春の風に君の髪が 3
グィノーの言う通り、チグサは随分気儘に、またベーヌで野外調査を行っていたという健脚をもって、広範囲にわたって探検をしているようだった。
グィノーに会った当日の放課後から、デュトワ教授やクラウディアにまで宣言をしてチグサ探しを始めたテレーズである。
「楽しそうなことを始めたんだねえ。結果の報告を期待しているよ」
デュトワはこう言って鷹揚に笑い、クラウディアも「ま、頑張りなさいよ」と背中を叩いて応援してくれた。
友人二人の反応もそれぞれだった。テレーズが本腰を入れてチグサに近づこうとしていることを知ったテオドールは心底呆れた顔をし、ユージェーヌは面白そうに笑った。
だがそうしながらも、長い付き合いの二人もテレーズを応援してきてくれた。
しかし本人のやる気と周囲の応援にも関わらず、現実ではそう簡単に彼と遭遇することは叶わなかった。
初めて彼を見かけてから十日以上が経ち、
※
上手くいかない状況に自室でふて腐れていると、黒猫のアオがやってきた。
飼い主の様子には全く頓着することなく、構ってくれと擦り寄ってきて足元で腹を見せる。仕方なくベッドに連れて行って、長い毛の腹をわしわしと撫でてやると、満足そうに喉を鳴らし始めた。
「テス、いるか?」
そう言って扉をノックして部屋に来たのはアルベールだった。
相変わらずの調子でテレーズにボンヴィーデ行きを誘ってきたが、当然乗り気になどなれなかった。即座に断ったのでアルベールはそのまま一人で行くと思われたのに、テレーズの予想に反して彼は部屋に入ってきた。
勝手に机の前の椅子をベッドの傍に持って来て、背もたれを前にして座る。
嫌な予感がして、テレーズは喉を鳴らしてベッドの上に伸びていたアオを抱いた。アオが怪訝そうに翠の瞳をテレーズに向けてくる。
「アル、何だよ」
機嫌の悪い弟に、アルベールはにやにやと笑ってきた。
「珍しくおまえが悩んでいるようだから、何があったのかと思ってな」
「兄貴には関係ないだろ」
「何を言っている!」つっけんどんな物言いの弟に対して、大仰に両手を広げてみせる。
「可愛い可愛い弟が悩んでいるのを、面白がらない兄貴がいないはずないだろう!」
案の定面白がられているだけなのが判明し、アルベールに向けるテレーズの目が据わったが、この三番目の兄が末弟のそんな様子を気にするはずもなかった。椅子の背に頬杖をついてこちらを見る姿に、彼がテレーズから話を聞き出そうという気満々であるのが見て取れる。
腕力だけでなく、強引さでもテレーズはアルベールに勝てた試しがない。
観念して、彼はふいと兄から顔を逸らせた。
負けを認めた弟の姿にアルベールは目を細める。
「……悩んでなんかいない。ちょっといらいらしているだけだ」
「それだけでも充分珍しいけれどなあ。大体においておまえは自信家で、自分の行きたい方向に真っ直ぐに進んでいくからな」
意外な言葉だった。テレーズはアルベールにそう言われるほど、自分に自信を持っている訳ではない。ただ、自分として出来ると思えることをしているだけに過ぎない。
そんな自分などより、アルベールも含めた兄達全員の方がよっぽど自分自身を信じているような気がする。その信念によって全員名を上げているのであるし、アルベールなど、だからこそ今でも空を飛んでいるのではないだろうか。
アルベールへ目を向けると、彼はまだ笑ったままだった。
「それで、何に苛ついているんだ?」
「……学校で気になる人を見つけて、話をしたくて探しているのに、会うことも出来なくて」
テレーズの理由を聞くと、アルベールは片手で顔を押さえ、肩を震わせて笑い出した。己でも恥ずかしい理由だと自覚しているテレーズは顔を赤くして、再びアルベールから顔を逸らした。
落ち着きなく動く飼い主に、テレーズの手許に収まっていたアオが不満そうに前脚を伸ばす。
「何だ、おまえでもそんなことがあるんだな!」
「いいじゃないか! 今まで見たこともないほど綺麗な奴だったんだ!」
「おまえにそこまで言わせるとはねえ……」
感心したように呟くと、その呟きに眉を顰めたテレーズにアルベールはまたも快闊に笑った。
「うちの自慢の美男末弟が面食いとはね! 無事にその彼と話をすることが出来て、友達にもなれたあかつきには、是非ともその子をうちに連れて来て貰いたいもんだ」
「……何で男って解るんだよ。それに連れて来いだなんて……どういうことだよ?」
「女性に対して『奴』とは言わないだろう? 連れて来いっていうのは、おまえに興味を抱かせた相手を見てみたい好奇心ってやつだな」
ひとしきり笑うと、アルベールはあっさりと立ち上がり、椅子を元の場所へ戻した。そして再びテレーズの傍にやって来ると、年の離れた弟の頭をぽんぽんと軽く叩いた。
兄から幼い子供にするようにされ、テレーズがまたむくれる。
「たまには思うように行かないことがあってもいいじゃないか。俺達などしょっちゅうだぞ? そんな苛々せずに、もうちょっと心に余裕を持って、せっかくの素敵な鬼ごっこを楽しめよ」
むくれているテレーズの頭をもう一度叩くと、アルベールはひらひらと手を振ってテレーズの部屋から出ていった。
部屋に残されたテレーズは、アルベールの出ていった扉を見て溜息をつくと、膝の上で丸くなりかけている猫の両前脚を軽く掴んだ。アオは小さく抗議の声を上げたものの、すぐに喉を鳴らしてテレーズの手に頭をすり寄せてきた。
もうすぐ十四歳になる雄猫のアオは、家族の中でもテレーズと、現在は家を離れている四番目の兄のニコラにしか懐いていない。屋敷のいたるところに作られている猫用の出入り口を使って、他の猫達と一緒に敷地を闊歩することも楽しんでいるが、屋敷の中ではテレーズの部屋にいることが殆どだった。
「鬼ごっこって、なあ。アオは得意だろうけどさ」
名前を呼ばれたアオは、面倒くさそうに長い尻尾をぱたんと一振りした。
話を聞く気もないアオの態度にテレーズはまたも溜息をつくと、アオをベッドの上に置いて立ち上がった。ベッドに乗せられたアオは横になったまま全身で伸びをして、前脚で顔を覆うようにして再び丸くなった。本格的に寝るらしい。
アルベールの言うことももっともだった。自分がしようと思って始めたことを、多少上手くいかないからといって苛々しても仕方がなかった。本当に嫌になればやめてしまえばいいだけのことだ。
もっとも、テレーズはやめる気も諦める気もさらさらなかった。
普段は適当だなと思うことも多い兄だが、さすがにこちらを良く見てくれている。
アルベールに励まされて、気分を落ち着かせることが出来た。
──明日もまた、チグサ・ハツキと追いかけっこが出来るんだな。
今度は何だか楽しくなってきて、テレーズは一人笑いながら肩をすくめた。
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