放課後の君との約束が 2


 嬉しそうに準備室の入口に向かうテレーズの姿に、デュトワは苦笑しながら軽く息をついた。彼に興味を抱かせるだけではなく、このような表情もさせるとは相当な人物である。


 先に準備室を出たテレーズが、チグサと思しき声の主と何やら軽く言い合っている。会話の内容は他愛もないことだったので、デュトワは気楽な気分で準備室から顔を覗かせ、研究室の様子に目を細めた。

 あの堅物のグィノーが見た目も褒めていただけのことはある。呆れた顔でテレーズを見上げる、臙脂色のタイを締め、黒髪に緑の瞳をした青年は、自他共に認める美貌と長い金髪を持つテレーズの横にいてさえ充分に際立つ美しさを誇っていた。

 一目彼を見て、先程のテレーズの表情にも納得がいった。


「本当に美人だ。メールソーに見劣りしないとはすごいねえ」

 デュトワが声をかけると、チグサは呆れた表情のままこちらに顔を向け、力なく会釈をしてきた。

 どうもデュトワが顔を出す前のテレーズとの言い合いでそんな表情になってしまったようだったが、グィノーから聞いていた話とは随分印象が異なると感じた。


 ──これは面白そうだ。


 デュトワは胸中で呟くと、チグサににこやかに手を上げて返し、自分の机に向かった。持ってきた資料を机上に置いて椅子に腰を下ろす。そして、せっかくここに来たチグサの姿をもっと観察したいと思い、テレーズに声をかけた。

「メールソー、僕に珈琲を淹れてくれないか。チグサ君も飲んでいったらいい」

 チグサに向かって手招きをして、机の前の応接椅子を勧める。

 デュトワの勧めに素直に従ったチグサだが、その表情には、何故他学部の教授が自分のことを知っているのだろうかという疑問が浮かんでいた。


 デュトワはグィノーと親しいこともあったが、自分が彼の名を知っていたのはそれだけが理由ではない。


     ※


 学内の教授の推薦で王立学院大学を受験した生徒の入学考査の答案は、その生徒を推薦する教授が所属する学部だけではなく他学部の教授にも採点され、その合否は大学評議会にかけられる。不正の防止と、その学生が推薦教授の所属学部以外にも適性があるかを判断するためだった。

 とはいえ、王立学院大学の教授から推薦を受けるような学生は滅多といないし、また推薦を受けた教授の研究室の所属となることを解って入学をした後に、転部を行ったり他研究室に移る学生などまずいなかった。

 だがチグサは、グィノーの推薦を受ける理由となった、自ら調査しまとめ上げたベーヌ地方の文化と歴史に関するレポートが見事だったことは言うまでもないが、中学校、高等学校時代は殆ど学校には通っていなかったというのに、入学考査でもその結果において臙脂のタイを着用する資格を得るのに相応しい優秀な答案を出していた。


 中でもデュトワの目を引いたのは、国語、外国語、歴史といった文系の科目だけではなく、数学、物理をはじめとした理系の科目全てでもチグサがほぼ満点の高い成績を取っていたことだった。

 チグサは知らないことだが、彼の成績を目にして、グィノーの研究室から彼を引き抜きたいと思った教授は一人や二人ではない。

 しかし彼には特殊な事情があることも、グィノーから評議会において説明をされていた。そのために、まずはグィノーの研究室に所属をさせるということで話がついていた。

 その後の在学中に、彼がもし他の分野に興味を示した場合には、転部や所属研究室の変更を視野に入れてもいいだろうということになっている。

 そのことから、彼の才能に関心を持つ教授達の間では、いかに自分の分野に彼の興味を向けるか、既に水面下では競争が始まっていた。


 デュトワにとってもチグサの才能は魅力的であったが、航空研では既にもう一人の天才、メールソー・テレーズを囲い込んでいるので、チグサに関しては静観を決めていた。

 とはいえ、自研究室に所属する学生が彼をここに連れて来たのならば、話はまた別である。たとえこの研究室に引き抜くことは出来なくても、何かの時に戦力になる可能性が多いにある優秀な学生と親しくなる機会を無駄に出来はしない。



 デュトワ以外の希望も聞いて、テレーズが部屋の端のキッチンで茶の準備を始めたので、チグサはソファに浅く腰を掛け所在なさげにしていた。

 改めて近くから彼の顔をよく見てみる。

 少し気が強そうであるが、ヤウデン系の中でも線が柔らかな顔立ちと、特徴的な緑の瞳が美しい。男子学生の制服を着用していても、男装の麗人といった風情だ。彼が制服ではなく、身体の線をもっと隠すような服装をしていたら、美しい女性にしか見えないことだろう。

