退院、即 施設へ。#42
退院の前日、私は遠方から母の自宅へ乗り込み、翌日の昼の退院に備えた。
まず、施設ですぐに必要になるものを荷造りした。何ともありがたいことに、施設を決めるためにいろいろ奔走してくれたガイドさんが、自分の車で荷物を運んでくれると言う。つまり、入居までをお手伝いしますよというスタンスだ。お言葉に甘えて、退院日の朝に運び出して、そのまま施設に届けてもらうことにしていた。
布団一式、テレビとテレビ台、着替え類、カラーボックス、多少の日用品、と、とりあえず最小限にした。それでも一人での荷造りはしんどく、汗だくになった。
退院当日は、ガイドさんに荷物をお願いして見送ってから、さらに取りこぼした細かいものを自分の車に積んで、病院へ。病室の荷物をまとめて、看護師さんから引き継ぐべきことを引き継ぎ、今後の通院などの指示も受け、あとは退院手続き、入院費用の支払いをすれば、晴れて退院だ。
病棟を出る時、一人の年配の女性が「えー! 退院するの? さびしいわー」と駆け寄り、母とハグしていた。通院の時に顔出してね、とか、私の貸した週刊誌を返して、とか、百均の老眼鏡を返して、とか、矢継ぎ早にお別れの精算。母は何も覚えてないので、せっかく積めた荷物をひっくり返しててんやわんやだった。
母の担当チームの看護師さんも、エレベーターのところまで見送ってくれながら、「穏やかな方で、話してるとこちらが癒されてたんですよ〜」「穏やかでやさしいので、ほかの患者さんからも慕われていた」などと言う。
正直、ホンマかいなと思ったけど、母が病院で楽しく過ごしていたことは間違いないようなので、「穏やかに」うまく溶け込んでいたのだろう。それは、施設に入るにあたっても、よい兆候に思われる。
そして、退院手続き。
私が事務室でいろいろやって戻ってくると、ロビーにいるはずの母がいない。すぐに暗雲がたれ込め、心がザワザワとした。「絶対にトイレだ」。
病院では、もう便のことは気にしないようになっていたけど、それはトイレが近くにあるからで、やはり外出となると「その前に出しておかねば」と思うのではないか。
案の定、トイレから母が出てきた。
努めて何でもないように「出たの?」と訊くと、「うん」と答えた。それ以上は何もないようだったので、追及せずに車に乗せた。
施設までの道中はトイレに行きたいと言うこともなく、無事に入居となった。
部屋に入り、正式な引っ越しが済むまで施設側が貸してくれるベッドに布団を敷いて、その他の運び込んだものを簡単に仮置きする。
そして、昼は病院で食べてきたので、その日の夜ごはんだけ、近所の大きなスーパーに買いに行った。
久しぶりの本格的な外出と買い物。母はうれしそうに、大きなお弁当を選んだ。それから、ジュースやおやつをいくつか。施設で履く上履きも買った。
私が店内の銀行ATMに並んで支払いなどをして戻ると、後ろのベンチで待っていたはずの母がまたいない。
うぁ〜、またトイレかな!?
どこのトイレに行ったのか、一人で戻って来られないんじゃないか、胸中を不安が駆け巡る。私が動かずに待っているべきか、探しに行くべきか。
キョロキョロして考えていると、なんと、すぐ近くにいるではないか!
母は、まるで心もとない子供のたたずまいで、テナントの総菜屋の前に立っていた。ホッとしながら駆け寄って、どうしたの? と訊くと「これを買おうと思って」と、大きな竜田揚げのようなものを指差した。
「お弁当買ったでしょ」
「明日の朝食べるから」
「明日は、朝ごはん出るんだよ」
「じゃあ、おやつにする」
「まだ冷蔵庫ないから、そんなに置いておけないよ。それに、おやつもたくさん買ったでしょ」
「そっか…じゃあ、やめようか」
なぜだか、いちいち哀感漂う。とともに、母のことを「いつも、たくさん食べ物を買ってきていた」と言っていた、民生委員の方の言葉が思い浮かんだ。
もう、食べることしか楽しみがないんだな。それしか認知できないんだろうな。
本や新聞を読んだり、合唱をやったり、講演会やコンサートや親善旅行に出かけたり、聞きかじった知識をすぐ教えたがって話しかけてくる母は、もういないということだ。
とにかく、こうして母は施設に入った。
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