第3話みっつめのひ

 その日は朝から雨だった。

 薄雲の合間からパタパタと静かに落ちる滴が、森の葉を優しく奏でている。

 リリアンの小屋の窓辺では、弾ける水飛沫のリズムに合わせて精霊たちが踊っていた。

 水の精霊たちはいつでも気まぐれ。倒れた旅人を癒す日もあれば、手のつけられないほどに怒り狂う日もある。そうして今日のような優しい雨の朝には、かろやかなダンスを見せに来てくれるのだ。

「みんなおはよう。今日は良い雨ね」

 リリアンは軋む古いガラス窓を開いて、そこに小さな皿を置いた。蒼く透き通る鉱石の皿の上には、砂糖を絡めた小さな花弁。リリアンの作る色とりどりの花菓子は、精霊たちのお気に入りだ。

「やった! 花菓子だ」

 小さな子供のようなはしゃぎ声を上げて、精霊たちが小屋の中へ入ってくる。軽やかな精霊たちの足取りと一緒に、少しだけひんやりとした清浄な森の空気が、小屋の中へ流れ込んだ。

「まだまだ作ったから、いっぱい食べてね」

 暖かい紅茶をすすりながらそう言うと、精霊たちは思い思いの花弁を手に頷いた。

 まだ日も上りきらない早朝のお茶会。森から出ることの少ないリリアンに、精霊たちは色々なことを教えてくれる。森の中で起きたことも、近くの村で起こったことも、遠い王都で起こったことも。どれだけ離れている場所のことでも、精霊たちには関係が無い。一人が知れば、みんなが知る。意識の根幹を一つにする精霊たちは、素晴らしい知識の泉そのものだった。

「森の外れにリラが芽吹いたよ。リリアンの好きな花だろ。咲くのはまだ先だけど」

「そうなのね。楽しみだわ」

「王はまもなく病に伏すよ。呪われている」

「王が?」

「あれは西の国のまじないだね。それ程強いものではないが、王都の魔法師はまだ気づいていない」

「……そうなの」

 精霊たちはその知識を一方的に喋っていく。

 何が聞けるかはわからない。何を聞いてしまうかはわからない。

 そして、例え望んで聞いた訳でなくても、対価が必要だった。

「リリアン。おかわり!」

 精霊の一人が、空になった皿の上で声を上げる。

 リリアンは戸棚から花菓子を取り出すと、祈りと魔力を込めた。花弁の周りについた砂糖の粒が宝石のようにキラキラと輝きだす。

「どうぞ」

 初めてリリアンの小屋に精霊が訪れた日、リリアンは森のルールも知らずに精霊たちのお喋りを聞いてしまった。対価が必要だと言うことを知らなかったのだ。

 その日からリリアンは口が聞けなくなった。声を出そうにも喉が切り取られたように、空気が漏れるばかりで、一切の音が出なくなってしまったのだ。それが精霊の仕業だと気がつくまでに、7日もかかった。幸か不幸か、リリアンには話し相手もいなかったので、それ程困る事はなかったが。

 対価の花菓子を食べながら、精霊が思い出したように声をあげる。

「あ、そうだ」

 精霊は小さなはねでふわりと飛ぶと、リリアンの鼻先でピタリと止まった。


「破壊が来るよ。もうすぐだ」


 唐突に言われた言葉に、リリアンは首を傾げる。

「血のように赤いたてがみと、氷のように冷たい目の男だ。リリアンを探している」

「私……を?」

 赤い髪と青い目。その容貌には心あたりがある。リリアンの脳裏にあの男の顔が浮かんだ。リリアンの頭を撫でて優しい笑顔をくれたあの男だ。

 けれどもあの男はもうとうに死んでしまっている。リリアンが自らの手で命を摘み取ったのだから。ならば──。


「残念。僕たち、リリアンが大好きだったのに」

「リリアン居なくならないで」

 さっきまで楽しそうにしていた精霊たちが、一斉にシクシクと泣き始めた。

 その泣き声に合わせて、外では雨の勢いが増している。バタバタと屋根を叩く雨音が、リリアンの不安を煽った。

「困ったわ。泣かないで、精霊さんたち。私はここにいるじゃない」

 泣く子をあやすように、リリアンは精霊たちの涙を拭った。けれども、それが一層精霊たちの悲しみに火をつけたようで、森はすっかり雷雨に見舞われていた。

(私がいなくなるってどういうことかしら。死にたくても、どんなに願っても死ぬことなどできないのに)

「ねえ、精霊さん。その男って──」

 精霊たちにもう少し詳しく話を聞こうとリリアンが声を上げた刹那。

 ドンッ!! という激しい音とともに、窓の外に稲光が走った。

 どうやらどこかの木に落ちたらしい。ミシミシと樹木の裂ける音が響き、次いで何かが倒れるような大きな振動があった。


 リリアンは慌てて窓から身を乗り出した。

「大変だわ」

 庭の外れでひときわ大きい大樹が、見事に裂けて火を上げている。稲妻に焼かれた木肌が霧のように煙を昇らせ、火が揺らめくたびにパチパチと爆ぜる音が響く。

「森に燃え移る前に消さなくちゃ」

 リリアンは棚に置いてあった小さな小瓶をさっと掴むと、慌てて小屋を飛び出した。

「リリアン、行かないで!」

 背後で精霊たちの悲鳴が聞こえた。

 まるで駄々っ子のそれのように、ダメだ嫌だと口々に叫んでいる。

「大丈夫よ。火を鎮めに行くだけだから!」

 リリアンは一度だけ振り返ると、庭の片隅に置いてあった木桶を掴んだ。

 汲み置きの水瓶から、たっぷりと水を掬う。ずっしりと重くなった木桶を両手でしっかりと掴むと、服が濡れるのも構わずに、大樹の元へ走った。

 雨はいつのまにか一層強くなり、リリアンの頬に髪に容赦なく叩きつけている。

(精霊たちがここまで荒ぶるのは久しぶりだわ。……一体何が起こっているというの)

