春の風に君の髪が 2
文学部研究棟に足を踏み入れるのは久しぶりだった。高等部時代には何度も訪れた建物の中を四階へ向かう。
この建物の周囲には、ヤウデン国から寄贈され植えられている紅葉の木が多くあり、四階の廊下の窓からも新緑の若葉を見下ろすことが出来た。
木々を眺めつつ、建物東端にあるグィノー教授のヤウデン歴史・文化研究室の前に来る。テレーズは軽くノックをすると、遠慮なく研究室の扉を開けた。
予期せぬ来訪者に、部屋の奥、窓を背にした席でカップ片手に研究誌らしい冊子を読んでいた人物が顔を上げる。
麦藁色の髪をきっちりと撫付け、榛色の厳しい表情をした細面の顔がテレーズの姿を見て顰められた。
相手の表情を気にせずに、テレーズは小さく頭を下げると部屋に入り、後ろ手に扉を閉めた。
他用があるのかアルノーも留守にしているようで、室内にはグィノー以外誰もいなかった。
「ご無沙汰しています、グィノー先生」
「何だ。この不義理者が」
「申し訳ありません。まあ、結構忙しくもしていまして……」
グィノーはヤウデン国歴史および文化学の教授だった。幼い頃に家族でヤウデンに訪れたことがあるテレーズは、彼の国に興味を持っており、高等部時代には大学部でグィノーが講義を行うヤウデン国史を受講し、この研究室にも足繁く通っていたのである。
だが、大学の学部は当初からの予定通り理工学部を選択した。そして一年次からデュトワの航空工学研究室に入ったので、大学部へ進学後は授業や実験で忙しくなってしまい、こちらに顔を出す機会を失っていたのだった。
グィノーは溜息を一つつくと、机のすぐ傍に立ったテレーズを見上げた。
「で、今日は何の用だ?」
「先生にお伺いしたいことがあるのです。よろしいでしょうか」
テレーズが答えると、グィノーは読んでいた冊子を閉じ、腕を組んで椅子の背に凭れた。
「いいぞ。何だ?」
許可を受けて、テレーズは持っていた教科書をグィノーの机の端に置いた。
「彼は誰ですか?」
質問を聞いたグィノーの顔が途端に渋面になる。
その表情を見て、テレーズはあれ?と片手で後頭部を押さえ、首を傾げた。
「おまえは……」頼りなげなテレーズの反応に、グィノーが再度溜息をつく。
「突拍子もない質問はやめろと、昔から注意をしているだろう。おまえの頭の中では筋道が立っていても、他人にはそれでは解らないぞ」
「あー……、えと、申し訳ありません」
テレーズの言葉に、
「そもそも、彼とは誰のことだ?」
グィノーに指摘されて、テレーズは自分の頭の中が、先程目にしたばかりの綺麗な顔をした青年で占められていることに改めて気づいた。
そして、グィノーならば何か知っているだろうというだけで、思わずここに来てしまったことに、少し気恥ずかしくなって頭を掻いた。
「先生の推薦で王立学院大学に入学したという、チグサ・ハツキのことです」
その名前を聞いて、グィノーは鼻で息をついた。
「何だ。やっと見つけたのか」
グィノーの言葉の意味が理解出来なくて、テレーズはまた首を傾げた。だが、そんな彼の様子を気にせずにグィノーは両腕の肘を机につき、組んだ両手に顎を乗せてテレーズを見上げてきた。
「チグサがどうした? 彼もおまえに負けず劣らず優秀だぞ? 何しろ、学ぶべきものがないと中学高校の授業は一切出ていなかったにも関わらず、定期考査では常に首席を取っていたのだからな。それだけでなく、ベーヌの文化について自分の足で調査を行い、詳細なレポートを作成しているほどだ」
それは意外だった。チグサは、遠目から一見したところではさほど日に焼けた風もなく、細身でいかにも大切に育てられてきた坊ちゃんといった雰囲気だったのだ。
見た目だけでは、そんな反骨心もフィールドワークも無縁であるように思われた。
「いえ……まあ、彼が優秀であることは恰好で解るのですが……どんな人物なのかと。友人の話では、ちょっと気難しいとのことでしたが」
