第57話 立ち向かう勇気

 翌日、起きると顔が引きつっていた。

 引きつっている理由は涙と鼻水だった。

 なんでこんなことになっているのか思い当たる節はあるけど、今は考えたくない。

 涙と鼻水で汚れた顔を庭の井戸水できれいに洗い流し、手拭いで濡れた顔を拭く。

 朝日とともにそよぐ風を体で受け止めるように伸びをして塗り替えると、そのタイミングを待っていたかのように子供たちが部屋から飛び出してきた。

 朝の挨拶と同時に抱きついてくるサキちゃんの頭をそっと撫でる。

 その瞬間、胸の奥が痛んで言葉が詰まり、返そうとしていた挨拶が途切れてしまった。


「どうしたの?」

「なんでもないよ・・・」


 なんでもないとは口にしたものの、表情が引きつっていたのかサキちゃんは心配そうに僕の顔を見上げた。

 その顔を見てまたしても胸の奥が軋むように痛み、とっさにサキちゃんを体から引き離した。


「さ、さぁ・・・ご飯に・・・しようよ。」

「う、うん。」


 少しびっくりした表情を浮かべたサキちゃんに覚えたてのたどたどしいイエスタ語で伝えると、食堂へ向かって歩き始めた。

 平静を装いながら子供たちを連れて食堂に到着すると、いつものようにセツさんが朝ご飯の準備を進めてくれていた。

 僕たちを監視しているのか思うほど正確なタイミングでご飯が用意されている。

 少しだけ畏怖の念を感じつつお茶碗を受け取り、いただきますを告げてから朝ご飯を口に運んだ。

 育ち盛りの子供たちはお茶碗に盛られた白い粒のお米と、豆類を発酵させて作ったスープのお味噌汁を二本の棒を巧みに操って交互に口に運ぶ。

 僕はまだ全然使い慣れてないから二人のスピードには全くついていけない。

 先に食べ終わった二人が僕を待って、三人そろってごちそうさまでしたとセツさんに伝える。

 いつもと変わらない朝ご飯の風景だ。

 でも、今日はクルス様が姿を見せた。

 自分がいては緊張するだろうと、敢えて遅い時間に食事を取るようにしていたとのことだったけど、今日は空腹に耐えられなかったのかな。

 そんなことを考えながら席を立って朝の座学の準備に移ろうとした矢先、聞きなれた言語が耳に届いた。


「ハク、体調はどうだ?」


 久しぶりの母国語に少し驚いた。

 といってもこの言語がどこで使われているのか知らない。

 いや、知っていたけど忘れてしまった、の方が正しいかもしれない。


「はい。おかげ様でこの通りです。」


 そういって力こぶを作るように二の腕の筋肉を盛り上げて見せた。

 といっても、盛り上がる筋肉があるわけではなく、あくまでポーズだ。

 それを理解してくれたのか、少し笑いながら「それはなによりだ」と口にすると表情を硬くした。


「今日はハクと話がしたくてな。時間をもらうぞ?」


 いつになく硬い表情を浮かべたクルス様の顔を見て、なぜか逃げ出したい気持ちがふつふつとこみあげてくる。

 でもこれだけお世話になっておいて、話すことはありませんなんて言えるわけがない。


「はい。いつでも、大丈夫です。」


 自然とこっちの表情も硬くなり、言葉もぎこちなくなってしまう。

 僕の答えを聞いたクルス様は小さく頷くと踵を返して戻っていった。

 話しといっても、ここにくる以前のことなんて何も覚えていないし、ここに来てからのことについて話すことなんて特筆すべき点はないと思う。

 今の僕からは何も出てこないと思うけど、クルス様の力になれるならわかる範囲でお答えしよう。

 そう自分に言い聞かせながら部屋に戻ると座学の準備を始めた。


「あー、もうだめだぁ~」


 座学を始めて三十分くらい経つとこの声が聞こえてくる。

 もう何度も聞いたから意味はしっかりと理解できる。

 シン君が後ろへ倒れこむと同時に持っていた本を投げ出した。


「もう、本は投げちゃ駄目って言ってるでしょ!」


 これも覚えた。

