第56話 目覚め2
さっきの喧騒が噓のように静まり返った離れに小さなうめき声が響いた。
朝日が差し込んで眩しかったからなのか体調がすぐれないのか理由はわからないけど、ゆっくりと目を開けた後、少し痙攣気味に目を細めた。
今までとは明らかに違う反応を示している。
これまでは五感すべてに無反応で、当然日の光を眩しがるなんてことはなかった。
見せたことのないしぐさに笑顔を輝かせたサキが大きな声をかけた。
「ハク・・・ハク!見えてる?サキだよ?」
うちへ来たときは手入れが大変だからと短くしていた髪も、今ではかなりの長さになったので頭の上でお団子にしている。
そのお団子がぴょこぴょこと嬉しそうにハクの顔の前で飛び跳ねている。
その隣でシンも神妙な面持ちでハクの様子をうかがっていた。
この二人にとってハクという人物がどういう位置づけなのかは分からないけど、ずっと面倒を見てきたというつながりはそんなに単純なものではないんだろう。
「どうなんだよハク?オレたちがわかるか?」
徐々に明るさに慣れてきたのか、ハクは小さく呼吸を繰り返すと細めていた眼を開くと、自分に向けられている八つの目を順番に見渡した。
その動きは明らかに意思があるものの動きを示唆している。
私と目を合わせたカグラが「シバ先生!」と大きな声で呼びかけると、半壊した母屋の奥からバタバタとあわただしい足音を上げながらぼさぼさ頭が姿を見せた。
母屋から離れまで全力で走ってきたシバ先生は運動不足が祟ったのか、肩を上下させて荒い呼吸のままふらふらと離れの畳に上がってシンの隣に滑り込んだ。
「先生・・・大丈夫かよ?」
「え・・・ええ・・・なんのこれしき・・・」
日頃どれだけ運動してないのか気になるけど、今はそっちじゃない。
シバ先生はハクの顔をまじまじと観察した後、焦点の定まりきっていない目を指で開いてのぞき込む。
何やらうんうん唸りながら懐に手を突っ込んで聴診器を取り出し、襟元に突っ込んで胸の音を聞き始めた。
その後簡単な確認を済ませると耳から聴診器を外して首に掛け、私たちを見渡した。
「絶対安静は変わりませんが、もう大丈夫でしょう。」
「ホント!?」
「えぇ、感覚はすべて戻っているとみていいでしょう。しかしなぜ・・・」
そういうとうっすら開かれている右目をまじまじと見つめて黙り込んでしまった。
直後、待ってられないとばかりに考え込んでしまったシバ先生を弾き飛ばし、シンが体を割り込ませてハクに声をかけた。
「おいハク!よかったな!つきっきりで看病してくれたサキに感謝しろよ?」
「え?別にいいよ・・・」
シンに名前を言われたサキが急に照れ臭そうに俯いた。
だけどシンのいうとおりだと思う。
貧民街にいたころからずっとハクを気遣ってきた。
そういう意味ではシンも同じなんだけど、そこは兄として妹を優先させたんだろう。
急にかわいらしいところを見せられて心がほんわかあったかくなった。
「な、なんだよイロ姉ぇ!急に頭撫でんなよっ!」
急な私の行動に驚いたのか照れ隠しなのか、手を振り払うと後ろを向いて腕を組んだ。
ハクの意識が戻ったことにみんなが安堵し、その場が和やかな雰囲気に包まれて笑い声が重なり合う。
終始無言のハクは状況が飲み込めてない様子で、小さく口を開けると小魚のようにパクパクさせながら私たちの様子を不安そうにうかがっている。
ふと目をハクに落とした私に気づいて視線が交差する。
どう声をかけていいのか迷ってもじもじしていると、とても動揺した素振りで何か言葉を口にした。
「%$&#・・・」
「なに?」
「・・・%$&#・・・」
何を言ったのかわからなくて聞き返したけど、やっぱり何を言っているのかわからない。
カグラと顔を見合わせると、少し考えた後立ち上がって「ちょっと待ってて」と言い残して母屋に駆けていった。
