4.放課後の君との約束が

放課後の君との約束が 1


 翌日は、放課後にまたハツキに会えるかと思うと、朝から授業が手につかないほど浮かれてしまっていた。


 本人は気づいていないが、ハツキほどではないものの普段教室では仏頂面で過ごすことの多いテレーズである。その彼がやけに機嫌良くしているので、周囲にはひどく不審がられていたのだが、周囲の反応などテレーズにはどこ吹く風であった。

 それを口に出して指摘したのは、昼休みにいつものように昼食を一緒にしていたテオドールだった。


「テス。今日のおまえ、何だか気味が悪いぞ」

 眉根を寄せてテレーズを見据えるテオドールに、プレートに盛られた魚のフライ、フライドポテト、キャロットグラッセをもくもくと食べていたユージェーヌが、手にしていたナイフを軽く横に振って答える。

「テオ、それは察しが悪いって」

「悪かったな。どうせ俺は鈍感だ」

「ふて腐れるんじゃないよ。で、テス。その様子ってことは、無事に遭遇出来たのかい?」

 ユージェーヌに問われて、鶏の骨付きもも肉のグリルを食べていたテレーズは、手を止めるとにやっと笑って返した。

「会えた。でもって話が出来た上に、今日の放課後にまた会う約束もした」


 テレーズの回答にテオドールとユージェーヌがぽかんとして食事の手を止める。まずテオドールがまじまじとテレーズの顔を覗き込んできた。

「……相手は本当にあのチグサなんだよな?」

「ハツキ以外、誰がいる」

「ハツキ!」

 テレーズがハツキを姓でなく名で呼んだことにテオドールは驚きの声を上げた。ユージェーヌも目を丸くしていたが、やがて笑い出した。

「いきなりえらく親しくなっているじゃないか。さすがのチグサも、おまえの顔には釣られたのかい?」

「んー……、顔よりもむしろこの髪が気になっていたようだったけどな。おかげで向こうから声をかけてきてくれた」

「チグサから!」

「声が大きいよ、テオ」再び大声を出したテオドールを笑いながらユージェーヌがたしなめる。注意をされ、しばらく無言で口を開けたままテレーズを凝視していたテオドールだが、やがて頭に手をやって首を横に振った。

「駄目だ。俺には想像も出来ない」


 率直すぎるテオドールの感想に、テレーズは心外だとばかりに肩をすくめてみせた。

「彼は話をしたら楽しいし、それに可愛い性格をしているぞ」

「彼の顔が綺麗なのは認めているし、百歩譲って、おまえが言うように話をしたら楽しいのかもしれないことも認めてやろう。だがな、テス。あの氷の貴公子の性格が可愛いだなんて、長い付き合いだが俺はおまえの感性を疑うぞ」

「酷い言われ様だな」

 あんなに可愛いのにと、昨日のハツキの様子を思い出しながら胸中で呟く。

 彼の可愛らしく美しい顔の、彼にしか持ち得ない翠の瞳で覗き込まれながら名前を呼ばれた。あの感激は忘れられない。

 ランチの付け合わせであるレンズ豆の煮込みをフォークで掬い上げながら、ふと思いついて顔を上げた。テオドールはこのように言ってはいるが、まずこの二人だったらいいかもしれない。

「なあ。今度、昼にハツキを誘ってもいいかな?」

 とりあえず彼がテレーズのことは相手にしてくれるのであれば、それをきっかけに他の周囲の人間とも付き合いが出来るようになればいいと思うのだ。

 テレーズの申し出に、口では何のかのと言うものの根は人の好いテオドールは、テレーズに付き合うのであれば仕方がないといった様子で諒承し、こちらを面白がっているユージェーヌも笑って諒承しくれた。

 人付き合いには基本興味のないテレーズである。だがこういう時に、気の置けない間柄の友人の存在は非常に嬉しいものだった。


     ※


 午後からの三限の授業も終わり、研究室に向かう途中の研究棟の階段でフレデリクとすれ違った。昨日は彼に時間を取られたことで苛立ったが、結局彼が自分を引き止めてくれたからこそハツキを見つけることが出来たといえると、あれからテレーズは考えていた。