 毎日同じことが繰り返され、いつものようにサキちゃんに叱られる。

 すると急に戸が開いてカグラさんが姿を現した。

 きれいな顔にあきれた表情を張り付けて部屋を覗き込み、シン君に向かって何か言っている。

 言われたほうのシン君はふくれっ面になると投げた本を拾って机の前に座り直し、だるそうに本を読み始めた。

「よしよし」と聞こえてきそうに頷いたカグラさんは次に僕へ目を向けた。


「ハク、父上がお呼びよ。いいわね?」

「あ、はい。」


 心の準備ができてないところにお呼びがかかって少し心臓がはねたような錯覚を覚える。

 すぐに立ち上がってカグラさんの後ろに付いて部屋を出ると、そのまま屋敷をぐるっと回って南側へ移動する。

 程なくしてカグラさんは母屋の南側の一室の前に立ち止まった。


「父上、ハクを連れてきました。」

「うむ、入ってくれ。」


 短いやり取りののち、カグラさんは目の前の戸を引いて開けると僕にどうぞというジェスチャーを送ってきた。

 家主の部屋ということもあって妙な緊張が体を包み込んで身震いしながら部屋に入ると、部屋の奥の正面に置かれた立派な机の向こう側にクルス様が椅子に腰かけていた。

 机の上に本やら紙が乱雑に置かれていて、ついさっきまで忙しく仕事をしていたことが窺える。

 そして部屋の中央には少し背の低い長机と椅子が四脚あり、その一つにイロハさんが座っていた。

 道着姿のイロハさんは僕の顔を見て小さく「おはよ」と口にした。


「おはようございますクルス様、イロハさん。」

「よく来てくれた。好きなところに掛けてくれ。」


 僕の理解できる言語でそう声をかけられたので、イロハさんの向かいに腰を下ろしてクルス様に目線を向けた。

 クルス様は机の上に置いている紙を手に持つと机の上でトントンと整えて立ち上がり、こっちの机に来るとイロハさんの隣の椅子に座った。


「ここでの暮らしに随分と慣れたようで安心したぞ。」


 そういいながら手に持っていた紙を机の上に置いた。

 びっしりと文字が書かれていて、ここからでは何が書かれているのかは分からない。

 とりあえずかけられた言葉に対して返事をした。


「本当にありがとうございます。何もわからない僕にここまでしてくれるなんて、どれだけ感謝しても足りないくらいです。」

「気にすることはない。シンとサキも君に懐いているし無下にはできまい。」


 深々と頭を下げて感謝の意を表して顔を起こす。


「それで・・・僕にお話があるんですよね?」

「あぁ、そうだな。では早速本題に入るがハクよ。君はここにくる以前の記憶を思い出せぬと言っておるが間違いないか?」

「・・・はい。」


 聞きたいことなんてそれしかないとわかっていた。

 だけど本当に何も思い出せない。


「なぜ思い出せんか心当たりはあるか?」

「・・・分かりません・・・ごめんなさい。」

「そうか。」


 聞かれることに何も答えられなくて申し訳ない気持ちでいっぱいになる。

 俯いて肩を落とした僕をみて忍びなくなったのか、イロハさんが声をかけてきた。


「落ち込まなくていい。」

「はい・・・」


 返事をして少しだけ顔を上げたものの、あんまりみんなの顔を直視できない。

 クルス様は顎に手を当てたまま考え込み、目の前に置いていた紙に目を通した。


「君がここに来る前の話だ。シンとサキがアスカの貧民街市場で管轄奉行に折檻を受けた折、君が二人を守ろうとしたことは覚えているか?」

「いいえ・・・」

「その時、膨大な気を操って奉行人を氷漬けにしたことも覚えておらんと?」

「えっ!?僕にはそんな力、ありませんよ?」


 全く心当たりのない話に驚きを隠せない。

 そもそも気が何なのかもわからないし、人を氷漬けにするなんてことが僕にできるわけがない。

 動揺して手を握ったり開いたりしていると唐突にイロハさんが声を上げた。


「私、見てた。」


 見てた?