 リリアンの魔力の特性上、己の魔力で察知できる未来は限られている。自らの為に使える魔法は一つも知らない。それでも、今日の精霊のざわめきは何か大変な出来事の前触れを感じさせるには充分だった。


 渦巻く焦燥に足をとられそうになりながら、リリアンは走った。

 ──赤い髪に氷の目。

 精霊たちの言葉が、リリアンの心を激しく揺さぶる。

 そんなはずはある訳無い。けれどもどこかで期待してしまう。

 あの時の子供が、自分を探しに来てくれた、などと。

 子供の記憶を奪ったのは自分だというのに、もしかしたら覚えていてくれたのかもしれない。そんな手前勝手な希望が清水の様に胸に湧き出でる。

 たった一人でいい。

 誰かの記憶に残れたのなら……。

「他には何もいらないわ」

 それがあの男の子供だというのなら、もう全てを差し出しても良い。

 リリアンは不安と期待に高まる胸を、どうにかなだめて一歩一歩を踏みしめた。


 大樹へ近づくと、リリアンの足はピタリと止まった。

 炎はいつのまにか立ち上るほどに大きくなり、大樹の幹を舐める様に這いずり回っている。

 濡れた髪も乾きそうなほどの熱風が、炎の揺らめきと共に駆け巡る。

 その熱さに思わず眉根が寄った。

 感傷に浸っている暇はない。

 リリアンは水の入った木桶を草地に置くと、持ってきた小瓶の中身を数滴落とした。

 精霊の祝福を受けた神聖な水だ。夢幻蝶の鱗粉の様な煌めきが、波紋となって木桶に拡がっていく。この水を燃え盛る大樹にかければ、炎はたちどころに消えるだろう。

 もう少し近くへ寄らなくては。

 そう思った時だった。

 炎の踊る大樹の根本で、何かが動いた。

 ──人だ。

 どこか怪我をしているのだろうか、片足を庇う様に引きずっている。所々焼け焦げた簡素な上着から、しなやかで逞しい腕が伸びていた。リリアンの背丈ほほどもあろうかという大きな剣で体を支えながら、一歩一歩こちらに近づいてきている。

 荒い息遣いと共に、獣のような唸り声が響く。

「──こんなところで、死んで……たまるかっ!」

 痛みを追いやる様に、男は吠えた。

 その迫力にリリアンは思わず息を飲んだ。

 火を消さなくては。男を助けなくてはと思うのに、体は痺れた様に動かない。

「どうして……」

 意味のない問だけが喉をついた。


 男の髪は、炎を背にしてもなお赤い。熱風に揺らめく短い髪は、それこそ燃え盛る炎の様だった。

 まるで火龍の化身だ。とリリアンは思った。

 優しかったあの男と見まごうほどに似ているのに、たった一目でで違うとわかる。

 人の形の中に閉じ込められた、獰猛な獣。

 それが、目の前の男の印象だった。

 リリアンは思わず一歩、後ずさった。

 乾いた小枝が、足元でパキリと鳴る。

 それが合図であったかのように、男が顔を上げた。

 アイスブルーの瞳が、リリアンを射抜く。

 男は野生の狼が獲物を値踏みする様に、訝しげな視線をリリアンに送りながら言った。


「お前が、魔女なのか」


 炎を巻き上げる風が、二人の間をごうっと駆け抜けた。

 爆ぜる幹の音もくすぶる煙も、消えてしまったと錯覚するほどに、世界は静かだった。

 リリアンの揺れる視界には、もう男しか映らなかった。

 呼吸することすら忘れて立ち尽くしていると、男は痺れを切らした様に距離を詰める。

 青い炎を宿した眼差しが、リリアンの新緑の瞳を捉えた。

 それだけで、リリアンの思考は完全に止まってしまったようだった。まるで夢の中にいるように、ただぼうっと男を見上げる。

「お前……」

 目の前の少女の真意を探ろうとでもいうように、リリアンの瞳を見つめていた男はたじろいだように息を飲んだ。

 思わずと言った風に、その無骨な手を少女に伸ばす。

 切り傷と火傷だらけの手が、その柔らかな頬に触れた。

「どうして泣いている」

 男の指が幾度か躊躇うように揺れ、そっとリリアンの涙を拭った。


 そこでようやく、リリアンは自分の瞳から零れる涙に気がついた。

 リリアンは泣いていた。

 何故だかはわからない。

 けれども狂おしいほどの衝動が、胸の中を暴れまわっている。

 溢れる涙を止めることすら出来ず、ついに困ってしまってそのまま男に笑いかけた。

 頬に添えられた男の手に、自らの手をそっと重ねる。

 男の手が驚いたようにピクリと動いた。

 それを宥めるように撫でながら、猫が甘えるように、大きな掌に頬を擦り付ける。

「……何でもないの」

 ポロポロと零れる雫もそのままに、男を見上げる。


 ──私、魔女で良かったわ。こうしてもう一度この子に会えた。例えどんな理由でも構わない。だってこんなに幸せなんだもの。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

はしばみ小屋の魔女 ほしのかな @kanahoshino

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