「よう、テス。今から研究室か?」

「今日はちょっと用事で顔を出すだけです。フレクさんは授業ですか?」

「ああ。三限なしの四限はだるいな。ちょっとこれは失敗だったよ」

 ぼやくフレデリクに笑って返しながら、テレーズはテイルコートの内ポケットから新品の煙草を取り出した。フレデリクが吸っている銘柄のもので、休み時間の間に買っておいたのだ。

 その煙草をフレデリクに差し出すと、案の定相手は怪訝な顔をしたが、テレーズはにこやかに笑ってみせた。

「昨日、フレクさんのおかげでとてもいいことがあったんです。これはそのお礼です」

「ふうん」

 フレデリクもあまり細かいことにはこだわらない性格の持ち主である。テレーズの説明を聞くと、遠慮なく煙草の箱に手を伸ばした。

「なら有難くいただいておくよ。ありがとな」

「いえ、こちらこそです」

 テレーズが礼を言うと、フレデリクは煙草を持った手を上げて返しながら、階段を降りていった。彼とは反対にテレーズは階段を上り研究室に向かう。


 テレーズが研究室の扉を開けると、デュトワに喜色満面の笑みで迎えられた。部屋の中にはデュトワの他にはクラウディアしかいない。彼女は図面を睨みながらぶつぶつと計算を行っていた。

「よく来たな、メールソー! ちょうどクレマン君が授業に行ってしまったので困っていたんだよ。オリオール君は小さいからねえ──」

「先生! 私がテスやフレクと同じような身長だったら恐ろしいだけじゃないですか!」

 普段は集中すると周囲を気に止めなくなるクラウディアだが、デュトワの言った「小さい」という単語に反応して抗議をした。

 彼女は自身の身長の低さを話題にされることを、非常に嫌っている。

 クラウディアの身長も、ルクウンジュ人女性の平均身長より僅かに下ではあるが、取り立てて小柄だという訳ではない。だがこの研究室にはテレーズ以外にも高身長の男子学生や院生が多かった。そのため研究室で紅一点でもある彼女は相対的に小さく見えてしまう。

 皆彼女の能力を認めているので、そのことで何かを言う気などさらさらないのだが、負けず嫌いでもある彼女は、棚の上に置かれた資料などに自分では手が届かなかったりすることが大変に悔しいらしかった。

 デュトワの言葉の調子から、これは物関係だなと察したテレーズは荷物をソファの上に置き、テイルコートの上着も脱いでウェストコート姿になった。上着も荷物と一緒にソファの上に置く。そして上着のポケットから出しておいた紐で長い金髪を一つに束ね、シャツの袖をまくった。


「さすが、察しが良くて助かるよ」

 機嫌良く奥の準備室に向かうデュトワの後を追う。約束の三時まではまだ時間があるし、研究室内での用事であれば、教授の依頼を受けても差し支えはない。

 準備室の入口近くには、徹夜の時に交代で仮眠を取るためのソファがある。

 その奥には文献や道具を収めた棚と予備の作業机が並び、床の上にも箱詰めされていたり、はたまた現品のままであったりと様々な姿で物が積み重なっている状態だった。この研究室に来るようになってまだ半年ばかりのテレーズは、未だここの全容は掴めていなかったが、研究室の主であるデュトワは迷うことなく奥へ歩を進める。

「今、オリオール君が抱えている課題の参考になる資料がこの辺りにあるはずでね……ああ」

 デュトワはある棚の前に来ると、最上段にある七センチ程の厚さの茶色のファイルを指で示しながらテレーズを振り返った。

「あれだ。取ってくれるかな」

「はい、先生」最上段といえど、身長の高いテレーズには余裕で腕が届く高さだ。難なくファイルを取り出してデュトワに渡す。

「ありがとう」

 礼を言ってデュトワは、受け取ったファイルの表紙に金で箔押しされた題名を確認し、中身をぱらぱらとめくった。


「それは何の資料なんですか?」

 テレーズが尋ねると、デュトワはファイルの中身を見ながら笑った。

「何年か前に軍の試作機で、試験飛行中に主翼が折れる事故があったのだけれど、その時の調査報告書だよ。飛行機の型式は旧式なんだけど、解析データは今でも使えるからね。あ、この時のパイロットは無事に脱出して今でも生きているよ」