 いったい何を見ていたというんだろう。


「見てた?・・・って何を?」

「あなたが氷漬けにするところを。」

「そんなっ!・・・だって・・・どうやって・・・」

「事実、君は奉行人を氷漬けにして治療室送りとなっている。死者が出てないのでこちらで処理して身柄を預かるよう手配したのだ。」

「・・・」


 僕は何も言えなくなって黙り込んでしまった。

 気を操るって言われても何をどうすればいいのかわからない。

 そういうのは選ばれた人間にしかない能力だと思う。


「僕は・・・僕にはそんな力、ありません・・・」


 二度目の否定を口にしてみんなの顔を順番に見渡した。

 でも三人が三人とも僕の言葉を信じようとはしてくれなかった。


「でもハクはその力を何度も使った。最後は私を助けてくれた。」

「ごめんなさい、何も・・・覚えていないんです。」

「そう何度も詫びる必要はない。なにも責めているわけではないからな。私たちは知りたいのだ。君が何を見て、何を感じ、何ができるのかを。」

「僕のことを知ってどうするんですか?」


 全く身に覚えのない事実に呆然としながら、気になったことを口にした。

 僕が何を見ているのか、そこから何を感じているのか、そして何をするのか。

 ひどく抽象的な内容に心のもやもやは増す一方だ。


「それはハク、君次第だ。」

「え?」

「君はイエスタが、いや、世界がどういう状況か知っているかね?」


 世界の状況のことなんて僕が知っているわけがない。

 イエスタという国があることも知らなかったし、この国がどこにあるのかさえ知らない。

 やっぱり何を聞かれているのかわからない。


「すみません、もう少し具体的に・・・」

「ふむ、では聞き方を変えようか。その昔、世界には気という目には見えない力が満ちていたということは知っているか?」

「それは何となく知っています。・・・あれ?でも何で知ってるんだろう?」

「その気は今やそのほとんどを失っていることも知っているか?」

「それも・・・知ってます。」


 僕の返事を聞いたクルス様はフムと相槌を打って顎に手をかけて考えるポーズを取った。


「どうやら一般教養は身に着けているのだな。寺子屋かあるいは教えてくれるものがそばにいた可能性があるな。」

「・・・」


 クルス様のつぶやきに何か引っかかるものを感じた。

 誰かが僕にそういった知識を教えてくれた。

 言葉では表せない何かがそこで立ち止まって考える時間をよこせと叫んでいるように感じる。

 何か思い出さないといけないような気がするけど、クルス様の言葉で遮られてしまう。


「失われた理由は諸説あるが今は置いておこう。気はこの星の中心から間欠泉という場所へ流れ、そこから世界中に広がり、やがて星の中心へ帰っていくと言われている。」


 クルス様はそういうと立ち上がり、部屋の隅に置かれていた丸い物体を机の上に持ってくると、その球体の一部を取り外して気の流れるイメージを指でなぞって表現した。


「本当のところは誰にも分からん。なんせ気という力は我々の目には映らず感じることしか出来んからな。だから本当に間欠泉から気が出てくるのか、そして星の中心へ帰っていくのか立証したものは誰もおらんのだ。」


 乾いた笑いを浮かべたクルス様は自分の机の上に置いていた湯飲みを手に取ると口を潤すように一口付けた。


「気はこの星すべての力の源だ。気が失われること、すなわちそれは星の死を意味する。事実、空は淀み水は濁り大地は痩せて草木は枯れる。」

「・・・」

「これまで幾度も間欠泉の調査は行われてきた。イエスタの場合は諸事情によって調査そのものが滞っていたが、間欠泉に関する情報はどれも眉唾ものばかりでな。今まで間欠泉の機能を取り戻すことができなかった。」

