介護の現場で思うこと。#71

さて、母はいわゆる施設の一種、サ高住に入った。

正式な引っ越しも済んで、あとは運び込んだものを収め、片付け、部屋を整えるだけとなった。


本人は施設のスケジュールにも適応し、週一で私たちが様子を見に行く時には、明るく楽しそうにしてるように見えた。時々、週一回のデイサービスで入浴することを拒むこともあって、そういうことが連絡事項として電話で知らされたりする。元からのことでしかたないことと私たちは思っていたけど、施設側にすると「困ったこと」なのだろう。


ともあれ、そういうことがありつつも、おおむね順調に馴染んでいってるように思われた。


私たちが施設に訪問すると、スタッフさんたちは皆明るく、元気で、かいがいしく、てきぱきと手慣れた様子で入居者の世話をしている。初めてそういう現場を見た時には、本当に頭が下がる思いだった。そして、自分は親を預けてお願いする側にだけいていいのだろうか、これからの少子高齢化社会を思うと、せめてボランティアとしてでも自分も何かすべきではないか、こういう現場にかかわる人が多くならないと、日本はやっていけないのではないかと危惧したりもする。


一方で、子供のいない私自身の将来を考えると、老後の自分の面倒は自分で見る、あるいは自分でこういうところに入る算段をしなくてはいけないんだと考えるだに、心細いような不安を感じてきてもいて、それは実際のちゃんとした現場を見ても、あまり晴れないのだった。自分が入居者になった時、どんなにきちんと対応してもらえているように見えても、スタッフの方々だって人間だし、内心はどんな気持ちで接しているのか、また、仕事でやってくれてるとは言え、どこまで甘えてお任せして安心していていいのかなどわからないし、戸惑いそうだなと思ったりもする。


あるいは、そんな気遣いなどできないくらいに認知機能が落ちているだろうか。どうにも手のかかるおばあちゃんになってしまっている可能性もある。

想像すると情けないし、他人に迷惑かけなければ自分の人生の最後の部分を生きられないかもしれないと思うと、そんなふうになりたくない、そうならずに済むように、もうダメだと思ったら自ら姨捨山に行けるような仕組みがあればいいのになんて、そんな妄想すら抱いたりしている。


もちろんこれは、あくまで自分の場合のことであって、母をはじめとする今の高齢者の方々が、介護が受けられる制度の下で天寿を全うできる現在の状況をいいことだ、ありがたいと肯定的に思っているのだけど。


こんなふうに、人の場合ならいいのに、自分のこととして考えるとイヤだという二面性って、何なんだろう?

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