「君のことはグィノーから聞いているよ」

 声をかけると、チグサは驚いた顔をこちらに向けてきた。事情はどうであれ、根の性格は素直なのだろう。擦れた様子のなさに好感が持てる。

「僕とグィノーは、この王立学院の同期でね。高等部と大学部の教養課程では同じクラスだったんだよ」

 グィノーとの関係を説明すると、チグサは納得したようで、驚きに少し見開いていた目を戻して微笑した。

 しかしすぐに新たな疑問が生じたらしい。

 彼は小さく首を傾げると、奥で茶の用意をしているテレーズへ顔を向けた。


「テレーズ、君は授業に出てきているの?」

 この質問から察するに、彼は本当に昨日までテレーズのことを知らなかったらしい。

 テレーズもまた、彼に自分のことを殆ど教えていないようであるが、これについては、見た目通りの容姿以外のこと、学業の成績や自身の能力についてテレーズは普段から何の意識もしていないので、話題にすることすら考えに上らなかっただけだろう。そうなると、一体何があって二人意気投合したのか。是非ともそれが知りたくなる。

 よもやまさか、この臙脂タイの優秀な学生二人が、お互いの外見だけに惹かれたという訳でもあるまい。


 並外れた頭脳と容姿を持ちながら、何とも不器用そうな二人を見比べてデュトワは密かに笑った。


      ※


 自分のことなど、高等部以前から一緒である内部生の同級生達や、現在普段の授業で教室を同じくする周囲の上級生達には、今更説明するまでもなく知られている。

 けれど、今年の外部からの新入生であるハツキが知っているはずがなかった。

 彼の質問でやっとそのことに気づき、デュトワに珈琲と菓子を渡しながらテレーズは自分の迂闊さに苦笑した。そんなテレーズに、製図台から立ち上がりながらクラウディアも面白がっている視線を投げかけてくる。


 テレーズはハツキの隣に腰を下ろすと、ハツキと、自分達の向かいの席に座ったクラウディアに飲み物を渡した。それから自分のカップを手にして椅子の背に凭れ、彼に自分のことをどう説明をしようかと考えながら紅茶を口にする。


 ハツキが来たので、研究室にある中でも一番上等な茶葉を使って淹れたお茶の香りは素晴らしい。テレーズが渡したカップを手に取り、口許に運んだハツキもそれには気づいたようで、紅茶の香りをかいだ彼の翠の瞳が嬉しそうに緩む。

 やっぱり綺麗な顔をしているなと、茶を口にしながら彼の横顔を見つめていると、一口紅茶を飲んだハツキが、小首を傾げるようにしてテレーズへ振り向いてきた。

 長い睫毛に縁取られた翠の瞳がこちらを見据える。


「入学式の時から気になっていたから、僕もいつも確認していたんだ。でも昨日あのお店で君に出会うまで、教室では君のことを見たことがなかったんだよね。君のその見事な金髪、同じ教室にいたのなら気づかないなんてこと絶対ないのに」


 テレーズが思う以上に、彼はこちらをずっと気にかけてくれていたらしい。

 赤面まではしなかったが、ハツキの言葉が嬉しくて、カップにつけていた口を開いたままテレーズは彼を凝視し、そして不意に気恥ずかしくなって視線を落とした。

 こんな彼に、どう言って自分の話をしたらいいのだろう。言葉がぐるぐると脳裏に渦を巻く。

「いや……俺、教養課程の単位は半分以上取れているから……」

「テレーズは幼稚舎から王立学院でね」自分でもちゃんと説明出来ていないと感じた言葉を引き取ってくれたのは、向かいの席で勢いよく菓子を食べていたクラウディアだった。

「ここの学校、成績優秀者は上の学年の授業も受けることが出来るのよ。だからテスも、何だかんだで高等部までにそれだけの単位取っちゃってるの」

 そこで彼女はテレーズへ目を向け、肩をすくめた。

「こんな見かけでも、この子も臙脂タイの成績優秀者だからね」


 そう言ってからクラウディアは、自分が一人で菓子を食べていたことに気づいたらしい。いくつかを手に取ってハツキの前に置いた。

 普段研究室の人間ばかりの時に、クラウディアが甘い物に関して周囲に気遣うことなど決してない。菓子を食べたい人間は、彼女が食べ尽くす前に自分で確保をしておかなければならなかったので、これは非常に珍しいことだった。

