猫のような君を追って 2


 知らず、彼が気に障ることを言ってしまったのだろうか。

 不安になり彼の様子を注視する。


 しばらくじっと考え込むようにしていたハツキだったが、テレーズが傍で見つめていることには気づかず、俯いたまま美しい所作で卓上に置かれていたポットから手許のカップに紅茶を注いだ。カップに半分ほど入れたところでポットを置いて、細い指をカップの持ち手にかける。そして左手も添えてカップを口許に運んだ。

 紅茶の香気に、ふと彼の緑の瞳の目許が緩む。


 ──ああ、やっぱり……


「綺麗な瞳だな」

 思いは口から零れ出た。

 テレーズの言葉に、何故か不自然な程ハツキは驚いて動きを止め、目を見開いてこちらを見つめてきた。そんな表情で凝視されると、更に彼の瞳が際立ち、その色がよく解る。

 緑よりもまだ尚深い。

 驚きの後、訝しげに首を傾げたハツキにテレーズは笑いかけた。


「うん。やっぱり綺麗だ。その瞳の色、翡翠の翠のみどり色だよな。ハツキによく似合っている」

 それはテレーズにとって素直な感想だったが、ハツキは手にしていたカップをそのまま卓上に戻すと、疑わしげな眼差しをテレーズへ向けてきた。

「何言っているんだ……」

「え? 何で?」テレーズにはハツキの反応の方が不思議だった。彼の美しい顔によく似合う、素晴らしい色の瞳であるというのに、何を疑っているのだろうか。

「言われたことないのか?」

「──身内の贔屓目ならまだともかく、他人からなんてないよ」

「何だ。皆、見る目ないなあ」

「……ヤウデン系でこんな瞳の色なんて、物珍しいだけじゃないか」


 吐き捨てるように言うと、ハツキはテレーズから顔を逸らした。そのままカウンターに肘をついた手で口許を押さえ、俯いてしまう。

 ヤウデン系の顔立ちなので珍しいといえば珍しいが、この王都やベーヌ以外のルクウンジュ国内においては、彼の翠の瞳は突出して目立つ訳ではない。


 ──けど、ベーヌでは違っていた?


 彼の地元においては、こうやってあからさまに拒絶を見せるようになるほど奇異の目で見られていたのだろうか。


 ──ヤウデン系で、翠の瞳……


 ふと、何かを思い出しそうになったが、それを深く考えることよりも、テレーズの不用意な発言でかなり気分を害してしまったらしいハツキの機嫌を直す方が先決だった。

「気に障ったのなら、ごめん」

 ぴくんと肩を揺らすと、ハツキは更に顔を逸らせた。よっぽど瞳のことには触れられたくないらしい。

 だがここはもう、彼の瞳を奇異に見る者の多いベーヌではない。せっかくの彼の素晴らしい宝玉を、そんな風に俯いて隠してしまうのはあまりにもったいない。


 ──いや、それよりも。

 自分が彼のその瞳をずっと見ていたい。


 自分の内なる欲求は隠し、テレーズは顔を逸らすハツキを諭すように優しく言葉を継いだ。

「でもさ、ハツキ。君の瞳の色は、ヤウデン系としては確かに珍しいのだろうけど、俺は好きだな。その翠色、君の綺麗な顔に似合っていて、とてもいい」

「綺麗な顔って……君のように容姿の整った人から言われると、冗談にしか聞こえないのだけど」


 顔は背けたままだったが、ハツキがそう言い返してきた。彼からの反応があったことにほっとして、その反論を笑い飛ばす。

「いや、俺の顔が整っているのも事実だけどさ!」

 テレーズの言葉にハツキが呆れた顔を向けてきた。

 その反応も先程の憎まれ口も、彼の素直さを表すのに他ならなかった。こんな彼が可愛らしく思えてたまらない。耐えられなくなったテレーズは思わずハツキに手を伸ばしていた。

