猫のような君を追って 3
焦る気持ちのまま全速力で正門をくぐり、文学部研究棟に向かう。
建物の下から見上げると、グィノーの部屋の窓はまだ明かりが点いていた。階段を一段抜かしで走り、四階へと上る。
息せき切ったまま部屋の扉をノックして開けると、ちょうど帰宅するところだったらしい、研究室のボードリエ・アルノーにぶつけそうになった。
勢いよく扉が開いたことに驚いたアルノーだったが、呼吸を荒くしたテレーズの姿にぷっと吹き出した。
「何だい。珍しい人間が珍しい様子で」
「アルノーさん……ご無沙汰しています。先生は?」
「いらっしゃるよ」
笑いながらアルノーが場所を譲る。部屋の奥からは、机で学生のレポートの採点をしていたらしいグィノーが、眉間に皺を寄せてテレーズを睨んでいた。
「おまえは。もっと落ち着いて行動が出来ないのか」
「……申し訳ありません。どうしても先生にお伺いしなければならないことが出来たのです。今、お時間をいただいてよろしいでしょうか?」
テレーズの様子に、帰るところであったはずのアルノーは残ることを決めたようだった。彼が静かに扉を閉める。グィノーは机の上にレポートを広げたまま息をつき、テレーズの質問を許可した。
許されたことで口を開きかけたテレーズだったが、思い直して一呼吸置いた。先日、自分の質問の仕方でグィノーに注意を受けたばかりだ。
ここでまた同じことをしてしまったら、確実に雷が落ちる。
今日の質問は、前回グィノーから与えられた課題に関するものでもあるし、まずは課題の報告をしなければならないだろう。
「今日、チグサと会って話をすることが出来ました」
「ほう、頑張って見つけ出せたようだな。話も出来たとは上出来じゃないか」
テレーズの報告に、グィノーは感心したような様子を見せた。テレーズがハツキと会話をすることが出来たのがよほど意外ならしい。
だがテレーズの今日の感触では、グィノーやテオドール、ユージェーヌから聞いていた話とは異なり、彼は普通に会話が出来る人物だった。
グィノーがこう驚くほどに、彼は他人と話をしないというのだろうか。
テレーズはグィノーに首を傾げた。
「先生、お言葉ですが……俺の友人の話でも、彼は人と話をすることや、構われることを好まないとのことだったのですが、今日俺は彼から声をかけられましたよ? 他人の話は鵜呑みに出来ないと、気負っていた分、拍子抜けがしたのですが」
「チグサが? 自分から?」
テレーズの報告にグィノーの方が驚いたようだった。グィノーはテレーズの傍に立つアルノーと顔を見合わせると、首を横に振って肩をすくめた。
「おまえに彼の友人になってもらいたいと言ったのは、おまえの容姿が理由ではなかったのだが……、まさかあのチグサにも有効だったとはね……」
溜息混じり洩らされたグィノーの言葉に、アルノーがまた吹き出す。彼はさすがにこの研究室が長いだけあって、多くの学生に怖がられているグィノーに対して、テレーズ同様気を張ることなく接することの出来る人物だった。
テレーズもグィノーに対して吐息を吐いて答えた。
「先生。その理由も察しはついたのですが……さらりと俺とハツキ、酷いことを言われていませんか?」
「気のせいだろう。で、私がおまえに依頼したことの理由が解ったとのことだが、何だと考えたのだ?」
あっさりと躱されて逆に質問をされる。
テレーズの頭の中にある回答には、多分にハツキの個人的だと思われることが含まれているので、テレーズはちらりと横のアルノーに目を向けた。しかし、ヤウデン歴史・文化研究室に所属する院生が彼の正体に気づかない訳はないし、そもそも同じ研究室ということで、ハツキと過ごす時間が必然的に多くなるアルノーに対して、グィノーが事情を伝えていないということも考えにくい。
結局そのまま話すことにする。
「俺がヤウデンの
祭主とは、ヤウデン国教天之神道の最高位に立つ者のことだった。大神殿の最奥に坐し、年に一度の秋の大祭の時以外には表に出てくることはなく、只人にはまず目にすることは叶わない人物である。ヤウデン国において、祭主となる資格を持つ人物を出す家系はいくつかあるが、その資格を持つ人間の選定には明確な基準があった。
