藤の花の下で君に 2


 腕を組んで黙ったテレーズに何を思ったのか、ひとしきり自分の姉妹について話をしたハツキは、不意に隣からテレーズの顔を覗き込んできた。

 そして、彼の行動に意表を突かれて思わず瞠目したテレーズと目が合うと、微笑んで小さく首を傾げた。


 陽光に輝く前髪が、彼の翠の瞳にかかる。


「君は?」

「……え? 俺?」


 突然の質問に驚いて訊き返すと、ハツキは頷いた。

「そう、君。君は兄弟はいるの?」


 ハツキがこちらのことにも興味を示してくれたことに、天にも昇りたい気持ちになる。

 テレーズは、嬉しさに浮かれ舞い上がる自分の心を落ち着かせ、それでも隠しきれない表情を誤魔化すためにハツキから視線を逸らすと、組んでいた腕も放して左手でぼりぼりと頭を掻いた。

「おまえんちと違って、俺の所は女っ気が全然なくってさ。男ばかりの五人兄弟で、俺が一番下なんだ」

「へえ、お兄さんが四人も?」

 感心したようなハツキに視線を戻すと、テレーズは苦笑した。

「むさ苦しいぞ? 一番上の兄貴は俺と十八歳離れてるんだ。ラルは最初の結婚相手との子供がいるけど、二年前に死別したんで今は同性の幼馴染と再婚してる。あ、再婚相手のリーヴィも俺の兄貴みたいなもんだな……って、それは置いといて、ラルは親父から家督も譲られて家を継いでいるよ。二番目三番目は軍のパイロットをしていたけど、今はもう退役して、二番目は郵便飛行会社の支配人、三番目は同じ会社で今も相変わらず飛行機に乗っているな。四番目は陸軍に入って、今も士官として東方アルランス基地に赴任している。俺以外は全員もう立派な社会人だな」

「一番上のお兄さんとは随分年が離れているんだね」

「ああ。俺、一番近い四番目の兄貴とも、九歳離れている」

「それだけ年が離れているのなら、可愛がられたんじゃないの?」

「いや、可愛がられたっていうか……」


 ハツキはそう訊いてきたが、実際のテレーズの幼少時の記憶はそんな微笑ましいものではなかった。

 微笑ましいどころか、テレーズ本人にとっては暗黒に消し去りたいようなものですらあったので、つい言葉を濁してしまったが、親しくなりたい相手に自分のことを隠すのも嫌だった。

 いっそ暴露してしまったほうが、笑いになっていいかもしれない。

 そう腹をくくると、テレーズはハツキににやりと笑いかけ、事実を話した。


「俺が出来た時さ、久しぶりに妊娠したお袋は、上の四人がむさ苦しい野郎ばっかりだったから、今度の子供こそ絶対女の子がいいと、俺が腹の中にいる時から女児用の服しか用意しない、子供の名前も女の名前しか考えないと、そんな調子だったらしい。でも残念ながら生まれてきたのは付くもの付いてる男の俺だったもんだからさ……最初は放心するくらい落ち込んだそうだ。その様子に親父もおろおろしたっていうんだけど、開き直った女性って凄いぞ。俺が男だと知った瞬間は落ち込んだお袋だけど、すぐに気を取り直したと思ったら、気迫で親父を押さえ込んで俺の名前を決めて、用意していた産着を着せて寝台に寝かしつけてって……」

 テレーズの話を聞いている最中から、ハツキは徐々に翠の瞳を見開いていっていた。それがやがて、耐えられなくなったのか、口許を手で押さえ俯いてしまった。

 襟元から覗く彼の細い首筋から肩にかけてが細かく震えている。

「ご……ごめん」

 震える声で謝るハツキに、ベンチに両手をついて少し仰け反る姿勢になってテレーズも笑って返した。

「いや、もう笑い話だろ? 俺、ここまで美形に生まれてきたの、絶対親孝行だったって断言出来るぞ」

「もう、やめてよ!」

 ついに耐えきられなくなったハツキが顔を上げ、腹を抱えて笑い出した。その目の端には涙まで浮かんでいる。

 彼は笑いながら右手をテレーズの肩に乗せ、額をあててきた。

「君の名前、女性名だなとは思っていたんだ」

 昨日、テレーズが思わず彼に触れてしまった時には酷く驚いていたというのに、自分からは何の躊躇もなくテレーズに触れてくる。


 ──自分勝手だよなあ。


 そんな悔しさを感じても、相反するような嬉しさが自分の中にはある。論理で表現しきれない気分に、どうも落ち着きが悪いが、それは嫌なものではない。

 けれど、自分の表情の制御は難しかった。

 それを何とか取り繕い、彼に向かって皮肉げに返事をする。

「酷いだろう?」

 テレーズの言葉に、ハツキはこちらの肩に手を乗せたまま顔を上げ、笑いを残した表情ですぐ間近からテレーズを見上げてきた。

 前触れなく、あまりもの至近距離から、彼の最大の特徴である翠の美しい瞳に見つめられ、テレーズは目を見開いてハツキを凝視した。


 洗髪料か何かの香りだろうか。自分のすぐ傍の彼からは、爽やかないい香りがする。


 自分を見つめるテレーズに、ハツキは再度微笑んだ。

「それでも君は自分の名前が嫌いじゃないだろう?」

 見透かされている。

 ますます目を大きくしたテレーズに、ハツキは笑いながら続けた。

「だって君は、自分の名前をちゃんと自信を持って名乗っていたものね。それは君の名が君を表すという何よりの証拠だよ。僕も君に似合ういい名前だと思う」

 今度こそ顔が赤くなるのを隠すことは出来なかった。


 こんなにも間近から、他意もなく真っ直ぐ当たり前のように、こちらが望む以上の言葉をかけてくるなど卑怯だ。それでなくても、姿を見ただけで心惹かれていた相手であるのに──捕らわれてしまわないはずがない。


