第6話 エロティシズムの宇宙論
男は両手を後ろ手に縛られていた。固い地面の上に座っていたが、いつからこうしていたのか、なぜこんなことになったのか、ここはどこなのかは、さだかではなかった。ただ、これが必然的帰結であることだけは理解していた。これのほかに、自分に相応しい結末はありえないということだけは。
あたりは闇だった。だがここが野外ではなく、ごく狭い空間であることを、男は、音の反響で知っていった。
気温は低く、男はひどい薄着だった。それを自分で着たのか、着せられたのかは、さだかではなかった。手足の先端の感覚は失われて久しかった。失われたのは感覚だけではなかった。二十の爪がすべて剥がされ失われていた。二十の傷口から血が、男のなけなしの体温を奪いながら流れ落ちていったが、やがて指全体が凍傷になることで自然に止血された。
助けを呼ぼうにも舌は押し込まれた布に絡みつかれていた。
それに、助けなど呼んではいけなかった。そんな気がした。
当然のむくい。
そんな言葉が、水流が生む泡のように浮かんでは消えた。
なんのむくいなのか。
おれは一体なにをしたのか。
記憶は曖昧で、闇の温度は上昇したと思えばすぐに下降した。
今は、どんな気候であるのか、ここがどんな国なのか、男には想像すらできなかった。
そばに何かがいた。
男はそう感じた。それは男に密着していた。あまりにも近いから、長らく気配がなかったのだ。まるで男自身の皮膚であるかのように近く、何も言わず、ただ男の体を舐めていた。最初は心地良かったが、だんだんとむず痒くなってきた。ついには痛みをおぼえて、男は呻いた。だが声はほとんど出なかったし、かすかな音は、口の中の布がすべて吸収してしまう。
人ではない。
ようやく男はそのことに気がついた。それは小さかった。小さいものが、いたるとことにいて、男の全身を舐め、男の骨から肉をこそげ落として血を啜っているのだった。歯や牙など、凶暴なものを持たないそれらは、ただ舐めることしか出来なかった。しかし、いくら微小な力でも、執拗に続けることで、大きな力に変じる。か弱い水滴が、岩をも穿つように。
ある時、微小な舌が、一斉に神経に達して、男は苦痛に苛まれた。
何故なんだ?
何故こんなことになった?
どうすればここから出られる?
いつまでこうしていればいい?
問いかけに応えるものはなかった。微小なものが半ば神経を食い尽くした頃、男はそれを快楽だとみなした。ただし彼の生殖器官は原型をとどめていなかったし、ほかの器官も溶けやすい部分から消失しつつあった。眼球が消え、脳がなくなり、心臓も肺も、固形燃料が焼けるようにじわじわとなくなって、残された快楽は概念だった。それはもう消えることがなかった。どころか、男の身体が消えるにつれ、増殖していった。
みしり。
不気味な音がして、男の周囲にある闇が、男の内側へと侵食した。衝撃で、微小な舌も、男の身体から投げ出されたり、ずれたりしたが、それらはまた、別の場所を飽かず舐め始めるのだった。
これは……空気ではない。
おれのまわりにあるのは土だ、と男は察した。
この闇は、地中の闇だ。
では、いやらしくおそろしい、微小な幾千の舌だと感じたのは、
時間か。
やっとわかった。
男は座っていたのではなかった。
埋葬されていたのだった。
それは、生きたまま埋められて、死んだことによって目覚めた人格だった。
では、おれが救われることはない。
未来永劫。
腐肉を破り、また土が、いくらか男へとなだれ込んでいった。面倒臭がりの女のようにだらしなく寄りかかってきて、眼窩のくぼみや歯の隙間、肋骨のあいだに入り込んでいく。
埋葬地の上空は、ちらちらとまたたいていた。一瞬のうちに日が昇り、傾いて地平線に落下する。その繰り返しが、空を恒星のようにちらちらとまたたかせていた。
五十六億七千万年後、この星の地表に激突し、その業火で彼を救う弥勒は、今はまだ、別の銀河を過っている。
みしり。
また不気味な音がして、男はまた少し闇に侵食された。
周囲の水分が凍結し、時の舌先から、しばし男を遠ざけたものの、それは男からあらゆる記憶を忘却させもした。
五十六億七千万年後、彼がこれらを思い出し、彼の存在そのものが消えてしまうまでの一瞬を、ひとは刹那と呼ぶらしい。
(了)
With the Lights Out 鳥dori @tori-dori
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