ってことは・・・」

「あぁ。つい最近、間欠泉に大きな変化が表れた。やはり理由は不明だが、その時、君がそこにいた。」


 最後の言葉を聞いて目が点になってしまった。

 それはようするにどういうことなのか。

 相変わらず身に覚えがないので、どう反応していいかわからない。


「えぇっと、それは、つまり・・・どういうことですか?」

「わからない。あの時、突然気が溢れ出して、次の瞬間ハクがいた。」

「と、突然現れたってことですか?」

「そう。で、これを握ってた。」


 イロハさんの口から僕の分かる言語で少したどたどしい言葉が紡がれた。

 びっくりすることの連続で反応が薄くなってしまったけど、突然現れたとか、僕の体はいったいどうなっているんだろう。

 そして握っていたと言われたその左耳の宝石を見て思い当たる節がある。


「それって、これと似ていますね。」


 そういって胸元から似た宝石を取り出して手のひらに乗せた。

 菱形のそれは水を湛えたように緩やかな光を放ち、表面に刻まれた不思議な模様を浮かび上がらせている。

 形は違うけどイロハさんの耳にぶら下がっている宝石とそっくりだ。


「あいつは『コネクター』って言ってた。」

「あいつ?コネクター?なんですかそれ?」

「こっちが聞きたい。」


 イロハさんは表情こそよく変わるけど、言葉尻にとげを感じる気がする。

 それは話し方に影響されているだけだと思うけど、なんだかとっても責められている気がして、つい謝罪の言葉が口から飛び出しそうになるのをぐっと堪えた。

 名前から想像すると何かにくっつけたり、差し込んだりするものなんだろうか。


「ではこっちを見てくれ。」


 手のひらに乗せたコネクターを摘まみ上げて眺めていると、クルス様は持ってきた紙を長机いっぱいに広げた。

 そのほとんどがまだ僕には読めなかったけど、ところどころイラストが差し込まれている。

 どこかの風景を緻密に描写しているようだけど特に心当たりはない。


「これは・・・なんでしょうか?」

「これはグランザム王国の東の果ての村付近に広がっているトーシャ大森林のことが書かれた報告書だ。」

「グランザム、トーシャ・・・」

「そうだ。イエスタと同じく、グランザムにも同様に間欠泉が存在している。何か思い当たる節はあるか?」

「・・・手に取ってみてもいいですか?」


 触ってもいいものか確認したうえで一枚一枚丁寧に手に取り、書かれている文字とイラストに目を通した。

 報告書には日付が振られていて、半年以上前から記されている。

 イラストと読み取れる文面をつなぎ合わせると観測拠点と間欠泉の状況が主な内容だろうか。

 イエスタでは間欠泉と呼んでいるそれはグランザムでは源泉と呼んでいるらしい。

 その源泉の調査のために観測拠点が急遽建造されたとのことだ。

 こっちと同じように突如、間欠泉に何らかの変化が現れたからというのが建造の理由だ。

 変化の原因や調査内容については読み取ることができなかったので、少しでも理解できそうな内容を探して次の紙をめくって手が止まった。


「これは・・・なんでしょうか?」


 そういってその報告書に挿し込まれていたイラストを指さした。

 森の中に木材と石材で作られているとみられる観測施設があり、その向こう側に巨大な柱のようなものが描かれている。

 周囲のものとは明らかに異質なその柱の存在に、吸い付けられたかのように目が離せない。


「それは氷の柱だ。」

「これ全部氷ですか!?」

「そうだ。瞬間的に発生したらしい。」

「これが・・・一瞬で・・・信じられません!」


 氷なんてそもそも日常生活で目にすることなんてなかった。

 水が冷えないと氷にならないので、僕が住んでいた村では絶対にできないし、見ることもない。

 そんなものが村の隣の森の中に一瞬でできるはずなんてない。


「あれ・・・え・・・?」

「どうしたの?」

「僕・・・今・・・・」


 ありもしない思い出が湧き上がって胸の奥を締め付ける。

 その思い出を頭の中に描くことができず、心と体がちぐはぐになっていくような錯覚に陥って眩暈がした。


「大丈夫?」


 隣に座っているカグラさんが心配そうに背中を撫でてくれた。

 小さく頷いて問題なしという意思を伝えるとクルス様は袖に手を差し込み、そこから一通の封筒を取り出した。

 そしてその封筒の中から紙を取り出すと折り目を開いて長机の上に並べた。


「これは先日届いた最新の情報だ。二週間ほど前の源泉の状況が描かれている。」


 そういわれて長机の上に並べられた報告書に目を落とした。

 複数の角度から源泉の様子を描いていて、以前のものよりも被写体との距離が近い。

 そのおかげでより鮮明に氷の柱がどういうものなのかが伝わってくる。

 観測施設や人の大きさから考えると氷の柱は直径が10メートルくらいはあり、その根元には水が描かれている。

 ただ、氷の柱が溶けて水たまりができたとは思えない。

 もし氷の柱が溶けているのだとすれば、最初に見せてもらった柱より小さくなってなければならないから。