ちなみにテレーズとすぐ上の兄が祭主に拝謁することが出来た理由は、決して外国から来た賓客であったからということなどではない。
そもそもテレーズは家族と共に旅行でヤウデンに行ったに過ぎないし、仮にルクウンジュで何かしらの地位のある人間だからといって、やすやすと会える相手などではない。
自分達が祭主と出会うこととなった理由は、神猫を追いかけて迷い込んだ先が祭主の居室の中庭であったという、何とも情けないものだった。本来ならば大事になるところであったが、兄は弟を連れ戻そうとしてそうなってしまっただけであったこと、また一番の原因であるテレーズが年端もいかない幼子であったこと、そしてテレーズが追いかけて、最終的には撫でるだけではなく抱き上げることも出来た猫が、神殿内の神猫の中でも主と見做されており、祭主以外には人に触らせることもさせない猫だったため、特例で許され、更にその主の子である神猫を下賜されたのだった。
アオも親に似て人の好き嫌いが激しい。
その時テレーズが目にしたヤウデンの祭主は女性だった。癖のない艶やかな黒髪を長く膝裏まで伸ばし、白皙の美貌の中、赤い口唇とその瞳の色がとても印象的だった。
祭主の資格たるその瞳を持つ者には称号がある。
テレーズの答えにグィノーは頷いた。
それしかないとは思っていたものの、テレーズの中で更なる疑問が生まれる。
「──だったら何故彼は……ハツキはこんなところにいるのですか?」
「何故とは?」
当初彼の美しさにかまけて、それに気づくことも出来なかった自分が偉そうに言える立場では決してなかったのだが、貴方が解らないはずはないだろうと、冷静に問い返すグィノーに対して苛立ちを覚える。
「……ヤウデンの翠の宝玉。彼は翠玉ではありませんか?」
翠玉。
一般には黒髪と、茶色から焦茶色の瞳を持つヤウデン人であるが、祭主を出す家系にだけ翠の瞳を持つ子供が生まれて来ることがあった。
その者達は暁山の翠玉と呼ばれ、祭主となる資格を持つが、生まれてすぐに大神殿に引き取られ、祭主になるならないに関わらずその最奥から出ることなく一生を送るという。
「メールソー。おまえは一つ勘違いをしているぞ」
詰問調になりかけていたテレーズの質問に対して、グィノーは静かに指摘をした。
グィノーの言葉に、テレーズは自分が頭に血が上りかけていたのを自覚する。師からの指摘に気を取り直しはしたが、テレーズは自分がどうしてそんなにも躍起になっているのか気づいていなかった。
「俺の勘違いとは何でしょうか?」
「チグサが翠玉であるというおまえの推測は正しい。だがメールソー、ここはヤウデンではない。ルクウンジュだ。ベーヌ地方にヤウデンの風習が残っているとはいえ、ヤウデン国内と同じではない」
言われてみれば確かにそうだった。
ハツキの外見がヤウデンの血を濃く持つので、今、つい混同してしまっていたが、あの美しい中央ルクウンジュの言葉を話す彼は間違いなくルクウンジュ人であるし、当然ヤウデン国内の祭主の家系でもない。
「とはいえ、ベーヌのカザハヤ公爵家やベーヌの神殿の社家であるハギワラ家は、ルクウンジュに渡ってくる以前はヤウデンにおいて翠玉を出す家系であったし、ルクウンジュに来てからも何人かの翠玉が存在し、チグサを含め彼らは皆、ベーヌにおいて翠玉として崇められているらしいがね……ベーヌではセーハイネの翠玉というそうだ」
セーハイネはベーヌ地方にある代表的な山の一つである。テレーズの知るところでは、ヤウデンの移民が入植するずっと以前から、ベーヌの山岳ラティルトの間において山岳信仰の対象となっている山であるはずだった。
「ベーヌでは、旧来の山岳ラティルトの持っていた精霊信仰及び山岳信仰が、ヤウデンの移民が持ち込んだ天之神道と混合し、その天之神道もヤウデン本国とはいささか形態の異なる宗教となっている。そのため翠玉に関しても、本国よりも大らかな扱いであるそうだ。……まあ、いくつか理由はあるが、チグサがここにいることはさしておかしいことではない。しかしせっかく話をするほどの仲になれたのだ。これ以上のことは、私より本人に訊いた方が良いのではないか?」
「はい。先生のおっしゃる通りです」
