3.猫のような君を追って

猫のような君を追って 1


 翌日は研究室に顔を出した際に、同じ班で実験を行う先輩に捕まり、気合いを入れ直したばかりのチグサ探しに出遅れてしまった。


 自分で検算なり何なりすれば済むような問題を尋ねてきた相手に心中で文句を言いながら研究棟の階段を急いで降りる。

 そのまま、特に意識をしないで大講堂の方へ歩きながら、今日はどの辺りに行ってみようかと考えた。少し敷地の離れた農学部の方に足を向けてみるのもいいかもしれない。そう思いつつ、大講堂から文学部の敷地を抜けて正門へ続く石畳の道を歩いていると、下校する学生の群れの中に、ほっそりとした黒髪の人物を見つけた。


 あれ?と思い、立ち止まって相手を確認する。


 すると直感通り、それが周囲には目もくれず正門方向へ歩いて行くチグサであることが解った。

 やっと見つけた相手に左手の指を鳴らす。そしてテレーズは早速チグサを追いかけ始めた。


     ※


 テレーズに追われていることも知らず、チグサは正門を抜けて正門前の大通りを渡り、クルーヌ河河畔に向かう道を行った。そして不意に右手の路地に入った。

 せっかく見つけた相手を見失ってたまるかと、テレーズも慌てて同じ路地に入る。

 テラスハウスの裏側になっている細い路地は、人通りは少ないものの、路地に面した家の窓にはゼラニウムの鉢が赤や白の花を咲かせ、道も綺麗に掃き清められていた。下り勾配の石畳の道は左へカーブを描いていて、この道も川沿いに出るようだった。


 ──猫みたいな奴だな。


 軽い足取りでテレーズの先を歩くチグサの姿に、ふとそう思った。グィノーの言っていた気儘にうろうろとは、正しくその通りだ。

 路地を道なりに進むと、予想通りクルーヌ河沿いのギー通りに出るようだった。

 チグサはギー通りに出ると、角を右に曲がって行った。

 少し遅れてテレーズもギー通りに出る。右方向に目をやると、今が花も盛りのマロニエ並木の歩道を行くチグサの背中が見えた。

 彼は通りを一ブロックほど進むと、道沿いの一軒の喫茶店に慣れた様子で入っていった。


 チグサが店の中に消えたのを見て、テレーズは足を止めた。向こうはこちらが後をつけてきたことに気づいていないだろう。だが、すぐに同じ店内に入るのはわざとらしい気がしたのだ。

 そしてもう一つ、テレーズが足を止めた大きな理由があった。

 やっと訪れたチグサの傍に行ける機会であるのだが、何と言って彼に声をかけたらいいのか、テレーズは何も考えていなかったのだ。

 どうするかなと道端で思案し始める。だが、咄嗟に良い考えが浮かんでくる訳でもない。


 ──仕方ない。


 腹をくくって、テレーズはまあいいかと軽く肩をすくめた。まずはこの機会を無駄にはしたくない。話は出来なくとも、自分の存在を彼に知ってもらうだけでも意味があるはずだ。

 学年一、いや学内一目立つ姿をしていると言っても過言ではないテレーズのこの心境を他人が知れば、何を言っているのかと呆れ果てたかもしれない。けれど、今まで自分から積極的に他人に関わろうなどと考えたこともなかったテレーズにとっては切実な思いだった。

 気分を高揚させるため、大股で勢いよく歩いて店の前まで行く。そこで大きく深呼吸をすると、テレーズはチグサが入っていった、年季が入り鈍い艶を放つ木の扉を開いた。



 ドアクローザーに付けられた鐘がカラコロンと柔らかな音を立てて、テレーズの来店を知らせる。いらっしゃい、とカウンターの中にいる人の好さそうなマスターが声をかけてきた。

