八月の悪夢(1)#89

先延ばししていてもしょうがないので、ここでいったん、魔の8月のことを書きたいと思う。


施設に入るとある程度安心できると思っていたのに、何かとちょくちょく電話がかかってきて、今度は何を言われるかとビクビクすると前にも書いたと思うけど、中でも8月のお盆前にかかってきた電話は、私たちにとっての悪夢の始まりとなる最悪のものだった。


「施設内で、熱中症で亡くなった方がいまして、その方は自立の方で、食事の声掛けで反応がなくてわかったんですけど……それでね、こういう時は一応、警察が入ることになるんですよ」


いきなりだったうえに、何から何まで驚くような内容で、先が読めないままに私は緊張した。


「それで、警察の方の姿を見て、お母さんが興奮してしまったので、お部屋に電話してなだめてもらえませんか。自分を調べにきたと勘違いしたようで、本当はこちらでうまく対応できればよかったんですけど、もう神経がかなり高ぶっていて、お昼ごはんも食べなかったんです。担当の者もこれ以上どうしようもない状態と言ってまして、娘さんの方で落ち着かせてあげてほしいんです。本当にすみませんけれど、よろしくお願いします」


暗澹たる気持ちになった。高齢者が室内で脱水の自覚がないままに亡くなってしまうという話はよく聞くけれど、施設のようなところでも例外ではないのだなとあらためてショックを受けた。同時に、これまで施設内での人間関係的には別人のようににしていたのに、手に負えないほどの興奮とはどういうものだろう? と不安になった。


私はすぐに電話をかけた。母は、いつもの穏やかな声ではなく、「はい?」と大きな硬い声で応答した。私だとわかると「何?」と訊き返してきた。拍子抜けしながらも、ちょっと安心して私はなるべく穏やかな調子で話しかけた。

「あのね、そこで熱中症で亡くなった方がいるんだってね?」

「あ、そうなのよ」

母の反応は、「そういえばそういうこともあったわね」くらいな、たった今まで忘れていたことを思い出したかのような感じだった。

それなのに、「それで、警察の人が来たと思うけど、それはね…」と説明しようとすると、”警察” という言葉が出たのとほぼ同時に「そうなのよ!」と声を荒げて私を遮った。

「あのね、私は何もしてないのに、私がいない間に勝手にカギを開けて部屋に入って、家宅捜索していったの! 私は何もしてないのに、ここの誰かが私のことを通報したの!」

あぁ、そういうことか、とピンと来た。認知症の症状の一つである被害妄想の一種だ。ただならぬ雰囲気がよくわかって、私の心にもズシリと来た。これはかなり面倒だからだ。

母は、最初の様子とは打って変わって、一気にまた興奮状態に入ってしまったようだった。どう言えばいいか、とっさに考え始めた。

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