眉に唾をつけましょう ~ 不毛な努力
小石原淳
第1話 髪の毛一本、残してはならぬ
車へ一旦引き返し、必要な物を揃えてから戻るとする。
私、
ゴム手袋――介護用の薄いタイプ――をしっかりとはめ、手肌に充分にフィットさせる。馴染んだところでさらにはまり具合を確かめた。それからきつめのマスクで鼻と口を覆い帽子をこれまた深くきつく被った。車を降りると、あの家に向かう。
玄関で靴を脱ぎ、殺人現場となったばかりの部屋に再び足を踏み入れた。作業に取り掛かるとしよう。
まず、わずかながら開いていたカーテンを完全に閉めた。
ここは平屋建ての一軒家。周囲に高い建物はマンションが一棟。名称はスカイハイツ、可能性は高くないがあそこから目撃される恐れがある。カーテンは厚手の物で、視線の入る余地をこれで遮断できた。
そして頭の中のチェックリストを開く。それに従い、証拠隠滅を図る。
まずは毛髪だ。
この家のところどころに、髪の毛が落ちているのは問題ない。ここを時折訪問していたことは、多くの知り合いが知っているだろうから。
見逃してならないのは、死体の上にある髪の毛。このままにしておいては、殺害後に上から毛が落ちたことになり、その毛髪の主が第一容疑者と目されるのは当然の理屈だ。
フローリングの板間に横たわるのは
時間的余裕はどれくらいだろう。幸い、衣服の色は暗い系統じゃないので、黒い毛髪なら比較的見付け易い。それでも、どんなに遅くとも、外が明るくなる前には終わらせねばなるまい。すべきことは毛髪の回収だけでなく、他にもあった。
かなり時間を要したが、完了したようだ。
集めた毛髪は、ナイロン袋の底が少し黒くなるくらいあった。多分、死んだ理津子の毛髪も混じっているのだろう。区別のしようがない。だが、問題あるまい。自分は証拠を消し去るだけだ。
次に私は、テーブルに目をやった。使ったまま出しっぱなしのガラスのコップがある。一つは理津子の使った物だからそのまま放って置いてもいい。
もう一つが重要。目では分かりづらいが、唾液や指紋がとくと付着しているはず。
念入りに洗ってもいいのだけれど、はめた手袋を外して、再度はめるというのが面倒に思えてきた。かといって手袋をしたまま洗えば、滑らせて落とすかもしれない。割れてしまったら最悪だ。破片の回収にまた手間が掛かる。
結局、コップをそのまま持ち去ることにした。こうした方が時間の節約にもなる。
続けて注意を向けたのはトイレ。いつ使ったか分からないが、理津子が掃除を怠っている可能性は皆無とは言えまい。汚物入れをチェックする。使用後間もない物は全て持ち去る。新しい物からDNA検出・個人特定されれば、それが殺人容疑と結び付けられるかもしれないからだ。用心に越したことはない。
他の部屋も見て回り、くずかごを調べる。鼻紙やメイク直しに使ったウェット系のシートはないか。あっても古ければ問題はないろうが、少しでも新しく感じられれば置いてはおけない。持ち去るとしよう。
時計で時刻を確かめる。想定していたほどには時間は掛かっていない。そこで再び毛髪を探す。今度は玄関の土間や、そこから続く廊下を中心に。
頃合いを見て、仕上げに掛かった。素手で触ったであろう箇所を、布で強く拭いていく。指紋を残しては元も子もない。
特に注意したのはスイッチ類だ。中でも電灯は一度消して、隠れていた部分もよく拭き取った。
これでいいだろうか。完璧でなければならないが、完璧かどうか分からない。予定していたことは全てやった。それ自体は満足しているけれども、結果に自信を持てるまでには至らない。
だが、どちらにせよこれまでだ。タイムアップが近い。
最後に一番肝心な作業をする。私は渡部理津子のそばにしゃがみ込むと、絞め跡の残る首に、手を掛けた。ついで、左右の腕にも。
――これで予め考えたことは全部成し遂げた。ちょっとほっとする。マスク下に熱い息が籠もっている。
が、まだまだ気は抜けないのだと、緊張感の維持に努める。殺人現場から出ていくところを見付かっては、何もかもが水泡に帰してしまう。
* *
刑事の
「大したもんですな。ネットの仕事は儲かるらしい。エントランスホールなんか、まるでホテルか劇場だ」
「確認が取れました。お会いできるそうです。ご案内します」
「あ、どうも」
正面にあるカウンターにいた受付嬢?の一人が、さっきから応対してくれている。アポイントメントなしの訪問故、つっけんどんに追い返そうとされてもやむを得ないなと覚悟していたが、これまでのところ非常に好感が持てる。
エレベーターで、遙か上階を目指す。普通の物よりも加速度がきつい気がした。着いた先で降りると、肖像画が目に飛び込んでくる。いや、写真か。スキンヘッドの若い男がジャケットをノーネクタイでラフに着こなし、やや右を向いている。その小さな笑みには自信が溢れており、成功者のイメージそのものだ。実際、いい物を食べて健康的に暮らしているのか、肌の艶もよい。それでいてしっかり鍛えているらしく、筋肉の盛り上がりを感じさせる胸板の厚さを誇っていた。
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