 珈琲の芳香漂うさほど広くない店内を見回すまでもなく、すぐにカウンターの席で本を読むチグサの姿を見つけることが出来た。

 内心緊張しつつ、同じカウンターに一つ席を空けて着く。

 とりあえずまずは何か注文を決めようとカウンターの上のメニューを手に取った目の端で、チグサが読んでいた本から顔を上げ、こちらを見つめていることに気がついた。


 彼の視線にとくんと心臓が鳴る。


 テレーズの頭の中は注文どころではなくなったが、しかしこんな初っぱなから相手に自分が取り乱しているような姿を見せる訳にはいかなかった。焦りの中で、これだけ年季の入った店ならば間違いはないだろうと判断してブレンドの珈琲を頼む。それからテレーズは、ぎこちなくならないよう細心の注意を払いながらメニューを元に戻し、最後にチグサへ顔を向けた。


 ──あ……本当だ……


 ユージェーヌの言っていた、緑色の瞳がこちらに向けられていた。

 テレーズが顔を向ける時、こちらを見つめていたチグサは僅かに決まり悪そうな表情をした。それに気づいたので、テレーズは彼のその緑の瞳と目が合った瞬間、彼に視線を逸らされる前に微笑して見せた。

 自分の顔が整っているのは充分自覚している。こんな時こそ利用しない手はない。

 そんなテレーズの思惑も知らず、チグサはテレーズの微笑を見て最初は軽く瞠目したものの、すぐに小さく首を傾げながら微笑みを返してきた。癖のない、艶やかな黒い長めの前髪が目許にかかる。

 遠目に一目見ただけで心奪われていた相手に、間近でこんな可愛らしい笑みを見せられて息を飲みそうになったが、それだけではなかった。


「綺麗な金髪だね。まるで輝いているみたいだ」


 成人男性にしては高い、まるで少年のような柔らかく心地よい声だった。

 誰が気難しくて、人と話もしないというのだろう。

 まさかチグサから声をかけられるとは、全く想像もしていなかった。

 今度こそ息を飲む。

 だが、相手に不審がらせてはいけないと、気合いで更に笑ってみせた。

 意識を切り替える。チグサから話しかけてきてくれたのだ。こちらから何を話そうか悩まなくていいのはむしろ有難いことではないか。

 

「ありがとう」

 テレーズが礼を言うと、チグサは微笑んだまま、また小さく首を横にし、手許の本を閉じた。テレーズとの会話を続けるつもりらしい彼の姿に嬉しくなる。

 そしてチグサは再び口を開いた。

「その見事な金髪──四月芽月の入学式の日、遠くから君を見かけたような気がするのだけど、君も大学部の一年生?」

 何だ、と途端に気が抜けた。彼の方がテレーズよりもずっと先にこちらを見つけてくれていたのだ。


 この髪を伸ばしていたのは正しかった。

 やっと、見つけてもらえた。


「自分で言うのも何だけれど、目立つもんなこの髪。きっとそれ、俺だ。俺は理工学部の一年だよ。君は──……」

「チグサ。チグサ・ハツキ。文学部だ」

 テレーズの言葉を遮ってチグサは名乗った。彼から歩み寄って来てくれているのが嬉しくて、だったら別段見栄を張ることもないと、普段やるようにカウンターに片肘をついて手に頬を乗せた。

 ただ話をしているだけなのに、楽しくなってくるのが不思議だった。

「文学部のチグサね。俺はメールソー・テレーズ。同じ王立学院ってことでよろしく。でさ」と、チグサとの間に空けていた席を指す。「早速だけど、せっかくなんで席、そちらに詰めていいか?」

「どうぞ、メールソー君」笑いながらチグサは即答してくれたが、彼からそんな他人行儀な呼ばれ方はされたくなかった。柔らかな彼のその声に、名前を呼ばれてみたい。それは一体どんな感触を自分に与えてくれるのだろう。

