5.藤の花の下で君に
藤の花の下で君に 1
後ろ手に航空研の扉を閉めて、テレーズはハツキと並んで廊下を歩き出した。
理工学部の人間にとって、テレーズの姿はもうおなじみになっているので、彼一人が歩いているところで今更誰も注目してきたりはしない。
だが、今日はハツキも一緒にいるからだろう。すれ違う人間が驚いて振り返ってきていたが、テレーズは気に止めなかったし、ハツキも気にしていないようだった。
「ごめんな」
彼と何か会話をしたくて、まず口から出た言葉は謝罪だった。ハツキが怪訝な目を向けてくる。
「もっと早く出ようと思っていたのに、結構時間を食ってしまったから」
「なんだ」謝罪の理由を聞いて、ハツキは笑いに目を細めた。
「全然気にしていないよ。君のことを聞かせてもらえたのは嬉しかったし、それに君の淹れてくれたお茶はとても美味しかった」
二人で話をしていると、他の人が言う、ハツキが取っつきの悪い人間であるということは、何かの間違いではないだろうかと錯覚しそうになる。
けれど本人は楽しんでいたらしいが、先程のデュトワの研究室では、最後に礼を言った以外には、彼からデュトワやクラウディアに話しかけることはなかった。
人伝に聞き、自分でも目にした、あの大教室での彼の姿に寂しさを感じた気持ちに嘘はない。
それでも、こうやって自分にだけ気持ちを向けてくれるハツキに、胸が高鳴る嬉しさを覚えることも抑えられなかった。
「良かった。おまえが楽しんでくれたんだったら、俺も嬉しい」
「うん。で、テレーズ。今日はどこを案内してくれるんだい?」
好奇心と期待で、翠の瞳を大きくさせながらこちらを見上げてくるハツキはやはり可愛らしい。
テレーズも彼に笑いかけ、そして答えた。
「さっきディアも提案してくれたけれど、まずは構内からにしてみようかと思うんだ。ハツキは構内は自分で回ってみたのか?」
「ううん。ヴィレドコーリの街は散策してみたけれど、構内はあまり。理工学部にも、今日初めて来たんだ」
「そうか。だったら構内も広いし、何回かに分けて案内するよ。とりあえず今日は近場からだな」
「ありがとう」
階段を降りきって建物の外に出ると、テレーズはまず敷地の中心部にある大講堂へ向かった。大講堂入口に立ち、周囲を指さしてハツキに説明する。
「この辺りはもう知っていると思うけれど、大雑把に説明をするな。まず大講堂を中心として、南西が文学部・法学部といった文系学部、東が付属病院も併せて医学部、北が理工学部だ。そしてコルネイユ通りを挟んで更に北が農学部になっている。あとは幼稚舎から高等部までの校舎と彼ら専用のグラウンドが、敷地の南側にあるな」
「広いよね」
「まあな。大講堂の前には購買部と中央食堂があるけれど……ハツキは昼はここで?」
中央食堂が入っている建物は大講堂の前、文学部棟の隣にあり、教養学部棟からも近いので、大学から王立学院に入学した外部生の大部分は中央食堂で昼食を取る。おそらくハツキもそうだろうと思いながら尋ねると、テレーズの想像通りハツキはこくんと頷いた。
「人が多いだろう?」
「うん。そういや、お昼時も君を見かけたことがないね……どこか別の場所で?」
ハツキを先導して大講堂の前から南に向かってゆっくりと歩き出すと、歩きながらハツキが尋ね返してきた。
「内部生だけに、学内の穴場には詳しいからな。ああ、この道」
歩いてきた石畳の道は、東西に延びる道とぶつかって三叉路になって終わる。この東西の道を西に行けば、グィノーの研究室のある文学部研究棟だった。道の南側は森になっていて、その中へは地肌の出た散策路が続いている。
三叉路でテレーズは森の中を指した。
「こっちへ行ったことは?」
「一度だけあるよ。大きな池があるよね。グィノー先生の研究室の窓から水面が見えているのが気になって、池の端まで確認しに行ったんだ」
「ここの木、かなり立派に茂っているから、研究室からじゃ水面しか見えなくて、知らなきゃ何かと思うよな。いつ頃行ってみたんだ?」
「入学してすぐだったから、
散策路を通って池まで出ると、目の前に広がる景色にハツキは目を見開いた。
池の周囲は日当たりがいいので、多種多様な草花が植えられているが、
そんな花々で池の周囲は色とりどりに覆われていた。
「あの時も、森の中はブルーベルがずっと咲いていたけれど、池の端は寂しかったんだ」