何事かと思って母屋に目を向けると、損壊した母屋の前であれこれ指示を出している父のもとへ駆けより、二言三言話をすると父を伴って戻ってきた。
見知らぬ顔の登場に更に困惑した様子のハクを見て父が口を開いた。
「*#$%*#$*$+#」
「!?・・・%#$&#$・・・?」
口を開いた父は聞きなれない言葉を口にし、その言葉を聞いたハクがびっくりしたような表情を浮かべると少しだけ微笑んだように見えた。
「このままというわけにはいかんな。とりあえずの部屋を見繕うしかあるまい。」
ポカーンと口を開けている私たちを尻目に、父とカグラの二人だけがこの状況に納得した様子で話しを進めていく。
「クルス様!ハクはなんて言ったんだ?」
「父様だけお話してずるいよー」
二人の苦情を聞いた父は小さな微笑みを浮かべた。
「おぉ、それは悪いことをしたな。」
そういってサキの頭を撫でながらセツを呼び、後の処理を任せるとみんなの顔を見渡した。
そして少し間を開けてカグラと目を合わると父が口を開いた。
「ハクはグランザムの者だ。」
そう言われてびっくりはしたけど、特にそれ以上の感情はない。
髪の色から目鼻立ちに至るまでイエスタの者とはかけ離れている。
意思疎通となる最初の言葉も何を言っているのかわからなかったから、そうだろうとは思っていた。
ただ小さい二人にはその事実の衝撃は大きかったらしく、目を白黒させて見つめ合っている。
「グランザムだって!?・・・グランザム・・・グラン・・・ザム?」
「ねぇシン、ぐらんざむってなぁに?」
初めて聞いた単語のようで、二人ともグランザムが何なのか理解できていない。
特に混乱のひどいシンに対してカグラが話しかけた。
「グランザムっていうのはね、ここイエスタからずっと西にある国のことよ。今、この世界で一番大きな国ね。」
「へぇ、そうなのかー。そんな奴がなんでイエスタにいるんだよ?」
シンから至極当然な質問が飛び出してみんなが固まってしまった。
どこから来たのかという問いに対して初めて回答を得られただけで、それ以外のことについては全く分かっていない。
絶対安静を言い渡されたハクはセツが連れてきた下男に担架に乗せられて母屋に連れていかれ、それ以降の情報を得られないままだ。
それ以前に安静にしないといけないから、根を詰めて話をすることもできないだろう。
「シバ先生もおっしゃったように、今のハクにはしっかりお休みと栄養を取ってもらわないとね。二人とも、あんまりハクに近づいちゃ駄目よ?」
「そっか・・・そうだな。分かったよ。」
「えー、ハクとお話しできないの?」
なおも食い下がるサキに「今はね。すぐに良くなるわ。」と安心させるように声をかけると、こっちに近づいてくるとニヤリと笑った。
「イロハもハクと話しがしたいんなら、あっちの言葉を勉強しないとね。」
自分は準備できていると言わんばかりの表情を浮かべて煽ってくる。
確かにほかの国の人と会話をすることなんて考えてなかったし、ハクが外国の人だと薄々感じながらも対策を講じようとも思わなかった。
身から出た錆にげんなりしながら、本棚に語学本なんかあったっけなんてことを思い浮かべた。
◇◇◇◇◇
長い夢を見ていたような気がする。
どんな内容なのか思い出せず、暗い海の底を漂っているような感覚だけおぼろげに思い出されるけど、それが本当に合っているのかさえ分からない。
何も考えたくないし何も思い出したくない。
そんな感情が心を塗りつぶして、なんでそんな感情だけが渦巻いているのかも分からない。
膝を抱えて丸くなり、何も考えずに闇の中に溶けていたい。
そんなことを考えていたように思う。
その時、闇の向こうに一筋の光が差し込んできた。
もうずっと見なかったその光の眩しさに自然と手が伸びた。
なんでそんなことをしたのか当然わからない。
何もない暗闇の世界に閉じこもっていたかったはずなのに、なんで手を伸ばしたのだろう。
だけど差し込まれた光に手が触れた瞬間、とても気持ちのいい感覚に包まれた。