「いや、そこまでは別にいいのですが……ご用はそのファイルだけですか?」

 テレーズが教授の最後の一言を軽く流すと、デュトワは面白くなさそうに眉を顰めファイルを閉じた。

「まったく……。メールソー、君はつまらない奴だと言われないかい?」

 三番目の兄からはことあるごとに言われている。テレーズが黙って肩をすくめると、デュトワは深く溜息をついた。

「まあ、それは良いとしよう。君には、後は用事というより質問があってね」

「質問、ですか?」

 テレーズは両手を腰にあてて首を傾げた。デュトワは再度笑顔になって頷く。

「そうだ。質問だ。で、首尾はどうなんだ?」


 デュトワの質問の内容にテレーズは肩を落としそうになった。

 確かに教授に宣言をしてハツキ探しを始めたし、結果の報告を期待しているとも言われた。だが、ここまで直截的に訊かれるとは思ってもいなかった。

 額を押さえた指の間からデュトワに目を向けると、期待に満ちた表情でにこにこと笑いながらこちらを見ている。この教授は当たりは柔らかいが、気になることや興味のあることに食いつくと、そう簡単には解放してくれない。


 ――まあ、報告はしておかないとな。 


 ここでテレーズが答えなくとも、もうすぐハツキがこの研究室にやって来るので結果は知られるのだが、自分の口からもちゃんと報告をしておこうと、テレーズは額から手を離して息をついた。

「何とか捕まえて、話をすることが出来ました」

「やっぱりそうか! 機嫌が良い訳だ!」


 ――ん? 


 朝から浮かれていたのは認めるが、俺はこの研究室に来てからもそんなに態度に出るほど機嫌良くしていただろうか。デュトワの反応にテレーズは内心首を傾げる。

 そのテレーズを見て、デュトワは内心でこっそりと笑った。今日のテレーズの授業の担当教授達が、デュトワと顔を合わせる度に、次々とテレーズの珍しい様子を面白がって報告してきてくれたのだ。

 また、テレーズが宣言するまでもなく、デュトワは彼が探す相手のこともグィノーから聞いて知っていた。簡単にではあるが事情の説明も受け、またグィノーの意向も伺い、デュトワは友人に協力すると答えていた。

 言ってしまえば、テレーズはグィノーの掌の上で走り回っていただけなのである。

 しかしさすがにそれを本人に暴露するほど、意地の悪い気持ちはデュトワにも、当然グィノーにもなかった。

 デュトワにとってテレーズは期待をかける可愛い学生であったし、グィノーも高等部時代からテレーズのことを知っている。また、グィノーから話を聞くところのチグサまでとは言わないが、テレーズもやはり周囲の人間に対する関心が欠けるきらいがあるので、そのテレーズがせっかくチグサという青年に自ら興味を抱いた気持ちに、水を差したくなかったのだ。

 そしてデュトワもまた、そんなテレーズを惹きつけたチグサ・ハツキという青年に関心があった。


「僕もチグサ君に会ってみたいねえ」

 ファイルを抱えながらそう呟くデュトワを、想像通りの反応だなと思いながら見下ろし、テレーズは片手で頭を掻いた。

「えーっと、ご期待は叶いますといいますか……」

 小さく答えたテレーズに、デュトワが目を輝かせてくる。

 別に教授を喜ばせようと思って、昨日待ち合わせの場所を決めた訳ではないのだけれどなと、テレーズが視線を泳がせていると、表からクラウディアの怒鳴り声が聞こえてきた。


「テス! あんたに美人のお客さん!」


 誰が来たのか考えるまでもない。

 約束通り、ハツキがここに来てくれたのだ。知らず、満面の笑みとなった。

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