 彼女もハツキに対して気を遣ってくれているのだろう。

「凄いね」

 渡された菓子の封を開けながらハツキは微笑んだが、彼もその臙脂のタイの持ち主だ。それに内部生であったら、高等部時代の定期考査やレポートで好成績を取っていれば臙脂のタイの資格はもらえるので、外部生に比べたらそんなに難しいことではない。加えて、ハツキについては一般入学ですらない。

「何言っているんだ。おまえだって臙脂タイじゃないか。教授の推薦を受けて入学したおまえの方が、よっぽどすごいと思うぞ」

 身体を起こして、テレーズもクラウディアに食べられてしまう前に菓子を一つ取って顔を顰めると、菓子を囓りながらハツキは首を傾げた。

「僕は運が良かっただけだよ」

 容姿のことだけではなく、こちらも自覚がなさすぎる。

 テレーズに顔を向けているハツキは気づいていなかったが、応接卓の向こうでは彼の発言にクラウディアまでも菓子を食べる手を止め、呆れた表情でハツキを凝視していた。

 教授の推薦など、ましてやあのグィノー教授の推薦など、運だけで受けられるものでは決してない。


「でも、テレーズ。大学に入学するまでにそれだけの単位が取れるくらい優秀なんだったら、入学式の挨拶は君がしていてもおかしくなかったんじゃないの?」

 ハツキのこの質問にはデュトワが答えた。

「それはね、王立学院大学での新入生代表の挨拶は、一般入試で首席の成績だった学生が行うことになっているんだよ。だから、たとえ臙脂タイの持ち主でも、君達には最初から資格がなかったんだね」

 そこまでのことはテレーズも知らなかった。大学の入学式は面倒な役目がなかったので、心置きなく寝ていただけだ。

「高等部の卒業式までは、ずっと挨拶をする羽目になっていたので、俺はほっとしましたけどね」

「そうなんだ」そう呟くと、ハツキは溜息をついて椅子の背に沈み込んだ。

「……でも、残念だったな」

「何で?」


 テレーズは面倒な役目もなく嬉しかったのだが、何が残念だったのだろうとハツキを振り返ると、彼は「何でって」とこちらを見上げてきた。

 少しすねた様子のハツキも可愛らしい。

 椅子の背に凭れて、そんなむくれた様子を見せるハツキの傍には、テレーズの肩から流れる長い金髪があった。ハツキはつとその金髪に目を移すと、何気ない動作で手を伸ばし、一束指に絡めた。


 テレーズは他人に髪を触れられることが好きではない。

 断りなく触れられることについては嫌悪すらしている。

 けれど、それがあまりに当たり前に行われたせいか、または相手が彼だったためか理由は解らない。今、嫌悪感はまったく感じなかった。

 逆に得体の知れない期待に小さく息を飲む。


「そしたら、君の名前も学部もすぐに解ったのに。昨日まで、僕は君の名前も知らなかった」


 そう言ってハツキは僅かに目を伏せると、指に絡めたテレーズの髪を口許に寄せ、ごく当然のように口づけた。そうしてからテレーズの金髪を放すと、椅子の背から身体を起こし応接卓に置いていたカップを取り上げた。