「う、わ……!」

 額に触れられたハツキは驚いて首をすくめた。

 その仕草もあまりに可愛くて、テレーズは笑い声をあげた。

「俺の容姿に関係なく、ハツキが美人なのも事実だろう?」

「美人って……! そんなこと男に言っても仕方ないじゃないか。女の人に言おうよ……!」


 テレーズの手を払おうと抵抗しながらハツキはそう言ってきたが、テレーズはそう思わなかった。男でも女でも、自分が美しいと思った相手にこそ言いたい言葉だ。

 そしてハツキは、テレーズにそう言いたいと思わせる相手だった。

 ハツキの細い手首を掴むと、彼は悔しそうに睨んできた。

 一体彼は、他にどんな表情をするというのだろう。

「君、実はすごいたらしなのかい?」

 それは酷い誤解だ。触れてみたいのも、その顔を彩る表情を見てみたいのも彼だからだ。

「そんなことはないぞ。普段こんなこと人に言わないって」

 言いながら彼の手を放すと、ハツキはカウンターに向き直って、赤くなった頬を両手で押さえた。よく見ると耳まで赤くなっている。

 他人の話などあてにならない。

 彼はこんなにも表情豊かで、そして見た目通り美人で可愛い人ではないか。

 自分でも自分が浮かれているのが解った。


「ごめん。今、会ったばかりなのにな。ハツキがあんまり可愛いから、つい調子に乗ってしまった」

「だから、そんなこと男に言っても……」と、テレーズに抗議している最中にハツキはふと我に返って、ここがどこであるのかを思い出したようだった。目立つことに慣れているテレーズは、今自分がどこにいるのかしっかり認識した上でやりたいようにやっていたが、ハツキは違う。

 周囲の様子に更に顔を赤くする彼の姿が可愛くて、そして可笑しくて、けれど笑いは耐えて涼しい顔でテレーズは珈琲を飲んだ。

 赤い顔のままそんなテレーズを睨んでいたハツキだが、しばらくして顔色が戻ると、頬を押さえていた手を下ろした。

 そして、「ごめん」とテレーズに顔を向けて謝罪をしてきた。

「僕の方こそ嫌な態度を取ってしまった。許してくれると嬉しい」

 やっぱり彼は素敵だ。

 テレーズは珈琲のカップを置いてハツキへ微笑んだ。


「許すも何も、俺が考えなしにハツキが気を悪くするようなことを言ってしまったんだろ? まあ、お互い様ってことで。ところでさ」

 実は最初から気になっていた、ハツキの手許の本を指した。

「それ、ヤウデン国史だろ? やっぱ興味あるの?」

 訊いてはみたものの、グィノーの推薦で王立学院大学に入学し、すでにグィノーの研究室に所属しているハツキがヤウデンについて興味を持っていない訳はなかった。

 しかし、まさかテレーズがグィノーと繋がりがあるとは知らないハツキは、テレーズからの質問に本の表紙を撫でながら微笑した。

「そうだね。ヤウデンの歴史だけでなく、風土や文化、宗教のこと。色々興味があるね」

「俺、行ったことあるぜ」

「へえ!」テレーズの告白に、ハツキは驚いた声を上げてこちらを見てきた。


 海外への旅行は、時間も費用もかかるので行くことが出来る人間は非常に限られている。だが、テレーズは家が裕福であったし、本来メールソーの家の本業は貿易業で、ヤウデン国とも昔から縁が深かった。そのためテレーズは、幼い頃に家族旅行でヤウデンへ行ったことがあったのだった。

 テレーズが実際にヤウデンに行ったことがあると知ったハツキは、興味津々な様子でその旅行のことを尋ねてきた。けれど自分がまだ幼い子供だったこともあって、両親や兄達と共に行くには行ったが、飛行船で片道三日ほどかかる道中のことも、ヤウデン国内のこともあまり良く覚えていないと正直に白状すると、ハツキに笑われた。

 テレーズも一緒になって笑う。

「でも、一つだけしっかりと覚えていることがある」

「へえ、それは何?」笑いを含んだ声で続きを促したハツキの顔を、いや正しくは彼の翠の瞳を目にして、その時やっと思い出した。


 何故気づかなかったのだろうと、己の不明さ加減に恥ずかしくなる。

 グィノーに呆れられて当然だった。あの教授はテレーズが彼の人物に会ったことがあるのを知っている。

 ハツキに対する最大の驚きを飲み込んで、テレーズは落ち着いた声で答えた。



天之神道あめのしんとう大神殿」



 テレーズの答えにハツキは僅かに瞠目し、刹那息を止めた。だが、それだけだった。

 ふわりと彼が微笑む。

「……そうなんだ。子供でも解るくらい」

 彼の反応に少々拍子抜けしながらテレーズは続けた。

「ああ。あの敷地って神域っていうの? 道は砂利で敷き詰められていて、いくつもの木造の建物があって、大きな木も沢山生えていて……空気がまるで違っていた。あと、そう。猫が沢山いてさ」