 そしてそれは別の角度から描かれたイラストが裏付けていた。

 どうやら氷の柱は湖の際に発生しているようで、水たまりと思ったのは湖のほとりだったからだ。

 さらに少し引いた画角のイラストには水分が豊富なためか、小さな花がいくつか描かれている。


「この花・・・」

「ハク?」

「はい?・・・って、あれ?」


 正面に座っているイロハさんが何かにびっくりして首に掛けていた手拭いを差し出してきた。

 なんで急に手拭いなんかを渡してきたのか分からなかったけど、膝の上に何かが滴った気がして目を向けて自分が泣いていることを知った。

 受け取った手拭いに顔を埋めた瞬間、唇に柔らかい感触と、流し込まれた暖かい何かが脳裏に浮かんできた。

 血の味とともに流れ込んできたそれは少し甘く、同時に胸を締め付けて激しく心を揺さぶる。


「あっ・・・くっ・・・!」

「どうした!?」


 何かとても大事なことを忘れている。

 視界の前に悪夢で見た薄緑色の顔のない亡霊が浮かび上がって僕の体にしがみついてくる。

 急に痛み始めた右目と止まらない涙を手拭いで押さえつけて、その大事な何かを必死で探した。


「今日はこれくらいに・・・」

「少し・・・もう少しだけ・・・見せてください!お願いします!」

「だが・・・」


 急変した僕の体調を考慮しての言葉だったけど、今やめちゃいけない気がした。

 脳裏に浮かんだ感触と味に何か特別な意味があると思い、右目を抑えたまま最後の一枚に目を向けた。

 その報告書にはひときわ大きく氷の柱が描かれている。

 涙でにじんだ視界もそのままに、その透き通った氷の柱に注目してみると何か黒い影が描かれていることに気づいた。


「これは・・・何?」


 同じイラストを凝視していたイロハさんが僕と同じ感想を口にした。

 溢れてくる涙を何とか手拭いで押しとどめ、その影に注目すると同時に絶句した。

 氷の柱の表面が凸凹していてはっきりとは見えないけど、柱の中に生き物が閉じ込められていた。

 影は二つあり、片方はかなり大きくもう一方はその半分にも満たない。


「報告書によるとそれは魔獣だな。」


 一足先に目を通していたクルス様が疑問の答えを教えてくれた。

 その言葉を聞いた瞬間、体中の毛が逆立ち得も言われぬ恐怖が心を満たしていく。

 まるで目の前にその魔獣がそこにいるかのような感覚に陥って呼吸が自然と加速し、眩暈がひどくなって座っているのに立ち眩みに似た感覚が襲ってくる。


「無理しないで。」

「何か・・・思い出せそうなんです。もう少しで・・・何か・・・」


 そして最後に残ったもう一つの影に注目すると、それは人の形をしていた。

 巨大な魔獣に背を向けて誰かに祈りを捧げるように胸元で両手を合わせている。

 瞳を閉じたその顔はまだ幼く、新緑色のおさげ髪は連続する動きの刹那を切り取ったかのように氷の彫刻の中でふわりと浮いた状態で固まっていた。


「れてぃ・・・」


 知らず知らずのうちに口から言葉が零れ落ちる。

 流れる涙を忘れて手拭いを落とすと、空いた両手で報告書をつかんで顔に近づけた。


「れてぃ・・・れてぃ・・・れてぃ・・・」


 それが何を指しているのか確かめるように何度も繰り返して言葉にする。

 その言葉を口にするたびに忘れていた記憶がフラッシュバックし、そのたびに激しい頭痛が襲い掛かる。

 でもそれをやめることができない。

 イラストに描かれた小さな少女を目に焼き付けるように、二度と忘れないように凝視し、刷り込むように同じ言葉をつぶやき続けた。

 繰り返される言葉の数だけ埋もれていた記憶が掘り起こされていく。

 そうだ。

 僕は記憶を失っていたわけじゃない。

 思い出せないわけじゃない。

 閉じ込めていたんだ。

 現実を受け入れられずに、辛い事実から逃げ出したんだ。

 そうしなければ弱い自分なんかあっという間に暗闇に飲み込まれてしまう。


「レティ・・・なのか・・・?」


 その名前を口にし、そのイラストを見ても未だに信じられない。


「あの時・・・氷と一緒にバラバラに・・・うっ!」

「思い出したのか!?」


 急変した僕を見守っていた三人が答えを待っていた。

 手に持っていた報告書を長机に置き、眩暈の収まらない頭を押さえながらみんなの顔を見渡した。


「・・・はい。」

「そうか・・・では一度休憩を挟もう。これ以上無理をすると体への負担が大きいだろう。」

「すみません・・・」


 そしてその場は一度お開きとなり、僕はイロハさんの肩を借りてクルス様の部屋を後にした。


 ◇◇◇◇◇


 小一時間後、右目の痛みだけがしつこく残っているけど、クルス様やほかのみんなを待たせるわけにはいかない。

 気分転換もかねてクルス様の部屋ではなく食堂へ集まって話し合いが再開した。

 とはいえ僕自身何がどうしてイエスタに流れ着いたのか分からない。

 だから僕の分かる範囲、知っていることだけをそのまま伝えた。

 自分の名前、生まれた場所や何をしていたか。

