだった。商店街は人がまばらで、時折軒先の風鈴がチリンと鳴った。

角を曲がり、橋を渡って、坂道を上る。振り返ると眼下に透明に近い蒼の海が広がっていた。カモメが鳴き、ゆっくりゆっくり上昇気流に乗って飛んでいる。風が吹くと僅かに潮の香りが鼻腔をくすぐった。さわさわと音を立てて、道端の花は揺れている。湿気を含んだ空気は夕立を予想させて、瑞々しい。神谷いつきは深呼吸をする。肺に空気が満ちて、束の間清々しい気分を味わった。今日はとてもいい天気で、久々の逢引きには都合がいい。

ランスロットは手にしているひまわりを改めて持ち直した。ひまわりは太陽の光を燦々と浴び黄色の花弁を身に着けて、元気よく葉を空に伸ばしている。

時折通りすがる人とあいさつを交わし、ざり、と砂利道を踏みしめて歩いて行く。吸い込まれそうな蒼穹に入道雲が描かれて、細く伸びる影と風になびく若葉の気配が夏を語った。

途中、神社の木陰で休む。持参した水筒のお茶を飲んだ。氷で冷えたお茶が、喉を通り胃に溜まっていく感触が味わえた。溶けかけたキャラメルを一つ口に放り込んで、ランスロットは立ち上がり背伸びをした。

「天気いいなあ。」

朱色の鳥居と、お稲荷さんの石像が木漏れ日に当たりちらちらと輝いている。

春夏秋冬、四季をどの位廻ってきただろう。最初の頃は只々、呆然と過ぎていく日々だった。それでも生きていれば、お腹もすくし、眠くもなるし、人を愛したくなるのだ。

凛一と歩いた名前のない道。あのまま立ち止まらずに歩いて行ったら、一体どこへ辿り着いたんだろう。きっと凛一と一緒だったなら、どこまでも行けたんじゃないかな。10年後、20年後。俺はどういう風に思い出すんだろう。

「―…。」

歌を口ずさむ。小さな声で、おぼろげな凛一が好きだった曲。それでも君と一緒に歌っているかのような錯覚を覚えるから、歌わずにはいられないのだ。

ランスロットは再び歩き出した。神社を通り抜ければ、目的地はすぐそこだ。

君―…、長谷凛一。

凛一は俺の隣にはいない。

「よいしょ…っと。」

ランスロットはひまわりと水の入ったバケツを、凛一が眠る墓標の前に置いた。

「久しぶり、凛一。中々来られなくて、ごめんね。」

墓標に話しかけながら、ランスロットは墓前の掃除を始めた。きつく絞った手ぬぐいで墓を綺麗に磨き上げて、周りの雑草を抜き、目の前の通路を借りた箒で掃いた。掃除は好きだ。目に見えて成果が出るし、心も整理整頓できるから。純粋な気持ちで凛一に出会えるから。

熱い日差しを浴びながらの作業になってしまったため、終わるころには全身汗だくだった。

ランスロットは墓前で凛一が好きだったお香を焚き、手を合わせた。真っ白な大理石で出来た凛一の墓。綺麗だと思う。凛一みたいだと、思う。

戦後、ランスロットはもう一度日本に渡った。年齢を考えると、恐らく永住の地になるだろうことは覚悟していた。

震災を免れた凛一は前を歩く若旦那の奥さんを庇って事故にあったらしい。

対向車線の車が居眠り運転で正面衝突を避けるために、凛一たちがいた歩道に車は突っ込んだ。凛一は咄嗟に奥さんを押しのけて、自らが車と電信柱に挟まれたのだ。その時、若旦那の奥さんは妊娠していたらしい。

「凛一が守った赤ちゃん、大きくなったよ。手紙が届いていた。」

凛一の墓に花を手向けていたところを奥さんが気付き、ランスロットは彼と親友だと話していた。

ランスロットは墓標に話しかけた。ざあ、と風が通り抜ける。ランスロットの白髪の混じった金糸の髪の毛を撫で、ひまわりの花弁を揺らした。ふわりとお香の香りが広がる。ランスロットは目を細めた。