冷たかった手を包み込む光はやがて僕の体を映し出して、自分が人間だったことを思い出す。
差し込んできた光はその激しさを増しながら僕という人間の輪郭を暗闇の中から切り取って引っ張りあげていく。
視界のすべてが光に包まれたとき、あまりの眩しさに目を瞑った。
そしてその光が収まっていき、ゆっくりと目を開けてみると僕の目に四人の顔が映し出された。
何かとてもいいことがあったのか、みんなにこにこして笑っている。
すると一人の少女が僕のほうを見た。
顔の横に垂れ下がった黒い髪を耳に掛けなおし、髪と同じ色の瞳が僕の目をじっと見つめている。
何を言おうとしているのか、小さな口がすこし動いたけど言葉が聞こえてくることはない。
体を動かそうにもなぜかいうことを聞いてくれないし、ここがどこなのかこの人たちは誰なのか、そして僕は何者なのか。
何もかもが分からない。
「ここは・・・?」
満足に動かない体に鞭うつように言葉を絞り出して聞いてみた。
帰ってきた答えを受け取ったところで何が分かるのか、それすらも定かじゃないけど、きっとこの人たちは僕のことを知っているに違いない。
でも僕を見つめる瞳は困惑の色に変わって何かをしゃべった。
「&$%?」
耳に滑り込んできたその小さな言葉は僕には理解できない言語だった。
そもそも今僕が口にした言葉も言葉として成立しているのか怪しいけど、するっと口から出てきたことを思うとそれは間違ってないと思う。
そう考えるとこの少女が口にした言葉は僕が聞いたことのない言語なんだろう。
「・・・ここは・・・?」
もう一度同じ質問を繰り返してみたけど、反応が変わることはなく困り顔を張り付けたままだ。
直後、その少女は反対側にいる長い黒髪の女性に目線を移し、目の合ったその女性は何かをつぶやくと立ち上がって走っていった。
しばらくするとその女性は中年の男性を連れて戻り、そしてその男性が僕を覗き込んできた。
「心配しなくていい。ここは安全だ。」
「!?・・・言葉がわかる・・・?」
その男性から発せられた言葉は僕が理解できる言葉で耳に届いた。
見知らぬ人に囲まれ、自由に体も動かせず何もわからない不安を見抜いたように告げられた言葉が少しだけ緊張を解き、自然と笑みがこぼれた。
そのあと、しばらくすると男の人たちが来て僕を持ち上げると担架に乗せられて移動を始めた。
僕が寝ていた場所では理解できない言葉が飛び交っている。
僕を乗せた担架はなぜかボロボロの建物の中に入っていくと、どこかの一室に移動し、草のようなもので編まれた敷物の上に引いている布団に寝かされた。
飛び込んでくる情報の多さにめまいを覚えて目をつむると途端に睡魔が這い寄ってくるのが分かった。
どうせ今の僕には何もできない。
考える力もなければ抗う力もない。
とりあえず今は安全だと告げられた言葉を信じて睡魔に身をゆだねた。
目を覚ますとボロボロだった部屋には壁と天井ができていた。
とはいえ、もともとあった素材とは違うものが強引に取り付けられているようで、それが応急処置であることが分かる。
とても大きな嵐に巻き込まれたんだろうし、何があったんだろう。
療養が終わったら修復の手伝いくらいはしないとまずいんじゃないだろうか。
それにしても。
「グゥー・・・」
体を動かすこともできないのに、しっかりとおなかは減る。
申し訳ない気持ちでいっぱいになるけど食べ物でおなかを満たさない限り、この腹の虫は泣くことをやめてはくれない。
だからと言って「早くご飯を持ってきて!」などと言えるはずもない。
しばらく腹の虫を黙らせる別の方法を考えていると、仮設の板張りの戸がゴトッと音を立てて開いた。
ゆっくりと開いた戸の隙間からソラーナの光が差し込んで、薄暗い部屋の中をうっすらと照らし出す。
それと同時に小さな丸い影が現れると、素早く部屋に入り込んできて布団で寝ている僕の目の前にのぞき込んできた。