 そして源泉での出来事。

 信じがたいことばかりだけど、イエスタで僕が使ったとされる氷の気と源泉に生まれた氷の柱の力の源が同質のものではないかという仮設が立てられた。

 そして僕が持っていた宝石とよく似た宝石が間欠泉で発生し、それと同時に気が溢れ出したことを加味する。


「やはりハクと間欠泉には何かしらの繋がりがあると見て間違いないだろう。」

「信じられませんが・・・本当にそうなんでしょうか?」

「本来ならもう一度間欠泉へ連れていきたいところなのだが、今は難しいだろう。それに・・・」

「それに?」


 クルス様はそこでいったん言葉を切って庭に目を向けた。

 夏の終わりが近づいているものの日が高いうちはまだまだ暑い。

 周りではしゃいでいる子供たちが池に入ってバシャバシャと水の掛け合いをしていた。

 ソラーナの光を受けて水が煌めき、庭の中を一陣の風が吹き抜ける。


「イエスタの間欠泉は機能を取り戻しつつある。急く必要もあるまい。向こうは向こうで片付けないといけない問題があるだろうしな。」

「向こう?」


 意味ありげな言葉に質問をしてみたけど首を横に振られた。

 気にするなということなんだろう。


「とはいえ優先して解決すべき問題があります。」

「うむ、そうだな。」


 カグラさんの言葉にクルス様は同意して僕の目を見た。


「そう・・・ですね。」


 その目線の意味を察し、僕は目を伏せながら力なく答えた。

 記憶を取り戻したからといって、何がどうということはない。

 不思議な力は自分の意志ではどうすることもできないし、間欠泉へ行ったとして、本当に何かが起こるという確証もない。

 そもそも僕自身に間欠泉にいく理由がなかった。

 大事な人たちを失ったという辛い現実だけが重くのしかかり、自分だけがのうのうと生きながらえている。

 そんな自分に吐き気すら覚える。

 食卓の上に置かれた最後の報告書に目をやって、涙が溢れそうになるのをぐっと我慢する。

 氷と一緒に砕け散ったと思っていたレティはデモンベアと一緒に氷漬けになっていた。

 あんな奴と一緒に閉じ込めてしまった自分を呪いたい。


「レティは僕の身代わりに・・・なんてことを・・・」


 悲しみとともに自身の無力さを痛感して、膝の上に作っていた握りこぶしが力を失う。

 貸してもらった手拭いを巻いた右目がしつこく痛み、手で覆って肩を落とした。


「あそこから出して・・・そしてちゃんと埋葬してあげたいです。」


 絞り出すように今の自分のやりたいことをみんなに告げた。

 レティにしてあげられることなんて、それくらいしか残っていない。

 母さんやローラおばさんの安否も気になるし、お世話になっていたトウジ先生やマーガスさんにも僕が生きていることを伝えたい。

 何とかしてトーシャ村に戻る算段を付けなければ。

 そう頭では考えるけど、実際のところ辛い思い出しかないあの村に足が向くか自信がなかった。

 幸せな思い出もあるけど、思い浮かぶのは辛辣な言葉や執拗ないじめばかり。

 何もできずに父さんとレティを死なせてしまって、半年以上も行方不明で、そんな僕が今更母さんやローラおばさんになんて声を掛けたらいいんだろう。


「君の生い立ちと置かれていた境遇には同情する。」


 哀愁の漂う表情を浮かべて僕を見つめながらクルス様が声をかけてきた。

 でもそれは一瞬のことで、すぐに表情を引き締めなおした。


「今、何を考えているか大体想像がつく。及び腰になる気持ちも分からなくもない。そしてあの子を氷の墓標から出してあげたいという気持ちも嘘ではないだろう。」

「・・・」

「だが・・・今の君では無理だ。」

「っ!?」


 冷たい表情を張り付けたクルス様から棘のある言葉が飛び出して僕の心に突き刺さる。

 唐突の否定に自然と肩が震えだし、俯いた顔をクルス様に向けることができない。

 息を吸い込む呼吸音が聞こえ、次の叱責が降りかかってくると感じて肩をすぼめた。

 目をつむってお叱りを受ける準備を整えた時、その予想を大きく上回る衝撃が僕の体を襲った。

 椅子に座って俯いていた左頬に硬いものがぶつかって椅子から転げ落ちた。


「父上っ!何を!?」


 突然の暴挙に驚きの声を上げたイロハさんはもちろんカグラさんや、庭で遊んでいた子供たちもクルス様の急変した姿に驚いて硬直した。

 口から流れ出た血が床を汚していく。

 猛烈に厚くなっていく頬に手を当てて恐る恐るクルス様の顔を見上げた。

 そこには鬼の形相となっているクルス様が僕を見降ろしていた。


「現実から目を背け、成すべきことから逃げ、そして自ら口にした目標さえも投げ捨てる!そんな奴に何ができる!否!何も出来ぬ!」


 その言葉が胸に突き刺さり、反論したくてもできない。

 いや、ほんとうに反論したかったのかもわからない。

 嫌なことから目を背け、されるがままに流されて。

 みんなが満足するならそれでいいと思った。

 自分が我慢することで周りに迷惑が掛からないなら、それでいいじゃないか。

 抵抗することに何の意味がある?