「おい。おまえはどうしてチグサのことが知りたいんだ?」
どうも面白がっているようにしか聞こえないグィノーの質問に、テレーズは腕を組んで天井を見上げた。
さて、まずは何だろう。
「……すごく、すごく綺麗な人じゃないですか。話すきっかけが欲しいんですよね」
「おまえは……、それだけでここに来たのか」
呆れた様子のグィノーの言葉に、テレーズは視線を教授に戻して首を傾げた。
「いけませんか?」
「他に気づいたことはないのか?」
「彼について? 遠目だったので自分では確認が出来なかったのですが、友人から彼の瞳の色は緑だと聞きました。あの顔立ちと黒髪で緑の瞳。ぞくぞくしますね」
ここまで聞いてグィノーは首を振ったが、テレーズはその意味が解らなかった。
呆れられていることは間違いないが、どうでもよかった。
自分の知りたいことを教えてもらえれば、それでいい。
グィノーは席から立ち上がると窓の傍に行き、窓の外へ目をやった。テレーズも視線で教授を追いかける。
「……チグサは、カザハヤ公より相談を受け、こちらへの進学を勧め預かっている」
その言葉からは、単に国の重鎮の孫が地方からこちらに進学して来たという訳ではなさそうなことが感じ取られた。
「ベーヌでは同世代の友人は一人もいなかったそうでね。こちらに来てからも、友人を作ることなど全く意識すらしていないようだが……」
ここでグィノーは言葉を切り、テレーズへ目を向けた。
「おまえが彼の友人になってくれれば嬉しいと、私は思うよ」
「……俺が? どうしてですか?」
確かに彼と話をしてみたいし、もしかして友達になることが出来るのならばとても嬉しいと思うが、グィノーにそれを望まれる理由などないはずだ。
テレーズの質問に、グィノーは片眉を上げて見せた。
「私としては、おまえがその答えに気づかない方が意外だがね。まあ、それはいいとして……チグサと話すきっかけといっても、私からの紹介では彼に無用に気遣わせてしまうだろう。だからなメールソー、その機会は自分で作ってみろ」
質問をはぐらかされた上に、無体な課題を言い渡され、テレーズは額に手をやりながら顔を顰めた。
声をかけてきた人間を無視するか、はっきりと話などしたくはないと拒絶することしかしないという相手と会話をするきっかけを作るなど、至難の業ではないだろうか。
難しい顔をして黙り込んだテレーズの姿に、グィノーが笑いを洩らす。
グィノーは、見た目と授業の厳しさから、学生達には恐ろしい教授と思われているが、実際に師事してみると、厳しいながらも非常に面倒見の良い師であった。だからこそテレーズも、チグサのことを知ろうと、迷うことなくグィノーの下を訪れたのだ。
「難しく考えるな。チグサはああ見えて好奇心旺盛で、放課後はあちこち歩き回っているぞ。そんな人物が、おまえの姿を見て興味を抱かないはずはない」
少なくとも、自分よりも彼のことを知るグィノーのこの助言に縋って間違いはないだろう。
授業で同じ教室のものがない上に、テレーズの授業は基本的に教養学部棟ではなく理工学部棟の教室であるので、放課後を狙うしかなさそうだった。
また、チグサもテレーズと同じく、既に研究室に所属しているので、授業の後はこちらの研究室に顔を出すはずだ。
放課後の探索といっても、他の一般学生ほどの時間は取れないとは想像がついた。
それでもテレーズは諦めるつもりなど全くなかった。
「解りました」
素直にグィノーに頭を下げる。
「ありがとうございます。まずは彼に気づいてもらえるよう、頑張ってみます」
グィノーはまた面白そうに笑った。
「かなり気儘にうろうろしているようだから、まあ気長にな」
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