「早いね。写真も入っていた。美しい淑女に成長していた。」

成人式の振袖を着た女の子。凛一が残した命。

君が死んだとき、この命があることを本当に嬉しく思った。この子の成長で、俺は生きていけると思った。

どんな「さよなら」にも意味があると、凛一はうたっていた。そばにいる事だけが、愛ではないとも。

だけど。

「…会いたいなあ、凛一。寂しいよ…。」

いつかは別れる命としても。凛一を思い出にするには時間が掛かり、傷が癒えるくらいならずっと血が流れていればいいと思う。痛ければ、ずっと原因を忘れないはずだ。

「寂しい、よ。」

枯れ果てたと思った涙が再び溢れてきた。頬を伝い、顎から雫がしたたり落ちる。熱くて、サラサラとした涙だった。

しゃがみ込んだ膝を抱えて、ひたすら耐えた。立ち上がるころには、君に笑顔を見せられるように。

「…帰るね。またくるよ。」

夕暮れの来た道を引き返す。駅で電車に乗って、自分の家族が待つ家へと。

夏を迎える度に、凛一の事を思い出す。最初はずきりと痛んだ傷。この先ずっと、ずっと抱えていく傷痕。いつの日か、笑って向き合える時が来るのだろうか。

その日の夜。ランスロットはレコードを聴いていた。静かに流れ出る甘い旋律がランスロットの鼓膜に響き、束の間母親の胎内、羊水に浸かっているかのように錯覚した。

夕食後の満腹感と果実酒のアルコール。心地良いノクターンに浸り、ランスロットはとろとろとソファに座り背もたれに寄り掛かって眠ってしまう。


白い靄の中をただ歩いていた。手を伸ばすと、少しだけ霞んで見えるほどの霧。これは夢だという自覚があった。この先に行けば会えることを知っているから、決して怖くはない。

「…凛一…?」

金色の光を見つけて、声を掛けた。そこにあったのは恋しい、愛しい、凛一の姿だった。

凛一は微笑んで、両手を広げてくれる。だから、迷わずその手を取るのだ。

「会いたかったよ。」

凛一は笑って頷いてくれる。

愛しい時間、優しい過去。広く大きい閃光。本当に光の速さで、駆け抜けた生だった。

君が存在してくれて、本当に嬉しいと思う。蝶々雲を追いかけた日々が懐かしい。ずっと、ずっと―…一緒にいたいと、心から。

「…このまま、一緒に連れて行ってくれないかな。」

ランスロットの弱気な言葉に、凛一は少し瞼を大きく開けた。

そして、首を横に振る。

「じゃあ、後を追ってもいい?」

また、首を横に振る。

「…どうしても、ダメ、かな。」

頷きが一回。

「泣かないで、凛一。」

凛一の瞳は涙が湛えられていた。

新しい明日が来てしまう。嫌だ。嫌だ。嫌だ。誰が泣いているのか、わからなくなってしまう。

久しぶりに見る凛一の姿は、とても穏やかで、安らかで、優しいものだった。

それはたくさんの愛を受けた証のようだった。


目が覚めると、部屋の海のように青かった。夜明け前の一番暗い時間帯。家の前を通る車のライトが時々、部屋の中を淡く照らした。それは、ランスロットが生きる世界を照らす灯台の光のようで少し悲しかった。

ランスロットはソファから起きて、ベランダに続く窓サッシをカラカラカラと開けた。建物の隙間が少しずつ明るくなってくる。眼下にはジョギングをする人や、新聞配達のバイクの音が響いていた。電信柱には、番いのキジバトがくーくーと歌っている。

「…好きだよ。また…会えるって信じていていいかな?」

ランスロットは胸に抱いていた遺影の凛一の頬を撫でた。冷たくて、固くて、少しザラつく。

凛一がよく歌っていた歌を口ずさんだ。それは、きっとすてきな恋の歌だ。


ランスロットはいつも自慢していた。

『俺には家族愛とか友愛だとかを超えて、好きな人がいる。ずっとその人が好きなんだ。』

あの梅雨の頃。互いを愛し、慈しむ関係を育むことができて本当によかった。―…命が尽きるその日まで。君のそばに心だけでもいられたら、よかったのだけれど。


温かい雨の降る、初夏。場所は病院。ランスロットは今、数々のチューブで身体に繋がれていた。

傍らには、友人や家族たち。

やがて周囲の音や景色は遠ざかり、代わりに聞こえるのは懐かしいあの声。

『ランスロット。』

淡く、甘く。死を覚悟している筈なのに見せた、あの時の笑顔がようやく迎えに来てくれる。柔らかな光を伴い、周囲は真っ白になっていく。

凛一…。

生まれて、生きて。愛して、別れ。

果てしない時間を寄り添いながら、死を迎える。


やっと。


やっと、会いに行ける。



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花屠りて沈む、羊の水。 真崎いみ @alio0717

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