「ヴィレドコーリは今が花の盛りの良い季節だからな。池の周りを歩いてロウデスハウスの向こうに行ってみよう。あちらも、付属病院のすぐ傍まで良く手入れされた庭園になっている」
王立学院の敷地は広大で、建物だけではなく、今テレーズ達がいるような森や芝生、庭園などになっている場所も多かった。
晴れた日などは芝生の上でたむろしている学生達や、庭園や森に散策に来ている近隣住民や観光の人間の姿が見られる。また、農学部の敷地に行けば、農学部の学生が世話をしている牛や馬の牧場や馬場、畑などが広がっているのだった。
池の周囲に広がる森の小径を抜けると、主に学会や会議に利用されるロウデスハウスが見えてくる。今の目的はその建物自体にあるのではなかったので、テレーズはロウデスハウスを素通りして東側に抜けた。
建物の角を曲がったところで、またもハツキは目を見張った。
「藤だ……!」
藤は元来ヤウデン原産の種だ。
だが、古来より両国の往来があるので、ヤウデン産の植物もルクウンジュに多数持ち込まれて栽培されている。藤もそのうちの一種で、ロウデスハウスの東の壁には、大木となった紫藤と白藤が絡まり、今が盛りの花を咲かせていた。
「すごいね……! こっちじゃ、もうこんなに咲いているんだ」
「この先の庭園に行ったら、もっといろんな花が咲いているぞ。ベーヌじゃ、この時期はまだ藤は咲いていないのか?」
「あちらはヴィレドコーリよりも寒いからね。藤が咲くのはもうちょっと後なんだ。でも、この時期はあちらも花が見事だよ。──……あの景色を今年は見ることが出来ないのが、それは少し残念だったかもしれない」
咲き誇る藤の花を見て喜んでいたハツキの目が細められ、遠くを見るように中空に向けられた。
彼にそんな表情をさせる、花の季節のベーヌの風景が気になる。
「
ロウデスハウスの藤の木から、医学部付属病院へ続く庭園に足を進めながら、テレーズはハツキに訊いてみた。
この庭園は、王立学院内でも最大のもので、区画によっていくつかの様式に分けられて設計されている。
ロウデスハウスの藤の木から続く辺りはヤウデン風になっていて、苔むした岩の間を流れる小川の横に小径が続いていた。この区画の植樹はヤウデン原産の植物で統一されている。
道の際の斜面には色とりどりの
テレーズの一歩前を歩き、周囲に目を向けながらハツキは微笑した。
「ベーヌでは、この時期に早春から春までの花が一斉に咲き始めるんだ」
小川の飛び石を伝って対岸に渡ると谷空木の群生があり、その先には八重桜の大木がまだ花を咲かせていた。
木の周囲は小さな広場になっている。広場の縁には数脚のベンチが据え付けられてあり、テレーズはハツキを促して、そのうちの一つに並んで腰を下ろした。
「僕の家の辺りはここよりも標高の高い盆地で、この季節にはまだ山頂に雪を残している二〇〇〇メートルを超すような山々に周囲を囲まれているんだ。そんな山々の中でも一際高いのが、標高四〇〇〇メートルを超すセーハイネ山だよ。ベーヌ市のどこにいても、この山の威容は目に入ってくる。そんな雪を被った山頂の白さ以外、それら山々は冬枯れの森や、針葉樹林の黒々とした色で覆われているのだけど……、そんな黒い森の中、まずは辛夷が白い花を咲かせるんだ。辛夷の花が咲き始める頃になると、山の麓でも、空気はまだ冷たくても日差しには春を感じるようになってくる。そしてその陽光で、寒い冬の間は眠っていた木々が花を咲かせ始める」
八重桜の桃色の、玉のような花を見上げながら、思い出すような表情でハツキが話す。
その表情は、昨日からテレーズが見てきた中でも一番優しく、彼がどれだけ自分の郷里を思っているのかをテレーズに伺わせるものだった。
昨日、ベーヌの話題が出た時には、彼の翠の瞳のことにも触れたためか、拒絶の空気を露わにしていたハツキだが、決して自分の生まれた土地を拒むだけではなく、心から愛しているにも違いない。
そうでなければ、こんな表情は決して生まれてこないだろう。
「それが一斉に?」
言葉を切ったハツキに問いかけると、彼は八重桜から目を離し、テレーズへ視線を向けて柔らかく微笑んだ。
「そう、一斉に。山裾には雪柳の白、
「へえ……本当にそんな一斉に咲くんだ。さぞや盛観だろうな」
「うん。晴れた日の春の青空の下で目にすると、息をするのも忘れるくらい。でも、僕にとって春の一番の花は……林檎の花だな」
「林檎?」
林檎の果実はよく食べるが、その花は見たことがないテレーズは首をひねった。
きょとんとしたテレーズの表情に、ハツキが更に笑みを深くする。