 その思いは顔に出さず、席を移りながら出来るだけ気安げに言ってみる。


「俺のことはテレーズでいいよ」


 それを聞いて、チグサは軽く覗き込んでくるような恰好でテレーズの目を真っ直ぐに見つめてきた。嬉しそうな表情の彼の唇が動く。

「だったらテレーズ、僕のこともハツキでいい」


 そわり、と背中を微細な電流が走った。


 教室での、あの人を寄せ付けない冷たく硬い雰囲気とは全く違う態度と声だった。

 あの時見た、醒めた表情の彼も綺麗だと思った。けれども、微笑しながら上目遣いにこちらを見る、長い睫毛に縁取られた巴旦杏の形をした目、通った鼻筋、笑みの形に弓なりになった口許、柔らかそうな頬から細い顎に至るまでの整った輪郭、そして何よりも特徴的な、輝く宝石のような緑の瞳、それらが作り出す彼の造作は、彼の持つヤウデンの濃い血を表してラティルト人に比べて彫りは浅かったが、一つ一つが均衡良く配置されており、こうやってすぐ傍で微笑まれるとますます美しさが際立った。

 視覚で感じて感激するだけでなく、磁器のごとくの滑らかな肌のその頬や、絹糸のように艶やかなその黒髪に自分の手で触れてみたくなる。

 辛うじてそんな欲求は飲み込み、テレーズはハツキに片手を差し出した。

「解った。じゃあハツキ、改めてだけどよろしく」


 すると彼は顔から笑みを消し、テレーズが差し出した手を不思議そうに凝視してきた。

 あれ、と怪訝に思う。

 ベーヌのヤウデン系に握手の習慣がないとは特に聞いたことがない。それに、国の元老を出すような家系に連なる家柄の出身で、今までその機会がなかったというのも考えにくい。

 こちらが思わず首を傾げたことで、ハツキもテレーズが彼の仕草に対して怪訝に感じていることに気づいたようだった。そしてようやくテレーズの行動の意味を理解したらしく、彼も手を出してきた。

 優美な造作と、そしてラティルトよりも骨格の細いヤウデン系の中でも華奢で通りそうな肢体から想像出来た通り、形良く細い指をした手だったが、握られてみると見た目に反して意外と手の皮が厚くなっている箇所があるのに気がついた。ひんやりとした手を握り返しながら、武術でもやっているのかなと思う。

 ハツキの顔に目を向けてみると、彼は握手を交わす手を見つめながら、少し頬を赤らめ嬉しそうに微笑んでいた。


 もしかしたら彼は、テレーズが思う以上に不思議な人物なのかも知れない。

 けれどあまりに可愛らしい彼の表情に、そんな詮索などどうでもいいと思った。その不思議ささえも彼の魅力なのだ。何よりもまず彼と親しくなりたい。

 握手を済ますと、テレーズが注文していた珈琲が出された。カウンターの中からマスターは会話の頃合いを見計らってくれていたらしい。そんなマスターの淹れる珈琲は期待通り薫り良く、また味も焙煎の深いテレーズ好みの味だった。

 会話の突端は掴むことが出来たし、珈琲の味も良かったので気分が良く、その質問も彼のことをもっと彼自身から教えて欲しいというだけで、特に深い意味などなかった。


「ところで、君の名前と顔立ち、ハツキはベーヌの出身か?」

「──……うん、そう。ベーヌの出身だよ」


 彼からの回答には微妙な間があった。


 彼の外見からしたら普通に訊かれそうなことであるし、ルクウンジュでヤウデン系の人間といえば、大概がベーヌ出身であるというのが一般的だ。

 確かに、今会話した限りにおいては、彼の話す言葉にはベーヌの訛はなく、美しい中央ルクウンジュの発音で話していたが、それは彼の家柄を考えたらおかしなことではない。テレーズのその質問が、何か問題があるということはないはずだった。

 ハツキのその間を怪訝に感じ、テレーズは横目で彼を伺った。


 テレーズの隣の席でハツキは表情を消して俯き、目を伏せてしまっていた。

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