倒れこんできそうな勢いで僕の顔を凝視する四つの目が薄明りの中に浮かび上がり、びっくりして目を丸くする。
そしてその直後。
「「#$&*#&&*%#&!!!」」
大きな声で理解できない言葉が飛び出し、何が起こるのかわからず目をぎゅっと瞑った。
次の瞬間、胸にドスンと柔らかいものがぶつかってくる感触が伝わってきて恐る恐る目を開けると、そこには小さなお団子が乗った頭が視界を塞いでいた。
状況が飲み込めないけど、どうやら僕は小さな子供にしがみつかれているようだ。
そしてもう一人の影は元気そうに笑いながら僕の肩をバシバシ叩いている。
「ちょっと・・・落ち着いてもらえるかな?」
伝わらないとは思うけど、できるだけ優しい声で話しかけてみた。
するとその子供たちはピタリと動くのをやめ、大急ぎで部屋を飛び出していった。
やはりさっきの言葉は理解してもらえなかった様子。
遠ざかっていった足音が止んでしばらくすると、今度はバタバタと慌ただしく近づいてくる。
この家の人たちは随分と慌てん坊が多いようだ。
中途半端に開かれていた戸が勢いよく開いてバシンと音を立てて止まる。
逆光でよく見えないけど、さっきと同じ小さな影が二つ滑り込んで僕の両側に陣取ると怒涛のように話しかけてきた。
どうやら男の子と女の子のようだ。
よく似ているし兄妹なんだろうか。
そして人影はもう一つあり、その人物は部屋に入る前に大きな声で誰かを呼ぶように声を上げると、ゆっくりと部屋に入ってきて男の子の後ろに立ち、ぼそりとつぶやいた。
すると騒いでいた子供たちはふてくされたように返事をして静かに座りなおした。
静かになった部屋の中、改めてその子供たちと後から入ってきた人物に目を向けた。
男の子はすこし野性的な目つきと元気を形にしたように短く刈り込まれた黒髪が特徴的だ。
女の子はおっとりした表情で頭に黒いお団子を乗せている。
そんなそばかす顔の二人とは対照的に、膝立ちで見降ろしている少女は随分と物静かな印象を与えてくる。
顔の右側で髪を留め、意思の強そうな大きな瞳がそらすことなく僕を見つめている。
少女とは言うが僕とそう変わらないような気もするけど、実際のところは聞いてみないとはっきりしない。
そしてしばらく沈黙が続いた。
とても居心地の悪さを感じ、伝わらないとわかっていても何かを口にしようとした矢先、その少女から言葉が聞こえてきた。
「おはよう・・・ございます。」
「え?」
とてもたどたどしい口調ではあったけど、僕にも理解できる言葉がその少女から発せられた。
聞きなれた朝の挨拶に驚いて返事をするのも忘れて質問が飛び出した。
「僕の言葉、分かりますか?」
「・・・」
僕の言葉を聞いた少女はそれ以上何も言わず下を向いて黙り込んでしまった。
どうしたらいいのかやきもきしていると、部屋の外から新しい足音が聞こえてきた。
開かれた戸に再度新しい影が姿を現すと、今度は女の子の後ろに移動して僕を見降ろした。
「初めまして。調子はどう?」
長い髪をポニーテールのように一つに括り、白い衣装に身を包んだ美しい女性から透き通るような言葉が紡がれた。
優雅な身のこなし、慈愛に溢れた表情、そして冴えわたる白と黒のコントラストに女神でも現れたのかと呆然と見つめてしまった。
すると少しムッとした表情を浮かべた少女が小さく咳払いをした。
「す、すみません・・・こんなに美しい女性を見たことなかったもので・・・」
そういうと女性はくすっと笑みを浮かべるとムッとした少女に何か話しかけた。
すると少女は小さくため息を付いて女性に何かを伝えた。
それを聞いた女性は頷いてこっちに目線を映して口を開いた。
「私の言葉、理解できるわね?」
「はい、分かります。」
「よかったわ。とりあえず今はしっかり栄養を取って。いろいろ気になるとは思うけど、今はしっかり体力つけなきゃね。」