「こちらではあまり見かけないだろうね。ベーヌの僕の実家は林檎農家なんだ。だからやっぱり、自分の家の畑の林檎の花が咲くのは、毎年特別な気分になる」
ハツキの祖父が、国の元老、カザハヤ公爵家の大カザハヤことカザハヤ・サネシゲであることは、グィノーやテオドール達から聞いて知っていた。
ハツキが醸し出す育ちの良さなどから、そのことについては何の違和感も抱いていなかったが、実家が農家であるというのは意外だった。
けれどそうであるのならば、領主の家と血縁関係を持つほどである。ハツキのヤウデンの血の濃さからしても、チグサ家というのがベーヌでも由緒ある富農であることが察せられた。
「林檎ってどんな花が咲くんだ?」
テレーズが質問をすると、ハツキはまた嬉しそうに笑った。
口に出したら嫌がるが、やはり彼は可愛い。
「同じバラ科だから、桜なんかにも似た五枚花弁の花だよ。冬の終わり頃から枝先や木の節々で花芽が膨らんできて、そして葉と蕾が一緒に芽吹いてくるんだ。蕾の頃の花弁は濃い桃色をしているのだけどね、綻んで花が開くにしたがってその色は薄くなっていく。それが完全に花開くと、ほんの一筋二筋と花弁に桃色を残す花もあるけれど、大部分は殆ど白にしか見えないごく薄い薄桃色になるんだ。──赤茶の樹皮の枝、まだ萌黄色の若葉、濃桃色の蕾、そして僅かに蕾の頃の色を残す白い花。満開の時には、畑中が林檎の花の醸し出す、果実の匂いにも似た甘酸っぱい香りで満たされる」
具体的なハツキの説明に、テレーズの脳裏にも林檎の花が満開のベーヌの情景が浮かんできた。
青空の下、遠景には山頂に白雪を冠する山々を望み、その麓にまるで白と萌黄の霞のように広がる花満開の林檎畑。きっと林檎の樹の足元も、野の草の若草色や、蒲公英、仏の座、菫といった咲き乱れる野の花の色に彩られているのだろう。
テレーズが思い描く情景が、彼の中にもあるのだろうか。
ハツキは微笑んだまま、顔を空に向けた。
「そして花が咲いたら、農家は途端に忙しくなるんだ。広い畑のいたる所で咲く花を受粉させるのに、畑に蜜蜂を放つけれど、労働者を雇って人工授粉の作業もしなければならない。花が咲いているのはほんの数日だから、大勢の人で一気に行うんだ。それから花が散って実が出来はじめたら、大きな良い実をつけるために摘果作業もして。……そうか、花が咲いて見た目が綺麗なこともあるけど、毎年この時期から、家の中の雰囲気が慌ただしい活気づいたものになるから、あの花は僕にとって特別なものになっているんだろうな」
「それだけ忙しいのだったら、おまえも家の作業を手伝ったりしてたの?」
テレーズの問いかけに、ハツキは顔を戻すと苦笑して肩をすくめた。
「姉達は手伝っていたけれど、僕は小さい頃に父に連れられて真似事をしてみただけで、家の仕事を手伝ったことはないんだ。従兄と一緒に皆が作業をしているのを見ていただけだな。ああ、でも、そういえば妹が手伝っている姿も見たことがない。あの子は家の仕事よりも、母方の祖母の仕事に興味を持っていて、あちらの仕事場に入り浸ってばかりだったからだろうな」
「ハツキはお姉さんと妹がいるのか?」
ハツキが何の気なしに洩らした自分の家族構成だが、テレーズは多いに興味があった。
すかさず質問をしたテレーズの、彼のことならどんな些細なことでも知りたいという心の内を知らず、ハツキはこくんと軽く頷いた。
「姉が二人と妹が一人の四人
ルクウンジュでは家は長子が継ぐことが多いので、ハツキの一番上の姉が婿を取っていることはさして珍しいことではない。
だが、彼の姉妹の全員が家と関係のある仕事についたり、目指したりしている中、ハツキは幼少時から家の仕事を手伝ったことはないと言い、大学での彼の専攻も彼の実家とは何の関係のない分野だった。
自分の実家の様子を仔細に説明出来るハツキが、その仕事に興味を持っていないとは考えにくい。
けれど彼は姉妹と同じ道を選ぶことが出来なかったのではないだろうか。
グィノー教授もはっきり言っていた。ハツキのことはカザハヤ公爵家から相談を受けて王立学院への進学を勧め預かっていると。
それは彼が翠玉だからだ。
たとえ神殿の最奥にいるのではなくても、世俗からは隔たられてしまう。
ふと気づいてしまったことに、テレーズは口を閉ざしてしまった。
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