 言いたいことだけを言い、したいことだけをする。

 そんなハツキに投げ出された感のテレーズは、左手の甲で口許を押さえ、ハツキから視線を逸らした。


 ──何だよ、もう。俺はあんなに必死でおまえを探していたのに。


 胸中で彼に恨み言を言っても、ハツキもテレーズのことを知りたかったのだという告白に、自分が耳まで火照らせているのが解った。

 嬉しい。とても嬉しい。けれど、どうしたらいいのかが解らない。


「テス」


 混乱しているテレーズへ、静かな声をかけてきたのは、クラウディアだった。彼女からの呼びかけに目を上げたテレーズと視線が合うと、クラウディアは小さく笑みを浮かべた。

「あんたはハツキ君と約束があって、ここまで来てもらったんじゃないの?」

 彼女の冷静な言葉にテレーズも混乱から立ち直り、クラウディアに向かっていつものように笑うことが出来た。

「ああ。ハツキはまだヴィレドコーリに詳しくないんで、案内するって約束したんだ」

「あら、そうなの?」


 クラウディアからの問いかけに、ハツキがカップを口にしたまま頷いて返す。

 彼のその姿を見て目許を綻ばせると、クラウディアは口許に指を当てながら、テレーズに向かって小さく首を横にした。

「じゃあ、今日は片付け、私がしておいてあげる。お茶を飲んだら、ハツキ君を案内してあげたらいいわ」

 それから彼女は可笑しそうに笑った。

「あんたは、もう十年以上もここに通っていて、学内も良く知っているんだから、構内を回ってみるのもいいんじゃないかしらね」

「あー……うん。そうだな。ありがとう」


 今日はどうしようかと、昨夜から色々と考えていたものの、先程のハツキの行動のおかげでその計画が霧のように消えてしまったテレーズに、クラウディアの提案は有難かった。

 会話を横で聞いていたハツキが自分の紅茶を飲み干す。テレーズも自分のカップの中身を飲みきると、カップを置いて椅子の背に掛けていた上着を手に取った。

 ハツキがこちらを見つめている。

「ハツキ、行ける?」

 声をかけると、彼は微笑して「うん」と答えた。

「ご馳走様でした」

 礼儀正しく礼を言って立ち上がったハツキに、デュトワが気安く手を振った。

「どういたしまして。チグサ君、いつでも遊びに来てくれたらいいからね」

「ありがとうございます」

「じゃあディア、ありがたくお言葉に甘えさせてもらうな。先生、明日の朝、授業の前にこちらに伺いますので」

 テレーズも立ち上がり、テイルコートを纏いながら二人に伝えると、クラウディアは黙って手を振り、デュトワも軽く頷いて返してきた。

 ハツキが思い出したようにクラウディアに向き直る。

「クラウディアさん、お菓子ありがとうございました。美味しかったです」

 ハツキからの礼にクラウディアも嬉しそうに微笑した。

「またいらっしゃいね、ハツキ君。とっておきを用意して待ってるわ」

「はい」

「じゃあ、失礼します」

 テレーズは荷物も手に取ると、ハツキの背に手をやって彼を促し、そして連れだって航空研を後にした。


     ※


 ぱたんと部屋の扉が閉じられると、デュトワは両肘で頬杖をつきながら息を吐いた。

「仲良しだったねえ」

「二人とも、昨日出会ったばかりだって言っていませんでしたか?」

 テレーズとハツキのカップを流しに運びつつクラウディアが指摘をしてくる。デュトワはそれに対して肩をすくめた。

「だからじゃないか。グィノーの話では、チグサ君は難しい子だということだったんだけどね」

「それを言ったらテレーズもですよ。本人の手前、打ち明けられた時には応援するって言いましたけど、本音では何が起きたのかと思いましたもの。あまりに驚いたので、あの子の兄にも話をしてしまったくらいです」

「はは。鷲の片割れは何と言っていたのかな」

「『面白いから放っておけ』でしたね。まあ、あの人の言う通りで正解だった訳ですし、さっき実際にこの目でハツキ君を見て、私も納得してしまいましたけれど。……二人とも、何ともお似合いと言いますか」


 クラウディアは二人のカップを流しに置いた後、応接卓に戻って自分のカップと残りの菓子を手にして製図台に戻った。

 台の脇机にそれらを置き、代わりに鉛筆と計算尺を手に取る。

 デュトワは腕を組んで椅子に凭れた。

「オリオール君の目からしても、納得の相手だったんだねえ」

「ええ。テレーズの友達としてまともに付き合えているのって、幼年部からの腐れ縁の変わり者二人組ぐらいだったんですけれどね。あの子のあの容姿に騙される人間は多いのですが、あの子がそういう人間は相手にしてこなかったですし」

「でも、チグサ君もメールソーの金髪が入学式の時から気になっていたようだったよ?」

「相手がハツキ君だったらお互い様でしょう。テスもハツキ君の外見だけで、あれだけ入れ込んでいたんですから」

 呆れた調子のクラウディアの言葉にデュトワも笑う。

 どうもあの二人は、本当に互いの見た目に惹かれて関係を持つことが出来たらしい。

「あのメールソーも、実は面食いだっただなんてねえ。グィノーもさぞかし面白かっただろうな」

「まったくです」

 二人で苦笑し合う。


 そしてデュトワは椅子に凭れたまま、顔を天井に向けた。

「さて、これからどうなることだろうねえ」

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