藤の花の下で君に 3
ヤウデン様式の回遊式庭園を過ぎると、今度はルクウンジュ形式の庭園が広がる。
ルクウンジュの庭園の形式も様々あるのだが、山林をイメージして造られていた回遊式庭園との対比を楽しませようというのか、ここは手入れをされた芝生の横を、緩やかな傾斜を持って石畳の小径が通され、その小径を挟んだ芝生の反対側には見事なボーダーが造られていた。
この庭園は、年中花々や様々な植物の葉が色鮮やかだった。
石畳の坂を上り、小さな丘を越えた先にその花はあった。
薄紫色の藤の花は、先程ロウデスハウスの横で見たものと同じであるし、藤だけならロウデスハウスのもののほうが見事だ。だがこちらの藤は、藤の木が別の木に絡みついて、その木の花と共に調和の取れた素晴らしい姿を見せることで有名だった。開花の時期が藤よりも半月ほど遅いその花と、藤の花が一緒に楽しめるのはほんの僅かな期間だけである。
こちらに来る前にテレーズは心配したが、幸いその木の花も咲き始めていた。
二種類の花を目にした途端、ハツキはテレーズを追い越し、小走りに丘を下って木の傍に行った。そして、ズボンのポケットに両手を入れたまま歩いて坂を下るテレーズを、花の下から振り返ってきた。
その表情は、まるで宝物を見つけたような満面の笑顔だった。
「この取り合わせは初めて見たよ! 素敵だね!」
「だろう? 俺も好きなんだ」
黄色と薄紫色、同じような房状の、だが色が異なる二種類の花が咲く場所だった。
黄色の花は金鎖、こちらはルクウンジュ原産の樹木であり、これにつる性の藤の木が絡みつき、まるで一つの植物であるかのようになっている。
満開の紫藤の中、金鎖の花はまだ少なかったが、ハツキの気を惹くには充分だったようだ。
ほっとしながら、テレーズも花を見上げるハツキの横に立って、黄色と薄紫の花を見上げた。
「来週の方が金鎖の花ももっと咲いていて良かったのかもしれないけどさ……でも今日、おまえに見せたくなったんだ」
そう言いながらハツキに視線を向けると、彼もこちらに目を向けてきた。その顔に緑の葉影が落ち、翠の瞳が更に深い色に見える。
「ヤウデンとルクウンジュの花が混じって、何となくベーヌみたいでもあるだろ?」
「もう」テレーズの言葉を聞いてハツキは苦笑し、握った手の甲でテレーズの胸元を軽く打ってきた。
「そんなこと思うの、きっと君だけだよ。これを造った人もそこまでは考えていないって……でも、本当に見事だね」
王立学院の庭園は、学院創設当初の規模は現在ほどではなかったらしい。設立以来数百年をかけて整えられてきたものだ。
木の大きさからして、この藤と金鎖も、自分達が生まれるずっと前からここに植えられているに違いなかった。背景の緑の木立や、木の下に広がるボーダーの花の色と共になって作られる景色は、一朝一夕のものではない。
何かが取り立てて突出しているのではなく、全体で一つに纏まって美しさを作り上げている。
──何だ。ベーヌじゃない。
まだ少ない金鎖の花を確かめようと、花を見上げながら木の下をうろうろとしているハツキを見ながら思った。
──ヤウデンとルクウンジュを内包する、ルクウンジュ生まれの翠玉、おまえに似ているんだ。
テレーズの思いも知らず、熱心に花を観察していたハツキが、とりあえず見渡せるところは確認が済んだのかテレーズへ視線を戻し、首を傾げながら苦笑を浮かべた。
「君の見立ては正しいね。金鎖はまだ蕾の房が多い。これが満開になるのは、君の言う通り来週だろうな」
だったら来週、彼とまたここに来たいと思った。
それだけではない。
来週だけでなく、ここだけでなく、何時でも何処へでも彼と一緒に行きたい。