「あ、ありがとうございます。でもどうして・・・」
そんなに良くしてくれるのか聞こうとしたタイミングで、その女性は人差し指を立てた右手を自分の唇に押し当てた。
今は気にするなという意味だと受け取るとそれ以上は口を閉ざして頷いた。
「すぐにご飯の用意をするから」と言うと子供たちや少女を追い出すようににして女性も去っていく。
その時小さな女の子が振り向いて元気よく手を振ってくれた。
なんでそんなに僕に愛嬌を振りまくのかわからなかったけど、精一杯の笑顔を浮かべて返事をしたら満足したのか、女の子は満面の笑みを浮かべて部屋を後にした。
静かになった部屋の中はさっきとは打って変わって静寂に包まれる。
相変わらず何もわからない。
ここがどこなのか、自分が何者なのか、そもそも自分の名前さえも。
胸にぽっかりと穴が開いたような感覚が付きまとって離れてくれない。
最後に見せた女の子の笑顔を思い出し、なぜか妙な胸騒ぎがして布団に頭からくるまったけど寒気を取り除くことはできなかった。
プッツリと切れた記憶の糸を手繰ってもここで目覚めたところからしかなく、今はどうすることもできない。
さっきの女性が言った通り、今は体調を整えることを優先するしかなかった。
◇◇◇◇◇
それからは怒涛の日々の連続だった。
この家の人たちから僕はハクと呼ばれている。
髪の毛が白いからという何とも分かりやすい理由もシンプルでいいんじゃないだろうか。
随分長いこと寝たきりや運動不足だったらしく体力がかなり低下していたようで、立ち上がるのも苦労してしまう。
とはいえ栄養価の高い食事やよくわからない治療を受け続け、今では普通に歩けるくらいには回復した。
瓶底メガネをかけた怪しい医者風のシバという先生に施される治療が何とも怪しくて怖いけど、衰えた筋肉の再生に一役買っているとのこと。
人は見た目で判断してはいけない。
しっかり感謝を伝えなければ。
体のほうは順調に回復しているけど、次に問題となってくるのが日常会話だ。
カグラと名乗った女性からこの家に住んでいる人のことは一通り教えてもらった。
そして今僕が分かる言葉を話せるのはそのカグラさんと家主であるクルス様の二人だけ。
それ以外の人とはちゃんと意思疎通ができない。
にもかかわらず、朝から晩まで、何なら寝るまで付きっきりで離れようとしないサキちゃんには手を焼いてしまう。
四六時中、意味の分からないイエスタ語で話しかけられて困り果ててしまうけど、シン君と二人でずっと看病してくれていたと聞かされると無下にできるはずもない。
なんでそこまで僕に気を使ってくれるのか言葉が通じないので聞くこともできないけど、向けられる笑顔はとても心地よく、いつまでも眺めていられそうだ。
言葉が通じないという共通点でいうとカグラさんの妹のイロハさん。
彼女はなんだかとても不思議な人だ。
口数は少ないけど表情がころころと変わり、今何を思っているのか何となく想像できる。
こっちから話しかけることはあんまりないけど、向こうからは毎日必ず話しかけてくるし、僕が口を開くと分からないなりに意味を理解しようとしてくれているのが伝わってくる。
きっとまじめな人なのだろう。
朝はいつも母屋から少し離れた道場と呼ばれる建物に籠って汗を流しているらしい。
何かが風を切る音が聞こえ、時折硬いものがぶつかり合う音も聞こえてくる。
何をしているのかカグラさんに聞くと「本人から聞きなさい」と悪戯っぽくあしらわれてしまった。
そして今日も新しい朝を迎えた。
ボロボロだった屋敷は順調に修復工事が行われて、当時の面影を残しているのは僕が寝かされていたという離れと庭に点在していた灯籠くらいだろうか。
面影を残す、というよりはもともとそこには何もなかったように空地となってしまっている。
部屋の戸を開けて朝日を浴びるように腕を上げて伸びをすると、タイミングを見計らったかのようにシン君とサキちゃんが隣の部屋から飛び出してきて抱きついてくる。