 反論することに何の意味がある?

 反抗は相手の暴力を助長するだけで、自分のためになったことなんて一度もなかった。

 だからそれでいい。

 クルス様の気が済むまで殴ってください。


「この・・・愚か者がっ!」


 無抵抗を貫いた僕の態度が気に入らないというように、クルス様はもう一回腕を振り上げるとこちらに一歩踏み込んできた。


「だめぇ!」


 熱を持ったクルス様の拳が僕の顔面を捉える瞬間、横から小さな影が割って入ってきた。

 その影は今にも座り込んでしまいそうなほど恐怖に体をブルブルと震わせていた。


「サキッ!やめろ危ないぞ!!」

「やだっ!もうハクおにいちゃんを・・・!」


 いったん止まったクルス様だったけど、怒りが冷めないのか、なおも拳を振り上げて叫んだ。


「そうやって同じことを繰り返すのか!?また幼子に助けられるのか!?見殺しにするのか!?」


 振り下ろされた拳が僕をかばうサキちゃんに吸い込まれていく。

 来るべき苦痛に備えたサキちゃんの横顔が目に映った瞬間、ちらりとこっちを見て弱弱しく微笑んだ。

 その姿があの時のレティと重なっていく。

 ギュッと閉じられた瞳から一滴の涙が零れ落ちた瞬間、無意識に雄たけびを上げていた。


「だから失うのだ!大切な人をっ!愛する人をっ!」

「うわぁぁぁぁぁぁーーーーー!」


 もう見たくない。

 僕のせいで誰かが傷つく瞬間なんて見たくないんだ。

 言いなりじゃ自分を守れない。

 抵抗しなきゃ自分はおろか、誰も守れない。

 レティの半分でいい。

 勇気を僕に。

 その瞬間、殴られた衝撃で震えていた足に力が宿り、サキちゃんの横をすり抜けるとクルス様の拳を左手で受け流した。

 姿勢を崩してよろけたところに一歩踏み込んで、ありったけの力を右手に宿して叫んだ。


「もう何も失いたくないっ!!」


 打ち出した拳が空を割いてクルス様の左頬に命中し、その衝撃で床に倒れこんだ。

 静まり返った食堂に張り詰めた空気が漂い、拳を突き出したままの姿勢で固まった。

 そしてふと我に返り、自分がしてしまったことの重大さに気づいて床に倒れたクルス様の横に座り込んだ。


「す、すみませんっ!・・・僕、とんでもないことを・・・」


 見るとクルス様は僕と同じように口の端から血を流し、殴ってしまった頬が赤く腫れあがっていた。

 恩を仇で返すような行いに、床にこすりつけた頭が引っ付いて離れそうにない。

 すると僕の頭に暖かいものが覆いかぶさってきた。

 それがクルス様の手だと気づくのにしばらくの時間が必要だった。


「それでよい。それでよいのだ、ハク。」

「えっ?」


 さっきまでとは打って変わって穏やかな声が食堂内に染み渡った。

 顔を上げると、僕をとらえた瞳には厳しさを漂わせながらも慈愛を湛えていた。

 倒れた体を支えるように起こすと言葉をつづけた。


「先ほど、今の君では無理だといったが、あれは本心だ。今のままではグランザムに帰ることはおろか、イエスタから・・・いや、この屋敷から出ることも叶わんだろう。」

「・・・」

「自分でも分かっているはずだ。その理由が何なのか。そして必要は物が何なのか。この先は私の口から告げずともよいな?」

「・・・はい。」


 クルス様は僕の返事を聞くと満足そうに立ち上がって椅子に掛けて、僕にも座るよう促してきた。

 身を挺して守ってくれたサキちゃんはクルス様から見えないよう僕の背中の後ろに回ってちらちらのぞき見している。


「大丈夫だよ。あれは僕が悪かったんだ。」

「そうなの?でも・・・は駄目だよ!」


 ところどころ分からない言葉が混ざっているけど、前後を読み取って意味を理解する。

 サキちゃんはそういってほっぺたを膨らませてそっぽを向いた。

 僕は感謝の気持ちを伝えて頭をなでるとクルス様に向き直った。

 座るよう促したということは、話しの続きがあるということだろう。


「これから話す内容は君の今後を決定づけるだろう。先ほどサキを守らなければ話しは終わっていただろうな。」

「試されていたんですね。」

「すまないがそうだ。ああでもしなければ君は腐ったままだっただろうからな。」