おそらく今日のように約束をすれば彼は受けてくれるだろうし、それを続けていられる関係ならば、別に言葉にする必要はないだろう。テオドールやユージェーヌ、彼らも気がつけば一緒にいるようになっていただけで、特別誰かが何かを言った訳ではない。
でもきっと、それではハツキには伝わらない。
彼にとって、テレーズが他の人間とは違うと理解出来ていても、それが何であるのかはちゃんと言葉にしなければ、今までそれを持たなかったハツキに解るはずがなかった。
そして。テレーズはハツキに、テオドール達と同じような関係を求めたいのではなかった。
もっと近しくなりたい。
もっと彼のことを教えてもらいたい。
自分のことを知ってもらいたい。
──その視線を、自分のものにしたい。
「ああ。二種類共が満開になっている景色は見応えがあるぞ」
だから、彼に伝えたい。
自分が気になる相手に、面と向かってその言葉を口にするのは、さすがのテレーズにも照れくさかった。
それでも、そんな照れくささ以上に、彼に伝えたい欲求が勝った。
腰をかがめて金鎖の足元のボーダーの花に手を伸ばしているハツキの背を見つめ、唾を飲み込む。
「ハツキ」
声をかけると、ハツキは姿勢はそのままで肩越しに顔だけをテレーズへ向けてきた。
「お願いがあるのだけど──いいかな?」
「何?」
彼が身体を起こしてこちらを向き、笑顔のまま歩み寄ってくる。
一瞬、風が強く吹いて、花の房とハツキの髪を揺らした。
そよいだ前髪を右手で押さえたハツキは足を止め、顔をテレーズから外したが、長い金髪が風に踊らされても、テレーズはハツキを見つめたままでいた。
決意を込めて口を開く。
「俺と、友達になってくれないか?」
テレーズが口にした願いに、ハツキは髪を押さえたまま視線をテレーズに戻した。
その表情は、一体何を言われたのか解らないとばかりのものだった。翠の瞳は見開かれ、口も小さく開いたままになっている。
予想の範囲内の反応だったので、ハツキの様子には構わずテレーズは笑いながら続けた。
「俺、満開になったこの花を、おまえと一緒にまた見に来たいんだ。今学期、同じ授業は受けることが出来ないけれど、昼は会って一緒に食事をしたい。それに、また俺の研究室に遊びにも来て欲しい。それだけじゃない。まだまだ俺のことや学校のこと、街のことも話したいし……おまえのことを、もっと知りたい」
テレーズの言葉を聞くうちに、ハツキは髪から手を離して視線を泳がせ、そして俯いてしまった。
長めの前髪が彼の表情を隠す。
喋りながら彼に近づいていたテレーズが、ズボンのポケットに両手を入れたまま彼の顔を覗き込むと、顔を赤くしたハツキと目が合った。
覗き込まれたハツキが慌てて顔を上げ、口許を拳で押さえる。
ハツキの可愛らしい反応に、テレーズは優しい笑みが浮かんだ。
「嫌か?」
「そ……そんな訳じゃ……」
口ごもったハツキがまた視線を横に逸らす。そして顔を赤くしたまま、拳を握っていた手を開いて、今度は掌で口許を押さえた。
その姿は、初めてのことを望まれて戸惑っているのに他ならないと思われたので、テレーズは黙ってハツキの答えを待った。
しばらくその恰好で考え込んでいたハツキだが、やがて手を下ろし、ぎこちない動きでテレーズへ顔を向けた。
「僕が、君の……?」
「そう、友達。俺、おまえと一緒にいるのとても楽しいんだ。だから今日だけなんかじゃなく、これからもおまえと一緒に話したり遊んだりしたい」
「……僕も、君と一緒に過ごすの楽しいよ」
そう言うと、ハツキは自分を覗き込むテレーズに小さく首を傾げながら微笑した。
風に舞ったテレーズの金髪の幾筋かをハツキが手で掬った。
「嬉しいな。僕で良ければ、喜んで。君の友達にして欲しい」
ハツキの答えを聞いて、テレーズは自分の顔がどうしようもなく笑顔になるのが解った。
