ある”刻印”。#78

その日その時、母は自分の実家の台所で茶わん洗いをしていた。

私はそばに立って、何か話しながら母の作業を見ていた。


どういう流れだったかは思い出せないのだけど、その話の中で、私が春に進級するまでにここを出なければならなくなったと知らされた。


それなりには田舎の生活を楽しみ、友だちもでき、いろんなギャップに慣れてきてもいた私は、驚き、残念に思う気持ちもなくはなかったが、すぐに気持ちを切り替えた。


ここでは、私にしては朝が早過ぎて、学校も歩いて40分、居候なので多少は生活に制約もあり、祖父は好きなテレビを見させてくれないし……。それから、仙台でも自分の個室を持つことに憧れ、叶わずにその夢は封印していたけど、この祖父母の家を離れて新しいところに住んだら、今度こそ夢が叶うかもしれない。ドラマや漫画で個室を持つ子供が出てくると、うらやましくてしかたがなかったのだ。


頭の中でそんなことを一通り素早く巡らせて、私はこの上なく無邪気に明るく言った。

「今度住む家はどんな家かなぁ? 広くて、私の部屋もあればうれしいなぁ。ベッドも置きたいな〜」

言っててウキウキしてきた。半年ごとの転校続きにもかかわらず、私の気持ちは一気に “明るい未来” へと飛んでいた。


その時だった。

突然、母が水道を止めたのだ。それから何か言ったか何かしたか、そういう記憶は抜けているのだけど、とにかく恐ろしく怒っているということがわかった。あまりに唐突な母の変化に私は血の気が引き、何かとんでもなく取り返しのつかないことを私が言ってしまったのかと、頭を巡らせた。でも、すぐには思い当たらなかった。


母が低い声でうめくように私を罵り、ただならぬ様相にすくみ上がった私はその場から逃げようとした。

母が追いかけてくる。私たちに割り当てられていた部屋に逃げ込み、追って来た母を見ると、手に石炭をつかむための長いトング状の火ばさみを持っていた。

状況を察した私は、本気で逃げようとした。母も本気だとわかったからだ。服だの髪だのをつかまれて、火ばさみで叩かれそうになるのを、ぎゃあぎゃあ泣き喚きながら必死で逃れようとした。

やっと母の手から離れたものの、目は離せず、身構えたまま母と向かい合った。母は鬼のような形相で、まるで刀のように火ばさみを両手で握りしめ、まっすぐ私に向けていた。トング状のはさみの平たい先端はピタリと閉じられており、本当に刀のように見えた。


やめて、と泣きながら私は言った。ほとんど涙も出ていなかった。

恐怖に抗いながら、そんなことをしたら母も捕まってしまうというようなことを必死で言っていた。


「うるさい、お前を殺して私も死ぬんだ」

いつもの高めのきれいな声ではなく、地の底から響いてくるような恐ろしい低い声で母は静かに言った。ボイスチェンジャーかと思うほど違う。

この時の母は、もう別人だった。顔は引きつり歪み、目はつり上がり、もしかすると泣いていたのかもしれないが、泣いているというよりは鬼が乗り移っているような異様な様相に見えた。


それから私は母に引き倒され、いやというほど火ばさみで背中や腰を叩かれ続けた。

母は私を殴打しながら、「お前はいつもそうだ。ワガママばかり言いやがって、クソも役に立たない。親を困らせてばかりいる。そんなヤツはこうしてやるのがいいんだ。このバカが」などと、相変わらず恐ろしい低い声で淡々と言い続けていた。

そうされながら、私はまだわけがわからないながらも、さっき台所で言ったことがとてつもなく悪いことだったんだと思った。


「もうしません(何を?)」「これからは心を入れ替えて、何でも言うことを聞きます」「いい子になります」

母のうめくような声を聞きながら、本当にそんなバカげたことを私は必死で叫んでいた。母は「うるさい」「うそつけ」「お前なんか信用できない」と私の叫びをいちいち否定していた。

どれくらい続いたか、懇願し、うつぶせで頭を抱えたり、振り下ろされる火ばさみを手をかざして避けるようにして母を見上げたりしながら、気づくと、自分の身に起きていることをどこか冷静に見ている自分がいた。

見上げると、うつぶせに身を屈めた私を片足で踏みつけ、火ばさみを振り下ろしている母の姿はやはりいつもの母ではなく、ある意味冷静なような、だからこそよけいに恐ろしい顔をしていた。殺すと言ったのは、本気だったんだと悟った。

「もうダメだ」「こうやって、私は死んでいくんだな」と途中から諦めた。


しかし、私がどうかなる前に、それは止んだ。

私を立ち上がらせ、母は私の体を見た。そして、相変わらずしゃがれたような低い声でこう言ったのだ。

「ふん、無意識でも、外から見えるところに傷がつかないように叩いたんだね、私もうまいことやったもんだ。よかったわ」。

吐き捨てるような、そして勝ち誇ったような、不自然な言い方だった。母も神経が高ぶっていたのだろうと思う。


それを聞いた私は、母のために喜んだ。母のしたことがバレずに済む。そしてそれは、私にとってもよかったと思えた。こんな罰を受けた自分が恥ずかしいと思ったのだ。誰にも知られたくない。

だから、母の言葉を聞いて、ホッとしたのを覚えている。そして、私は死ななかった。それが本当にありがたくて、許されたこと(?)がうれしかった。


痛かったはずだが、痛みの記憶もあまりない。

恐ろしい母のこと、恐ろしい出来事、「悪い子の自分」の証し、すべて忘れて、なかったことにしたかった。


私は、晴れて生き残って取り戻したその直後の時間から、明るくしていた。これからは母の役に立つようないい子になると、本気で胸に誓っていた。

そして、夜にはいつも通りごはんを食べたり、テレビを見たりできるんだ。そのことが、うれしかった。

母も、何ごともなかったようにしていた気がする。


なぜその時、祖父母の家には私たち以外誰もいなかったのか、それがわからない。ぽっかりと開いた空白のような魔の瞬間、起きてしまったこと。あの時、ほかに誰かいさえすれば、母と私の関係は違ったものになっていただろうか。それとも、いずれ何かほかの形で、こじれる運命だったのか。

そうだったとしても、思い出すだけでこんなに苦しくなるような「刻印」たりえる出来事は、そうそう起こりようがないとも思うのだけど。

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