「返す言葉もありません・・・」


 そうだったとはいえクルス様を殴ってしまって本当に申し訳ない気持ちでいっぱいになる。


「一度決めたからには振り返るな。常に前を見るのだ。振り返っていいのは死ぬ時だけだ。よいな?」

「はい。」


 そういうとレティが閉じ込められているイラストが載った報告書を僕の前に寄せた。

 胸がチクリと痛んだけど、今はそれを気にしている場合ではない。

 クルス様の話すことに意識を集中した。

 しかし次に告げられた言葉が集中をかき乱した。


「その娘は生きている。」


 生きている。

 生きているというのはどういうことだ?

 氷漬けのまま半年近くも飲まず食わずで生き続けられる人間なんているわけがない。


「ちょ・・・ちょっと待ってくださいっ!そんなことあるわけないじゃないですか!?」


 驚きと戸惑いを隠せず声が上ずってしまう。

 僕に生きる希望を持たせようと変に気を回してくれたんだろう。

 でもそんな必要はない。

 僕は決めたんだ。

 ちゃんとあそこから出して埋葬してあげるって。

 そんな僕の決心を揺るがすかのようにクルス様は言葉を重ねた。


「その娘は生きている。」

「そんな・・・ことって・・・」

「この報告書にはそう書いてある。まぁ、向こうの調査内容が的外れな可能性も否定はできんがな。」

「そんな・・・もし・・・本当に生きてるんなら・・・」

「そうだ。救うことができるやもしれん。」


 その言葉を聞いた途端、とめどなく涙があふれてきた。

 諦めていたレティの命を救えるかもしれない。


「だが、話しはそう簡単ではない。いつまでたっても溶けないあの氷は現段階では破壊が不可能。金槌で殴ろうが火で炙ろうが欠けることもなければ、溶ける様子もないそうだ。」

「氷じゃないということでしょうか・・・」

「氷ではあるらしいが本質的には違うのかもしれんな。操気術、向こうでいうところの精神術もそうだが術者の連想したものに添って組み上げられる。」

「それはつまり、氷であって氷じゃないということですか?」

「だろうな。ある種の結界や封印の類に近いという見立てだ。そうなると術者以外では解くことができん。」

「そう・・・なんですね。」


 レティの命が手に届きそうなところまで来たのに指の隙間からすり抜けて落ちていく。

 がっくりと肩を落とした僕を見てみんながきょとんとした。


「ハク、あなたが術者。」


 どうしたんだろうと思って顔を見ているとイロハさんからそう告げられた。


「僕が・・・術者?」

「そう。ハク以外にあんなことできない。」

「だって僕は・・・気でしたっけ?そんなの操ったことないですよ?」

「それはハクが知らないだけ。私が知っているハクはすごかった。」


 真摯に僕を見つめるイロハさんの言葉に嘘など感じられるはずもない。

 繰り返しの否定を否定されてそうなのかと納得しかけたけど、やっぱり僕にそんな力があるとは思えない。

 精神術に関しては思い出したくもないけどドランが模擬戦で使ってたやつのことだろう。

 確か布切れに文様が描かれていて、それをどうするんだっけ。

 そもそもあの布切れがどういうものかもわからないし、気を操るって言われてもあまりに抽象的だ。

 だけど、本当に僕が術者なのであれば氷の柱はどうにかできるということになる。

 弱気になっている時間なんてない。

 思い出の中のレティからもらった勇気を胸に刻み付け、もう二度と振り向かないと心に誓い、椅子から立ち上がってみんなに深々と頭を下げた。


「教えてください。気の使い方。そして必ずレティを!」


◇◇◇◇◇


 屋敷を吹き抜ける風が澄んだ大空へ舞い上がり、そして空の彼方へ消えていく。

 その風は遠く離れたかの地へ舞い降り、静かに佇む氷の監獄を優しく包み込んだ。

 祈りを捧げた少女の体にほんの少しだけエーテルの光が灯り、そして何事もなかったかのように消える。

 その小さな変化はやがて訪れる波乱を示唆するかのように少女の胸の奥へ溶けていった。



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