これもほぼ日課と言っていいほど常態化している。
「ハク!おはよう!」
「おはよう!ハクおにいちゃん!」
最近はそこそこ言葉が聞き取れるようになってきた。
とはいえ名前や朝夕の挨拶、問いかけや簡単な肯定と否定などの受け答えに使う単語くらいで、熟語はまだまだ全然聞き取れない。
サキちゃんは数日前から僕の名前の後ろに『おにいちゃん』を付けるようになった。
何か心境の変化でもあったのだろうか。
「サキ!・・・」
「シンは・・・」
シン君が腕を腰に当ててポーズをとっている。
どういう意図なのか全部を理解することは難しいけど、サキちゃんはシン君に『おにいちゃん』を付けて呼んでないから、そこが気に入らないのかもしれない。
その後サキちゃんがシン君に答えたけど、軽く握った拳を振り上げてサキちゃんを追いかけ始めた。
暴力はよくないとシン君を止めに行こうかと思ったけど、二人とも笑顔だし問題なしと判断して廊下を進んだ。
そして今日も朝早く、道場から風を切る音が聞こえてくる。
この音を聞きながら食堂へ向かい、セツさんが作ってくれる朝ご飯をいただいてから午前中は子供たちと座学。
午後は基礎体力作りと称して屋敷の周囲をランニングしたり筋力トレーニングをするよう言われている。
どちらも生きていく上では必要な能力だし、断る理由なんて見当たらない。
僕のことを考えてあれこれ教えてくれるクルス様には頭が上がらない。
そうこうしていると今日という日が駆け抜けていって、あっという間に就寝時間だ。
暦の上では夏終盤ということもあって、だんだんと夜が肌寒くなってきた。
寝る前、部屋の前の縁側に腰かけて薄曇りの中に輝く夜の星ルーメルを見上げた。
優しい人たちに囲まれて毎日が充実している。
今の僕にとって何不自由ない生活だ。
このままずっとここで。
「・・・」
そんな風に考えると必ず胸の奥がチクリと痛む。
その痛みの理由に心当たりはない。
だけど、どうしようもなく悲しくて切ない思いがこみ上げてくる。
屋敷のみんなの顔を思い浮かべると、その顔の上に見知らぬ顔がぼやけて重なり、それが誰なのか分からなくて頭を掻きむしった。
思い出せない記憶のことを普段は気にしないようにしているけど、一人の時間が訪れるといやでも考えてしまう。
「忘れてしまえ」という自分と「思い出せ」という自分が頭の中でせめぎ合って心を侵食していく。
「何も考えたくない・・・このままでいいじゃないか・・・」
折れそうになる心を支えようとして言葉が口から洩れ落ちる。
胸に飛び込んでくるサキちゃんの記憶にもやがかかって薄緑色の何かが上塗りされていく。
「やめてくれ・・・」
それは徐々に人の顔へと変化していき、サキちゃんの顔を塗りつぶすと僕の顔を見上げた。
薄緑色のおさげ髪の少女には顔がなく、二つの黒い穴が僕の顔をとらえて離さない。
『おにいちゃん・・・』
「ひっ!」
口のない顔から聞くに堪えないしゃがれた声が直接頭に響いてくる。
それを消し去るように腕を振り回し、頭を抱えてひざを折った。
『たすけて・・・おにい・・・ちゃん・・・』
「もう・・・やめてくれ・・・これ以上・・・苦しめないで・・・」
胸の奥の真っ黒い部分から押し寄せてくる怨霊にも似た思念が全身を包み込んで離そうとしない。
もう何度も見てきた光景なのにしみついた恐怖に抗うことができない。
縋りついてくる怨霊の腕を振りほどきながら部屋に戻って布団を頭から被り、膝を抱えて震える。
この悪夢のような時間から解放されるには睡魔に意識を委ねる以外に手段はない。
そう、何も考えなくていい。
この時間だけはいつも僕に優しかった。
そうして自分の殻に籠るように丸くなり、やがて訪れた睡魔に意識を差し出した。
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