拒絶されるとは思っていなかったが、こうやって言葉にして彼に受け入れられたことが何よりも嬉しい。それに自分は、彼の初めての友達になることが出来たのだ。
誰のことも知らなかった彼に、自分が一番最初の足跡を付けた。
その事実が身体を震わせる。
新しく感じた感情の笑顔のままテレーズが身体を起こすと、ハツキはテレーズの髪を放し、咲きかけの金鎖を見上げた。
「この花……」そう言って視線をテレーズに戻し、軽やかに笑う。
「満開に咲き誇るのを、一緒に見に来よう」
「ああ。でもそれより先にさ」
テレーズは軽く首を横に傾けながら、ハツキへ提案した。
「さっきも言った通り、明日から昼食を一緒に食べよう。美味いもの、食べたいだろう?」
ハツキが首をすくめて悪戯っぽく笑う。
「君の隠れ処に連れて行ってくれるの?」
「ああ。中央食堂よりも断然美味いぞ」
「それは楽しみだ」
口許に手の甲をあて、楽しそうにくすくす笑うハツキは、今までで一番可愛かった。堪らなくなって、思わず手を伸ばし彼の髪をくしゃくしゃと掻き回す。
ハツキは首をすくめて小さく頭を振ったものの、特に驚きも怒りもしなかった。
自分の手を上げてテレーズの手を押さえ、苦笑交じりの目を向けてきた。
「君は、もう……」
「だって、おまえ可愛いんだもんな。あ、もう文句は受け付けないぞ。これからは俺、好きなだけおまえに可愛いって言ってやるから」
「何だよ! それ!」
「おまえがさっき、しらばっくれたからじゃないか」
睨んでくるハツキに言って返し、テレーズは自分の手を押さえているハツキの細い手首を掴んで一緒に下ろした。
笑うテレーズに呆れたように息をつくと、ハツキはまた金鎖の木へ顔を向けた。
ハツキの端整な横顔を見ながら、テレーズは先程聞いたベーヌのことを思い出した。
「林檎か……」
「え?」
テレーズの呟きに振り返ったハツキに、にやっと笑ってみせる。
「花は多分終わってるだろうけど、農学部の実験農場にはきっとあると思うんだ。明日の授業の後、探索がてら行ってみないか?」
テレーズの提案に目を大きくしたハツキだったが、すぐにぷっと吹き出した。
「君って、本当に真っ直ぐだね」
呆れた様子ながらも笑いを含んだ優しい言葉に、テレーズは嬉しくなる。彼はやはり素敵だ。
「あれだけ熱のこもった説明を聞いたら、実物を見たくなるのが人情じゃないか」
「そう言ってくれるのなら、話した甲斐もあったというものだね」
そう言いながらハツキはテレーズへ向き直り、自分の手首を掴むテレーズの手を解くと、その指に彼の細い指を絡めてきた。身体をテレーズに近づけ、下から見上げてくる。
「うん。一緒にご飯を食べよう。そして林檎の木を見に行こう」
テレーズを見上げながら、まるでハツキ自身が花開くかのように、にこやかに微笑んだ。
木漏れ日に翠の瞳が輝く。
「それから明後日も、その次の日も……二人でどこかに行ってみよう。話をしよう。──君と一緒に過ごせるだなんて、すごく楽しみだ」
こうも素直に言われると、その輝かしい笑顔につられずにはいられない。
「俺もだって。──……俺、おまえに出会えたのが嬉しい」
テレーズの言葉を聞いて、ハツキは更に笑みを深くした。
風が吹く。互いの髪が、ゆるやかに舞った。
「それは僕の台詞だよ。ここへ来て……そう決めて、本当に良かった。これからよろしく、テレーズ。仲良くやっていこう」
その時の眩しいまでのハツキの笑顔を、テレーズは一生涯忘れることはなかった。
いつか、林檎の花を1 ー了ー
いつか、林檎の花を1 沖世みのり @HeyKaeruGunsou
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