グィノーの言う通り、大切なことは他人からではなく本人から教えて貰いたいと思う。
またそれを教えて貰えるくらい、彼とは親しくなりたかった。
「お時間をいただき、ありがとうございました」
テレーズが頭を下げると、グィノーは笑った。
教授のくつくつという可笑しそうな笑い声にテレーズは眉間に皺を寄せ、礼をした恰好のまま頭だけを上げてグィノーを見た。
顔を上げたテレーズに、面白そうにグィノーが言う。
「まったく……チグサもだが、おまえが他人に執着するのも珍しいじゃないか。よっぽどあの顔が気に入ったのか?」
「先生……確かに顔につられて、彼が翠玉であることに全く気がつかなかった俺が言っても説得力はありませんが、ハツキは話をしたらとても楽しい相手でしたよ」
「まあ、考え方はしっかりしているし、知識も洞察力もある学生だから、おまえとも話が合うだろう」
これは買いかぶりである。今日の自分達の会話は、決してグィノーが思っているような高尚なものではなかった。
グィノーと話をして、一番知りたかったことは教えてもらえた。これ以上長居をしてグィノーの邪魔をすることは失礼になる。テレーズは再度グィノーに礼をすると、研究室を辞した。横で会話を聞いていたアルノーも一緒に部屋を出る。
必然的に彼と並んで廊下を歩くことになった。
「アルノーさん」
「何だい?」
グィノーに直接訊くにはいささか気が引ける質問も、親切で大らかなこの先輩には気安く出来る。呼びかけに軽く返事をしてくれたアルノーに、テレーズはまだ心に残っていた質問を投げかけた。
「グィノー先生の口振りや、俺の友人の話でもそうだったのですが……ハツキはそんなに人と話をしないのですか?」
俯き加減で歩きながら質問をしたテレーズを、彼とほぼ同じ身長のアルノーは横目でちらりと見て、また視線を前方に戻した。
「僕は研究室でのハツキ君しか知らないけれど、僕の知る限りにおいてはそうだな。用がなければ自分から話しかけてはこないし、こちらから話しかけても必要最小限の返事しかない。世間話などもってのほかだ」
教室にいた時の姿は、確かにアルノーや他の皆が言う通りの雰囲気だった。
けれども、さっきまで一緒にいた姿はまるで違っていた。
他人とは違う態度で彼から接してもらえることに嬉しさを感じるのは事実だ。だが、そのあまりもの落差に寂しさも感じてしまう。握手の手を差し出した時に不自然に感じた彼の反応も、その理由が解ったら、それも寂しさを増す原因となった。
彼は今まで人と握手をしたこともなかったのだろう。
最初にグィノーは言っていた。ベーヌに彼と同世代の友人は一人もいなかったと。
そして、テレーズが美しいと思う彼の翠の瞳。しかし彼自身は明らかにそれを嫌っている。
「……ハツキから声をかけられて、俺、本当に嬉しかったんです」
「それについては、さすがヤウデンの神猫をもたらし込むテレーズだと言っておくよ」
アルノーの軽口にテレーズも笑った。
「確かに彼、何だか猫みたいなところがあります」
「だろう? あの子は人との付き合い方が全然解っていないだけで、外見だけでなく可愛いところが沢山あるよ。グィノー先生と僕は、彼の事情も解っているから気長に付き合っていくさ。でも君が彼と仲良く出来るのなら、それに越したことはない。僕からもよろしく頼む」
やはりここはもう、彼を特別視する者達ばかりのベーヌではない。ちゃんと彼自身を見守ってくれる先生も先輩もいる。
彼が自分に笑いかけてくれたのは嬉しかった。
けれどだからといって、それを独占したいとは思わない。彼が誰に対しても笑えるようになることが出来れば、もっといいと思う。
つい自分でも混同してしまっていたが、ここはルクウンジュの王都ヴィレドコーリであって、ヤウデンでもベーヌでもない。ここでは彼が翠玉であるということも意味を成さないのではないだろうか。
出来ればそうであって欲しい。
「はい。俺ももっと彼と親しくなりたいと思います」
返事をすると、階段を降りながらアルノーはテレーズの頭をぽんと軽く叩いた。
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