理解できなかった怒り(1)#31
そのころ「理不尽」という言葉はもちろん知らなかったのだけど、私の記憶の中で最初に「あれは理不尽だった」と思える出来事は——。
私が幼稚園の年長の時に、父の初めての転勤があった。私の記憶には残っていないけど、社宅を移る程度の引っ越しはその前にもあった。でも、まったく違う土地に行って、今までの暮らしもガラッと変わるような引っ越しは、家族全員にとって初めてのことだった。
いま書こうとしてる出来事が、新しい土地で幼稚園の最後の半年を過ごした時のことか、小学校に上がってからなのか、そこが記憶としては曖昧なのだけど、とにかく私が同じ社宅のおそらく同年代の子の家に遊びに行ったところから話は始まる。
私たちは遊びに夢中になっていたらしい。そして、晩ごはんの時間というか、よその家をおいとますべき時間が来ていることに気づいていなかった。すると、その家のお母さんが「晩ごはんを食べていきなさい」と言ったのだ。
私はぼんやりした子供だったので、言われるままに食卓につくことになり、目の前にずらりと並んだ食べ物を見ていた。食も細くて、好きなもの以外は食べることにあまり関心がなかったので、並んでいるものに特にどうこう思った覚えはない。そのシチュエーションにちょっと戸惑い気味に、ただ眺めていたという感じだった。
そして、まだ一口も食べていない段階で、部屋に母がどかどかと入ってきた。その前にチャイムが鳴るとか、そこの家のお母さんと母が何か話したとか、そういうのは覚えてない。とにかく、記憶の中では「いきなり母が入ってきた」ことになっている。
ものすごく怒っていた。
正座していた私は、有無を言わさず腕をつかまれて引っ張り上げられる形になった。驚いたよそのお母さんが、「いいじゃない。せっかくだから食べていったら」と制止しようとし、私に「ねえ?」と笑顔を向けた。
母は、断固それはならぬという強硬な姿勢で、私を食卓から引きずり出した。
私はと言えば、本当は食べるでも食べないでもどちらでもよく、されるままになっていた気がするのだけど、どうして怒っているのかだけはわからなかった。とにかく、何かまずいことをしてしまったんだ、という気持ち。
それから強く腕を引かれながら家に連れ帰られ、居間に正座させられた。そして、延々と怒鳴られた。
母が何か大声で言う。そして、正座した私の太ももかひざに置いた手の甲を平手でピシッと叩く。また言って、また叩く。
リズミカルに、それがいつまでも続いた。
その代わりばんこに母がしていることを痛いと思いながらもぼんやりと受け止めていた私は、なおもどうして怒られているのかわかっていなかった。実際、母の言っていたことはまったく覚えていない。
ただただ、母はどうしてしまったのか、何を言っているのか、何を怒っているのかと、ぼんやり感じながらそうされ続けていた。
もしかすると、あまりに私がわかってないようだったので、わからせようと思って執拗にそうしていたのかもしれない。でも、されればされるほど、私には「?」しかなかった。
母は、(私にはわけはわからないけど)時々ひどくこわいことがある。その出来事は、私の中にそういうふうに刻まれた。太ももは、最後には赤く腫れていた。
長いので切ります。
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