 そうあの時、翠の目をした黒い長毛の猫が、こちら向けてまるで誘うように、彼のふさふさとした長い尻尾を一振りしたのだ。

 幼かったテレーズはその尻尾に魅入られ、四男の制止も振り切ってゆっくりと歩いて行くその猫を追いかけていった。そしてテレーズを追って一緒にやってきていた四番目の兄と共に、神殿の最奥まで迷い込んでしまったのだ。

 自分達が迷い込んだことも気づかないままテレーズは、白い玉砂利が敷かれ、周囲を高い木の塀で囲まれた風変わりな庭の真ん中にある、苔むした大岩の上で足を止めた猫に走り寄っていった。そこで毛繕いを始めた彼をやっと触ることが出来たのだ。

 柔らかな毛並みの背中を撫でてやると、黒猫はテレーズの方へ顔を伸ばし、さりさりとした舌で頬を舐めてくれた。呆れたようにテレーズの肩に手を乗せた兄の手にも、彼は嬉しそうに頭をすり寄せた。


神猫しんびようだね」

 天之神道の神殿にいる猫は総じて神猫と呼ばれるそうだが、本来の意味での神猫とは、元々天之神道大神殿とその神奈備である暁山ぎようせんにしか棲息していない、黒く長い被毛と翠の瞳を持つギョウセンネコのことを指す。

 テレーズの飼い猫のアオも、その時に譲り受けたギョウセンネコだった。

「そうそう、神猫。俺、昔から猫好きだったもんだから、あんなに沢山の猫がいるのが嬉しくなって、それで記憶に残っているんだろうな」

 猫が沢山いて嬉しかったのは事実だ。けれど、あの場所を今でもはっきりと覚えているのは、それが理由ではない。

「そうなんだ」

 テレーズの話を聞き、ハツキは頬杖をついて遠い目をした。

「ベーヌのヤウデン系としては、一度は参りに行きたいけれど、いかんせん遠いんだよね」

 翠の瞳が遠い異国の地への憧れに細められる。


 ──将来、もし君があそこへ行くことがあるにしても、単なる参拝では済まないんじゃないか?


 ハツキのそんな横顔を目にしながら、テレーズはそう思った。

 けれど今、自分の気づいたことを口にして、せっかく築けそうな彼との関係を壊すことは避けたかった。ハツキの調子に合わせて、テレーズも軽く笑って応じる。

「だよなあ。でもまあ、きっと、将来はもっと行きやすくなっているに違いない」

「だといいね」

 くすりと笑ってハツキは紅茶を口にした。

 彼のそんな些細な所作ですら、テレーズの気持ちを引き寄せてやまない。


 彼に見惚れていると、カウンター内の壁に掛けられている振り子時計が時報を打った。それがハツキの帰宅の時間の合図だった。その合図を受けて今日はお開きとなる。

 しかし、揃って喫茶店から出て一緒に歩くバス停までの道すがら、彼の方からテレーズとまた話をしたいと言ってきた。

 並んで歩くと、ヤウデン系にしては長身ではあるものの、ラティルトでも長身の部類に入るテレーズよりもハツキの身長は十センチ程低かった。彼が、その彼だけのものである翠の瞳でこちらを見上げながらそんなことを言ってきてくれる嬉しさと、あまりにも自分の望み通りにことが進んでいる事実に感じる畏れが、自分の中でない交ぜになる。

 何よりも、どうしてこんな人物がここにいるのだろうかという疑問は大きい。しかし、それを直接彼に尋ねる勇気はなかった。


 明日、また学校で会おうと約束をし、バス停で他愛もない会話をしているとハツキの乗るバスがやって来た。テレーズに別れの挨拶をしてハツキがバスに乗り込む。

 発車の間際、車両の中程にいるハツキに手を振ると、通勤通学帰りの人々で混雑したバスの中から、彼も小さく手を上げてはにかんだ笑いで返してくれた。


     ※


 ハツキが乗ったバスが走り去るのを見届けると、テレーズは踵を返して大学へと戻った。

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