見えない胸の内。#62

母が施設に入ることになってからのモヤモヤと割り切れない気持ち、そして、その気持ちを整理しようと考え出すと悲しくなり、しょっちゅう涙が出てくること。これが目下、心が晴れないことの一つだ。


ここまで連載してきて、ありのままを綴ってはいるのだけど、それだけでは気持ちは全然整理し切れていない。なんとかその葛藤状態をちゃんと見つめてみようと思い、最近ずっと書いたり消したりしていた。

自己満足と言えばその通りなのだけど、もう少し突き詰めてみたい。


まず大前提として、母を施設に入れるなんて、昔の私たち家族にとってはいろんな意味で ”考えられないこと” だった。


独身の娘と同居は当たり前、結婚する時は自分もついていく。

母は勝手にそう決めていた。

もしその通りになっていたら、今だって退院と同時に娘どっちかと同居していた家に戻ってきていたはずだ。そしてうまくいけば、そのまま(施設等には入らずに)天寿を全うすることになっただろう(最後が病院の可能性はあるにしても)。


母がいつのタイミングで同居の夢(?)を手放したのか、私は知らない。

が、気づいてみれば十数年も、一人暮らしだったわけだ。

そして、そうなってみると今度は本人が、むしろその気ままさを死守しようとしているように見えた。


一人の生活が大変になって行政の支援を受けることを提案した時も、「私はもうじき死ぬんだから放っておいて」「残りの人生はずっとここで一人でやっていく」「の助けはいらない」など、口癖のように言っていた。

プライドが高く、面倒くさがりで、出不精で、変化を嫌う。

頑固老人そのものだったし、思えばプライドが高いのは昔からだった。


その母が施設に入ることを承諾したことは私たちをホッとさせた反面、妙な違和感があったのも事実だ。「判断を娘たちに任せる」と言った時の謙虚さも、芝居がかったような不自然さがあった。

あまりにスムーズに話が進んで、かえってこちらは戸惑っていた。

任せる、承諾する、従うというのが、本心から望んでることなのか、諦めなのか、失望なのか、と母の胸中を勘ぐってみたり、あるいは施設入居の意味やその後の生活がどういうものか理解できないくらい認知症が進んだのかと思って愕然としたり。


昔は、ヒールを履き背筋を伸ばして足早に歩く姿がきれいだった母も、施設見学について回っている時の歩き方は全身がギクシャクし、足取りもおぼつかなかった。ずいぶん前から気づいてはいたけど、長時間いっしょに歩いてみるとあまりに頼りなく、老いに押しつぶされて小さくなってしまったように見えた。

何を思っているのか胸中も窺い知れないことでなおさら、施設行きに従おうとしてるその姿が健気で、不憫に思われた。自分たちが薦めているくせに、だ。


もしかしたら、手続きの段階でイヤだと言い出すかもしれない。あるいは、入居してしまったあとでやっぱり出たいと言うか。

そんなふうに半信半疑でヤキモキしてるくらいなら、いっそハッキリ問い質そうかとも思った。

「本心から施設に行きたいの?」「それでいいの? 納得してるの?」「これがどういうことか、わかってるの?」と。

でも、どれも否定されたらこっちが困る質問ばかりだ。

そもそも、施設に入ることを「説得しよう」という構えで、私たちは巧妙に言い方を気をつけて話を持ち出したのではなかったか?

決して悪だくみをしているのではないのだが、母を誘導し、だましているような罪悪感が拭えず、今さらこっちの心が揺れていた。

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