 それが悔しくて、テレーズは顔を赤くしたままハツキを睨んだ。

「褒めても何も出ないぞ」

「心外だな」笑ったまま、余裕の表情でハツキが肩をすくめる。「僕は自分の思ったことを言っただけだよ。でも──」

 ハツキはテレーズの肩に置いていた手を上げると、その指先でテレーズの頬を撫でた。

「それで赤くなるだなんて、君も可愛いところがあるじゃないか」

「……男に可愛いなんて言っても仕方ないって言ってたの、おまえじゃなかったか?」

「そうだっけ?」

 自分が言われたら、また機嫌を悪くするだろうに、テレーズの反論には何食わない調子で笑って、それこそ可愛らしく首を傾げてくる。

 テレーズはそんなハツキの、自分の頬に触れる手を掴んだ。

 ハツキが不思議そうに見上げてくる。

「おまえの名前は?」

「僕の名前?」

 唐突なテレーズの質問に、更に首を傾げたハツキへテレーズは言葉を続けた。

「おまえの名前はヤウデン系だろ? だったらヤウデン文字も充てられていて、名前に意味があるんじゃないのか?」


 ルクウンジュや、セーリニア大陸の他の国で使用されている文字は表音文字で、音だけを表す文字であり一つ一つは意味を持っていない。

 だが、ヨーデア大陸のヤウデンやその周辺の一部の国で使われるヤウデン文字は表意文字であり、個々の文字に意味を持っていた。ルクウンジュのヤウデン系の名前も、ヤウデン文字で付けられた名の音をこちらの文字で表記しているだけなので、ちゃんと個人個人に名前の由来があるのだ。

 名前の意味を訊かれ、ハツキはテレーズの手の中からするりと自分の手を抜き出すと、身体を起こしてテレーズへ向き直った。

 その顔は非常に嬉しそうだった。

「僕は夏の生まれでね。僕が生まれた時、父は僕の名前を付けるのに悩んだらしいのだけれどね」


 ハツキは軽い調子で言うが、翠玉というあまりに特殊な子を授かった親の悩みは、決して簡単なものではなかっただろうと容易に想像出来た。ベーヌでの詳細は知らないが、天之神道の本国であるヤウデンにおいては、翠玉とは正しく生き神だった。


「ふと窓の外を見たら、庭のけやきが目に入ってきたんだって。その木は、チグサがベーヌに居を構えた時からある、樹齢三〇〇年近い大木なのだけど、その木が夏の日差しの中、青々と見事に葉を茂らせているのを見て、僕がそんな人生を歩んで欲しいと願って付けてくれた名前なんだ。ツキの葉は青々とした葉、槻は欅のヤウデン語での古名だよ」


 それを話すハツキの表情を見るだけで、彼が自分の名前をどう思っているのか尋ねるまでもなかった。こんなにも嬉しそうに自分の名前の由来を話す人が、その名前を嫌っているはずなどなかった。

 また、グィノーの話によると、ベーヌにおいてハツキには友人がいなかったということだったが、その生まれに関わらず親には大切にされてきたらしいということに安心した。

「綺麗な良い名前だな」

「ありがとう。僕も父が付けてくれたこの名前が好きなんだ」

「おまえの言葉じゃないけれど、ハツキ、おまえの名前もおまえに相応しい名前だよ。おまえの持つ雰囲気にも──」

 この先を言ったら、また彼は気を悪くするかもしれなかった。けれど、それをこそテレーズは彼に伝えたかった。

 なるべく気負わずに続ける。

「綺麗なその翠の瞳にも似合う名前だ」


 瞳のことを言われると、やはりハツキは顔を強張らせテレーズから視線を外した。

 だが、それは僅かな時間だった。数回瞬きをして強張りを解くと、彼は再びテレーズに顔を向けて、おずおずと笑った。

「ありがとう。……君にそう言ってもらえると、とても嬉しい」

 ハツキにどのような心境の変化があったのかは解らない。昨日の今日にしては、随分と異なる反応だった。

 けれどテレーズとしても、数多くある彼の美点の中でも自分が随一だと感じていることを口にして嫌がられるよりも、こうやって喜んでもらえるほうがずっと嬉しい。


 そもそもテレーズは、ハツキが翠玉であるから彼に惹かれたのではない。教室に見かけた、彼の存在そのものが気になったのだ。それが、美しい翠の瞳の持ち主で、そしてグィノーに言わせればまず最初に気づけということだったが、最後に彼が翠玉だと解っただけだ。

 彼の持つ肩書きなど関係ない。彼自身と親しくなりたいのだ。

 テレーズは礼をいうハツキに笑って返すと、ベンチから立ち上がり、彼へ左手を差し出した。

 差し出された手に、ハツキがきょとんとテレーズを見上げてくる。

 気にせずテレーズは笑った。

「まだちょっと時期が早いかもしれないけどさ、この先にもおまえに見せたい花があるんだ」

 テレーズの言葉を聞くと、ハツキは微笑んでテレーズの左手に右手を乗せた。その手を握って彼をベンチから立ち上がらせる。

 立って並ぶと、テレーズの肩の辺りに来るハツキの顔を見下ろし、ふと彼の手を握ったままでいたいという誘惑にかられた。


 ──何考えてるんだ、俺。


 そんなことは、昨日やっと出会うことが出来たばかりの人にすることではないはずだ。

 自分の欲求に密かに呆れ、テレーズは大人しくハツキの手を放して歩き出した。

 その後ろを、何も気づいていないハツキがついてくる。

 二人は揃って庭園の奥を目指した。

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